Kの悲劇 ★「初恋」企画★短編大喜利★
★「初恋」企画の参加作品★
武 頼庵(藤谷 K介)さんの「初恋」企画への参加作品です。
★短編大喜利企画の参加作品★
記憶者Bさんの”【お題】「○○の悲劇」というタイトルでコメディー短編をお書きください”に対する回答作品です。
「帰りの会」の終わりを知らせるチャイムが鳴った。起立、気を付け、礼。さようならの合唱の終わらないうちから、何人かの生徒がランドセルを腕にかけて教室を飛び出す。
私の目は一人の男の子の背中を追っていた。
「香歩、帰らないの」
三、四年生のころから同じクラスの萌枝が話しかけてくるが、私は生返事しかできなかった。その男の子は今ごろになってランドセルに荷物を詰めこんでいる。
「いっしょに帰ろうよ」
「ごめんね、今日は用事があるの。また明日!」
彼が立ち上がるのに合わせて、私も立ち上がった。不満げな顔の萌枝をあとに残して、私は教室を出た。
私は彼――晴斗くんの数メートル前を常に先導するように昇降口を目指す。五年生になり、クラス替えをしてからそろそろ一か月経つが、いまだに晴斗くんは私の名前を覚えてくれている気配が無い。
大西香歩。
小田晴斗。
あいうえお順に並んだ下駄箱は、私と晴斗くんの靴を上下に並べてくれている。ロッカーだって並んでいる。なのに、晴斗くんは、先生に頼まれて宿題のノートをみんなに返すとき、私のノートを持って私の目の前をうろうろしていた。まるで私の顔と名前を認識していないみたいだった。
それがなんとなく悔しいと思って晴斗くんを意識しはじめたら、あとはもう止まらなかった。毎日どこかに寝ぐせのついている、伸びた髪がかっこよく見えた。あまり友達とつるまないところがクールに見えた。人の名前と顔を覚えるのが苦手なのに、頼まれたノートを最後まで配りきろうとした責任感の強さが頼もしかった。
私は、なんとしても彼に名前を覚えてもらいたかった。そのために、ベタで手垢のついたような作戦を打ち立てた。
外履きに靴をはき替えて外に出ると、前庭に植えられた紅白ピンクのツツジが早くも咲き出して、青みがかった甘い香りが風に運ばれてきた。ツツジは繊細なおしべとめしべを空に向けていて、そのカールしたシルエットは化粧をした睫毛に見えた。ぱっちりと開いたいくつもの目。目。目。私を見て、と言っているみたいだった。
晴斗くんも靴を履いて昇降口を出てきたのを、体は振り向かずに目だけで確認して、私は帰り道を歩きはじめた。ここから晴斗くんと別れる交差点まで、あくまでも自然に彼の数メートル前を歩き続けて、交差点まで来たらハンカチを落とせばオッケー。私は晴斗くんの責任感を見込んでいる。
ハンカチには、私の名前をローマ字で刺繍してある。拾ってくれれば、女子力をアピールできる。その場で「落としたよ」と教えてくれれば、そこで会話ができる。そのまま持っていてもらっても構わない。むしろ、家で私のことをちょっとでも考えてもらえたら私は幸せだ。もしも拾ってもらえなかったら……いや、晴斗くんはきっと目の前の落し物を無視しないだろう。
さあ、その時が来た。私は交差点に差し掛かるところ、車道に出る手前のところで、ハンカチを落として見せた。どきどきしながら横断歩道を渡る。
さあ、気付け、拾え、そして名前を見ろ……!
私は、背後を確かめたくなる気持ちを懸命に抑えて、横断歩道を渡り終えた。歩行者用の青信号が点滅する。
「大西さん!」
晴斗くんが私の名前を呼んでくれた!
晴斗くんは、私を呼ぶだけにとどまらず、走って横断歩道を渡ってきた。晴斗くんの家とは違う方向なのに、わざわざ私を追いかけてきてくれた。期待を込めて振り向くと、晴斗くんはめずらしく笑っていた。
「はい、これ。落としたよ」
晴斗くんがハンカチを差し出してくれた。
「あ、ありがとう」
「えっとさ、その……香歩って名前さ」
晴斗くんははにかんだ末、私の名を口にした。しかも下の名前を。
私の心臓が跳ね上がったその直後、晴斗くんは小声で言葉を続けた。
「直したほうがいいよ、それ」
ハンカチを受け取ると、刺繍の糸が抜けてKの文字が消えていた。