5:核を壊す、その一回
5:核を壊す、その一回
黒い騎士の赤い眼が灯った瞬間、空気が一段冷えた。
鎧が鳴る。
カチ、カチ、カチ――。
動いていないのに音がする。まるで、身体の中で何かが回っているみたいに。
俺は息を吸って、吐いた。短い言葉だけで全員を動かす。それが、俺の役目だ。
「交換」
セラが即座に動く。リュカと位置を入れ替え、俺が半歩前へ、兵士が左右へ広がる。フィーネは真ん中の少し後ろ、ミリアは壁際の柱陰に身を隠した。
黒い騎士は、ゆっくりと剣を引き抜いた。
金属音が、骨の内側まで響く。
――来る。
「止まれ」
セラの声に合わせ、全員が足を止めた。
次の瞬間、黒い騎士が消えた。
いや、消えたように見えただけだ。視界の端で黒い影が跳ね、俺の左斜め前に現れた。
速い。狼どころじゃない。
剣が横薙ぎに走る。狙いは俺――じゃない。前に出た誰かだ。今は俺と兵士の位置が近い。騎士はその中で「一番前」を刈り取ろうとしている。
「伏せろ!」
リュカが叫び、兵士が反射でしゃがむ。俺は棒で受ける。金属と木がぶつかり、衝撃が腕を痺れさせた。
棒が折れる、と直感が言いそうになって――言わない。直感はゼロだ。だから俺は手の痛みを信じた。
このまま受け続けたら、棒が割れる。
「交換!」
俺は半歩後ろへ引き、代わりにリュカが前へ。黒い騎士は、まるでそれを読んだかのように、リュカへ刃を向けた。
狙いは前衛。固定した瞬間、狩られる。
――なら、固定しない。
リュカは剣で受けず、わざと一歩下がった。騎士の剣が空を切る。その隙に兵士の槍が横から突き出され、鎧の脇腹に当たる。
しかし、弾かれた。
キィン、と嫌な音。
鎧が硬い。普通の攻撃じゃ通らない。
「効かない!」兵士が叫ぶ。
「分かってる」セラが低く言った。「だから倒すんじゃない。壊す」
彼女は床に何かを投げた。小さな金具――さっき狼の踏み込みを滑らせた釘に似ている。黒い騎士の足元に散り、カチカチと転がる。
黒い騎士は一瞬、踏み込みを遅らせた。遅れた、というより、床が嫌がったように見えた。
その瞬間を逃さず、フィーネが前へ出た。
彼女は香ではなく、白い粉の入った小瓶を床に撒いた。粉が広がり、空気がわずかに明るくなる。
「ここが境界です。……皆さん、呼吸。いま恐怖を剥がします」
フィーネの声は反響しても、妙にぶれない。胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ落ち着く。
黒い騎士が、首を傾げたように見えた。
――効いてる?
俺は迷う暇なく、短い命令を出す。
「糸!」
ミリアが柱陰から出て、セラの用意した糸を引っ張る。分岐で張っていた糸ではない。戦闘用に、広間の床に沿って張った細いワイヤーだ。蜘蛛の巣みたいに、足首の高さに複数。
黒い騎士が踏み込んだ瞬間、ワイヤーが脚に絡む。
だが騎士は止まらない。絡んだ糸ごと踏み切り、剣を振るう。
――やっぱり強い。
剣が、今度はフィーネへ向いた。前衛を狩るだけじゃない。役割を回しても、核に近い者に狙いを定めてトグルする。
「後ろ!」
俺が叫ぶより早く、フィーネは一歩下がった。代わりに兵士が前へ出る。黒い騎士の刃が兵士の肩を裂き、血が飛んだ。
「っ……!」
フィーネがすぐに手を当て、治癒の光が走る。傷は塞がる。だが兵士の顔色は青い。
ミリアが震える声で言った。「鎧の継ぎ目……首の後ろ、脇腹、膝……わずかに黒い筋が濃いです。あそこが関節です!」
観測。ありがたい。
「セラ、狙える?」
「狙うな」セラが言い切った。「狙わせる」
彼女は俺の腰の縄を掴み、ぐっと引いた。「勇者さん、前に出るな。でも、前に見せろ」
「……俺が囮?」
「囮じゃない」セラは目を細める。「合図だ。あいつは勇者を見てる。前に出たら狩る。なら、狩らせる前に崩す」
俺は胃がひりつくのを感じた。囮。死ぬほど嫌いな役。けど、やるしかない。死なないために。
俺は棒を握り直し、半歩前へ出た。
黒い騎士の赤い眼が、俺に向いた。
鎧が鳴る。
カチ、カチ、カチ――。
――来る。
「止まれ」
セラの声に合わせ、俺は足を止めた。動いたら押される。ここは黒い溜まりはないが、押されたら隊列が崩れる。崩れたら終わる。
黒い騎士が一気に距離を詰めた。剣が真っ直ぐ俺の喉を狙う。
