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死ぬたびに弱くなる勇者は、勝つために考える  作者: Futahiro Tada
第2章:学習する迷宮

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3:声を捨てて、足で勝つ

3:声を捨てて、足で勝つ


 「交換! 後ろ!」

 俺の声は反響して、すぐに薄くなる。だが命令は届いた。全員が一斉に半歩ずつ下がり、隊列の形を崩さないまま距離を取る。

 ――のはずだった。

 水の穴が、広がっている。

 最初は丸かった縁が、今は歪な花びらみたいに波打ち、じわじわとこちらへ伸びてくる。水面が膨らみ、指の形に盛り上がる。掴む気だ。引きずり込む気だ。

 耳を塞いでいるのに、あの声が頭の中に残っている。グレンの声。冷たい言葉。

 資産として

 フィーネが、こちらを見て頷いた。耳を塞いだまま、口だけで短く言う。

「呼吸」

 俺は頷き、鼻から吸って、口から吐いた。焦りを身体の外へ出す。迷宮は焦りを燃料にする。燃料を渡すな。

 セラが義足を鳴らし、床にしゃがみ込んだ。水面に釘を投げたまま、さらに工具箱を開ける。中から取り出したのは、小さな袋と、蝋で固めた棒。

 彼女は袋を開け、白い粉――塩に似た粉を、床に撒いた。

 水の縁が、そこで一瞬止まった。

「塩……?」ミリアが驚いた声を漏らす。

 セラは短く言う。「祓いじゃない。単なる性質。こいつは水じゃない。粘液だ。塩が触れると、動きが鈍る」

 フィーネも頷いた。「神殿の教義とは別ですね。化学的な反応……」

 リュカが剣を構えたまま聞く。「なら、塩で囲えば――」

「囲めるならね」セラが吐き捨てる。「でも床は濡れてる。流れる。しかも、こいつは学習する。塩の線を見たら、次は別の形で来る」

 俺は棒を握り直し、短く言った。

「足元で勝つ。……声は捨てる」

 全員が一瞬だけ俺を見る。

 声を捨てる、の意味は一つだ。迷宮が声を武器にするなら、俺たちは声を武器にしない。合言葉すら、すぐに真似られた。なら次は――言葉ではなく動きで合図する。

 フィーネがすぐ理解したように、右手の指を三回折った。

 セラはそれに合わせて頷き、床を三回叩いた。

 リュカは剣先を下げ、膝を軽く曲げる。

 ミリアは炭筆をしまい、両手を胸の前に置いた。

 ――合図は、手。

 俺は口を閉じたまま、二本の指を立て、前へ倒す。前進ではない。左右に散れ、の合図。

 隊列が少し広がる。水の穴の縁が伸びても、全員が同じ方向へ押されないように。

 セラが塩の粉を、水の縁へ向けて点で撒いた。線で囲わない。点を増やして、動きを鈍らせる。

 粘液の指が、点に触れて縮む。だがすぐ別の場所から盛り上がる。

 学習が早い。

 俺は棒で床を叩いた。コン、コン。

 音が鈍い場所がある。水の穴の中心じゃない。縁の少し先、通路側だ。そこだけ、空洞のような響き。

 ――穴は一つじゃない。

 水の穴は入口で、奥に通じる通気口が別にある。そこから粘液が伸びている。なら、引きずり込まれるのは穴じゃなく、その通気口のほうだ。

 俺はミリアを見た。彼女は震えながらも、俺の棒の叩く場所を追って目を動かしている。

 ミリアが小さく頷き、床の黒い筋の流れを指でなぞった。黒い筋――血管みたいな筋が、水の穴の中心からではなく、縁の先へ集束している。

 そこだ。

 俺は指でそこを指し、拳を握って開く。壊せ、の合図。

 リュカがすぐ動いた。剣の刃ではなく、柄頭で床を叩く。濡れた石が割れ、ひびが入る。

 その瞬間、粘液が怒ったように盛り上がった。

 水面から、魚の頭が半分浮かび上がる。口が裂け、また声を出す。

「助けて……」

 耳を塞いでいるはずなのに、鼓膜の外側から声が染み込むように感じる。音ではなく、振動。骨に響く。

 フィーネが白い粉を空中に散らした。光る粉が、薄い膜を作る。音の振動が、そこで少し鈍る。

 セラが蝋の棒に火打ち石を当てた。パチッと火花。蝋が溶け、粘りのある液が垂れる。

 彼女はそれを床のひびへ流し込んだ。水の中で固まる特殊な蝋らしい。ひびの隙間を埋め、粘液の流路を狭める。

