矛盾こその矛盾。
わかりやすい、話。
とある会社。
能のない、人望もない、社長がいる。
短絡的であり、思いつきを人にやらせ、プランニングも無いまま話だけを進め、当然、失敗をする。
損失やら無駄遣いは億円単位。
もちろん言いつけられた社員は、本業で多忙の中、突然の匙投げに、まるっきり責任を負わされ、お詫び行脚、生活ががらりと変わるほどの給料降下。
関係者からお客まで、全てまるっきり。
社長は実務の事は何も分かっておらず、100人以上の規模ながらも、人を把握した気になり、適材適所などという事もなくデザイナーを事務にしたり、経理を営業にしたりとめっちゃくちゃに。
毎年引継ぎでなおさら忙しい。お客も担当者がコロコロ代わるのでやりづらい。
社長は、どうしてうまくいかないのだろうと考えた。
短絡的なので、「失敗しない」自分が、直接社員に教育をしようと結論を出した。
社員からすれば、さらに迷惑、小さな子どもから授業を受けるのにはまだしも、権力を持った子供脳からの授業を、忙しい中受けねばならない。
ましてやレポートを書くだので、社長の気に入りそうなレポートを書かねばならないのだ。
残念ながら授業の内容は、個人の人格を肯定し、主体的行動を行うというもの。
その、授業自体が能動的であり、ご機嫌取りになることすらもわかっていない。
またさらに、恨まれ役を買ってでて、素直に皆が思っている事をまとめてレポートを出したらば、なんともこの社員全員からの人望厚い人を、社員全員の前で卑下したのだ。ただの一社員であるのに。
この人がいないと会社が回らないというその人を。
何より問題なのは、その一社員のいる場所に社長が立場を考えず下りてきたこと。
つまり、社長としてあってはならない。人としてもやってはならない。
一社員は、皆から心配をされたが、まぁ、仕方ないんじゃないかね、と一言で終わらせた。
ある意味では授業になったのかもしれない。
人格者とはこういう人だということを。
どうして、どうして、と考えるようなものはせいぜいうまくいかない。マイナスからゼロにする考えであり、100%努力が実ってもゼロなのだ。
死ぬまでゼロにも到達しない。
ならばどうあるべきかの答えはない。
ただ、握手をできる人がいるかどうかは、鍵になる。
握手をしたならば、会話ができるのだ。
短絡的とはそうあって良いと思う。