 リュカがさらに叩く。兵士たちも槍の石突きを振り下ろす。石が割れ、穴が開いた。

 穴の奥から、黒い粘液の本体が見えた。水の穴と繋がる管。そこを通って粘液が伸びている。

 セラが歯を見せて笑う。

「見つけた。……喉だ」

 俺は頷き、棒を穴へ突き込んだ。関所で核を壊したときと同じ――いや、違う。これは核じゃない。罠の器官だ。壊しても迷宮は続く。だが、ここで全滅は避けたい。

 棒が粘液に触れた瞬間、吸い付くような抵抗がきた。引っ張られる。棒ごと、腕ごと。

 セラがすぐ俺の腰の縄を掴み、ぐっと引く。縄は切る前提だが、今は引き戻しに使う。引かれたら切る。戻すときは使う。

 リュカが、穴の縁に剣を突き立てる。刃で刺すのではなく、楔として。俺が引かれても落ちないように。

 フィーネが俺の肩に手を置き、短く言った。

「今です。……一気に」

 俺は歯を食いしばり、棒を捻った。えぐるように、管の内側を裂く。粘液がぶちぶちと千切れ、穴の奥で泡が立つ。

 水の穴のほうで、魚の頭が痙攣した。声が途切れ、代わりに泡だけがぷくぷくと上がる。

 粘液の指が縮み、床の上から引いていく。縁の波打ちが止まり、水面が少し静かになった。

 ――止まった。

 完全に消えたわけではない。だが掴む手は弱まった。

 俺は棒を引き抜き、膝で呼吸を整える。腕が重い。水のせいだけじゃない。港町で聞いた重くなる現象が、じわじわと来ている気がする。武器が沈む。身体が沈む。

 セラが俺の腕を見て、顔をしかめた。

「来てるね。……潮の絡みつき。重さが増えてる」

 リュカも剣を持ち上げ、眉をひそめた。「確かに。握るだけで、沈む」

 ミリアが小さく呟く。「迷宮の潮が……武器に、身体に、まとわりつく……」

 フィーネが唇を結ぶ。「長引かせるほど不利です。ですが、急げば罠に落ちます」

 難しいバランスだ。

 ――だから手順だ。

 俺は口を開いた。声を捨てると言ったが、今は必要な場面だ。言葉が必要な場面がある。そのときだけ短く使う。使いすぎない。

「ここで一回、止まる。……深呼吸」

 全員が呼吸を揃える。息を吐くたびに、肩の力が少し抜ける。重さがゼロになるわけじゃない。でも、重さに飲まれない感覚が戻る。

 そのとき、背後の階段の方から足音がした。

 水を踏む音。軽く、迷いのない足取り。

 グレンだ。

 彼は濡れた床を気にする様子もなく降りてきて、俺たちの戦いの痕跡を見下ろした。穴、粘液、塩の粉。彼の目は、興奮ではなく計算で動く。

「興味深い。声の模倣速度が想定より早い。合言葉はすでに無意味です」

 セラが露骨に嫌な顔をした。「今さらだね。現場はもう見た」

 グレンは気にせず続ける。「次は合図の非言語化。あなた方はすでに実行している。――記録します。動きのパターンも」

 ミリアの手が震えた。記録される。迷宮に学習される。さらに国にも学習される。二重の観測。逃げ場がない。

 リュカが一歩前に出る。「監察官。現場の邪魔をするな」

「邪魔はしない」グレンは淡々と言う。「ただし、提案がある。次の区画で意図的に死に戻りを発動させ、迷宮の反応を観測すべきです」

 空気が凍った。

 セラの義足が、ぎ、と鳴った。

 ミリアの顔色が真っ白になった。

 フィーネの目が、初めて硬くなる。

 リュカは剣の柄を握り、指が白くなる。

 俺の心臓が痛いほど跳ねた。

 やめろ。

 それを言うな。

 それを前提にするな。

「深呼吸」フィーネが低く言った。

 合図だ。危険な命令が来たときの合図。

 俺たちは一度、呼吸を整えた。呼吸が揃うと、怒りも恐怖も少しだけ形を失う。形を失えば、扱える。

 俺はグレンを見て、短く言った。

「却下」

 グレンは眉ひとつ動かさない。「合理的です。死に戻りが迷宮にとって未知なら、観測する価値がある」

 セラが吐き捨てる。「未知なら触らせないのが合理的だろ」

 グレンが首を傾げる。「あなた方は迷宮の学習を恐れている。なら、迷宮が学習しきる前に上書きするのが――」

 俺は言葉を切った。

「釘」

 強制停止の合図。

 その瞬間、リュカが一歩前へ出て、グレンと俺たちの間に立った。盾。フィーネはグレンから視線を外し、俺の呼吸だけを見る。ミリアは壁際へ下がり、記録を守る。セラは工具箱の蓋を閉め、ナイフに手をかけた。

 全員が、同じ形に戻った。

 現場の形。

 グレンは少しだけ目を細めた。怒りではない。観察者が対象に拒否されたときの、微かな違和感。

「……了解。現場判断を尊重します。ただし、上層部への報告では――」

「好きにしろ」セラが遮った。「でも現場でそれを口にしたら、次は私があんたを縫い付ける」

 冗談に聞こえない声だった。

 グレンは淡々と頷いた。「記録します」

 ――こいつは本当に、言葉が人に向いていない。

 俺は胸の奥の冷えを押さえ込み、前を見た。迷宮の奥へ続く通路。水は浅くなり、代わりに白い塩の結晶が増えている。壁の黒い筋は、海藻みたいに絡み合い、ところどころ脈打っている。

 鼓動が聞こえる。

 関所の迷宮より、広い。深い。

 そして、確実にこちらを見ている。

 俺たちは再び進み始めた。

 しばらくすると、通路が広間に出た。

 床一面に、浅い水が張っている。水面の上に、木の板がいくつも浮かんでいる。船の残骸の板。足場になるように配置されているが、配置がいやらしい。

 板と板の間隔が微妙に広い。跳ぶには滑りそうで、歩くには遠い。さらに、板の表面には塩の結晶がびっしり。踏めば、ザリザリと音が鳴り、足が取られる。

 セラが棒で板を叩いた。コン。

 次の板も叩く。コン。

 音が違う。

 ある板は軽い。ある板は重い。沈む板が混じっている。

 リュカが眉をひそめる。「足場の罠」

 ミリアが小さく言った。「最適化……侵入者の移動パターンを観測する装置……」

 フィーネが静かに言う。「落ちれば、下に何かいますね」

 水面が、微かに揺れた。さっきの粘液とは違う。もっと硬い影。魚の背びれみたいなものが一瞬見えて、すぐ沈む。

 俺は板の配置を見る。これは正解の道があるように見せて、正解を踏んだ瞬間に――。

 頭の中で、嫌な予想が繋がった。

 迷宮は学習している。

 俺たちは床を叩いて空洞を見つけることをした。

 なら次は、空洞が正解になる。

 叩いて鈍い音の板が、実は罠じゃなく通す板で、安心して踏んだ瞬間に――別の仕掛けが発動する。

 つまり、音だけでは決められない。

 俺は短く言った。

「混ぜる。……音で選ばない」

 セラが口角を上げる。「いいね。じゃあどう混ぜる?」

「重さを測る」俺は言った。「でも、一度に全員が同じ板を踏まない。順番を変える。……学習を遅らせる」

 リュカが頷く。「俺が先。だが、飛ばない」

 俺は頷き、棒を板に渡して支えにする。フィーネが白い粉を少しだけ水面に散らし、水の流れを見える化する。粉が流れる方向が分かる。流れが強い場所は危険だ。下に吸い込みがある。

 セラが、板の表面に小さな釘を軽く打つ。釘が沈む速度を見る。沈みが早い板は浮力が弱い。踏めば沈む。沈めば水の影が来る。

 ミリアは板の配置を目で覚え、短い線で地図に落としていく。

 全員が作業に入ったその瞬間――。

 水面に、ぽこ、と泡が浮かんだ。

 泡が増える。

 板の隙間から、低い唸りが聞こえる。

 広間の奥の壁が、ゆっくり開いた。

 そこから、黒い鎧が現れた。

 騎士――ではない。人型だが、頭が魚の骨みたいに尖っている。鎧の隙間から、白い塩の結晶が生えている。手には槍。槍先が、ぬめりと光る。

 そして、足元。

 板の上を歩いている。

 板が沈まない。罠を無視できる守りがいる。

 リュカが息を呑む。「……番兵」

 フィーネが小さく呟いた。「重くなる……ここで、戦わせる気です」

 セラが唇を歪める。「戦えば武器が沈む。逃げれば足場が沈む。……よくできてるじゃないか」

 俺の視界の端に、また文字が浮かんだ。


《上位迷宮:解析中》

《対象:非言語合図/足場選択》

《次フェーズ:重量干渉 強化》


 ――強化。

 強化される前に抜けるべきだ。でも、番兵が道を塞ぐ。足場で戦えば沈む。沈めば下の影が来る。

 俺は息を吸って、吐いて、短く言った。

「戦わない。……倒さない。通る」

 セラが頷く。「通路を作るってことだね」

 リュカが剣を構えた。「やる」

 フィーネが白い粉の袋を握り直す。「私が視界を作ります」

 ミリアが震えながらも頷く。「板の順路、記録します。……でも、同じ形は残さない」

 俺は棒を握り、番兵を見た。

 番兵の赤い眼が、俺たちを見た。

 そして――板の上で、槍を構えた。

 この広間は、次の試験場だ。

 迷宮が俺たちを学習し、次の一手を押し付けてくる場所だ。

 俺は口を開き、いつもより少しだけ強く言った。

「交換。……通路を作る」

 全員が動いた。

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