俺は棒を縦に立てて受けた。
衝撃。腕が痺れ、膝が沈む。
次の瞬間、セラが叫ぶ。
「引け!」
腰の縄が引かれ、俺の身体が後ろへ滑る。黒い騎士の剣先が空を切る。騎士の体勢が前に流れた。
そこへ、リュカが斜めから踏み込む。
狙いは鎧の正面じゃない。ミリアが言った関節だ。
リュカの剣が、黒い騎士の膝裏を斬った。
ザリッ、と嫌な感触。金属というより、硬い革を裂く音だ。黒い筋が一瞬、赤く光る。
黒い騎士がぐらついた。
「今!」リュカが叫ぶ。
兵士の槍が、脇腹の継ぎ目へ突き込まれる。フィーネが白い粉を追加で撒き、空気がさらに明るくなる。
黒い騎士の動きが、ほんの少し鈍った。
――押せる。
俺は短く言った。
「交換!」
前に出るのはリュカだけじゃない。兵士が一歩前へ、俺は半歩横へ。フィーネは距離を取る。ミリアは柱陰へ戻る。
黒い騎士は、立て直そうとした。その瞬間、足元のワイヤーが再び絡み、膝が沈む。
セラが工具箱から最後の一つを取り出した。小さな金具――だが今度は釘じゃない。歯車のような形をした噛み込みだ。
彼女はそれを黒い騎士の足元へ滑らせた。
黒い騎士が踏んだ瞬間、噛み込みが鎧の足裏に食い込んだ。
ガリッ、と音がする。
動きが止まった。
「……止まった!」兵士が叫ぶ。
「止まったんじゃない」セラが吐き捨てる。「縫い付けただけ。今のうちに、核を壊す!」
俺は柱の頂を見上げた。赤黒い結晶が脈打っている。あれが核なら、ここで終わる。
でも――何かが引っかかった。
鼓動が、結晶だけじゃなく、壁の黒い筋全体から聞こえる。結晶は中心にあるけど、音は広間全体だ。心臓なら、一点から響くはずじゃないのか?
ミリアが柱陰から叫ぶ。「勇者様! 結晶の脈動、鼓動とズレています! あれは――」
言い終わる前に、黒い騎士が動いた。
足裏に噛み込みが食い込んだまま、無理やり踏み切る。金属が悲鳴を上げ、ワイヤーが弾け、騎士がこちらへ剣を振るう。
噛み込みは足止めでしかない。時間稼ぎだ。
「撤退……!」兵士が言いかけた。
「止まれ!」
フィーネの声が鋭く響いた。彼女は、香ではなく、手のひらを騎士へ向けた。白い粉が空中で光り、薄い膜のようなものが騎士と俺たちの間に張られる。
剣が膜に当たり、ギギッ、と音を立てて止まった。完全には止まらない。だが、刃の速度が落ちた。
「今のうちに、判断を!」フィーネが叫ぶ。「迷いは、刃になります!」
ミリアが息を吸い、叫んだ。
「柱の結晶は誘導です! 本当の核は、床下――黒い筋が集まっている場所です! 柱は、飾り……!」
床下。
そうだ。迷宮の罠は、床にある。入口の落とし穴。黒い溜まり。床そのものが嘘をつく。なら核だって、高いところに置かれるわけがない。俺たちの視線を上に誘導し、足元を見落とさせる。
俺は短く言った。
「核、床!」
セラが即座に理解し、床の黒い筋が一点に集まっている場所を指差した。広間の端、柱から少し離れたところだ。そこだけ黒い筋が太く、まるで結び目のようになっている。
「そこだ!」セラが叫ぶ。「叩け! 割れ!」
リュカが剣の柄で床を叩く。石が硬い。だが黒い筋の部分だけ、音が鈍い。空洞。下に何かがある。
兵士が槍の石突きを叩きつける。ひびが入る。
黒い騎士が膜を押し破り、こちらへ踏み込む。
カチ、カチ、カチ――音が近い。
俺は棒を振り上げ、騎士の膝を狙って叩いた。さっきリュカが斬った場所。関節の黒い筋。
衝撃が通った。騎士の動きが一瞬止まる。
「交換!」俺が叫ぶ。
リュカと兵士が入れ替わり、兵士が騎士の進路を槍で塞ぎ、リュカが床を叩く側へ戻る。役割を回す。狙われたら渡す。
フィーネが治癒の手を止めない。ミリアが地図を描きながら、短い言葉だけを吐く。
「ひび、広がる。……黒い筋、集束。……鼓動、ここ」
床のひびが、蜘蛛の巣みたいに広がった。
ドクン。
鼓動が一気に近づく。
リュカが最後に剣を振り下ろした。刃ではなく、剣の重みで叩く。石が割れ、穴が開く。
穴の奥に、赤黒い塊が見えた。結晶ではない。肉のように脈打つ塊。黒い筋がそこへ吸い込まれていく。
核だ。
見た瞬間、吐き気がした。生き物の内臓を見ているようだ。
「勇者さん!」セラが叫ぶ。「棒、突っ込め! 貫け!」
俺は一瞬、躊躇した。あの落下の記憶が脳裏をよぎる。穴。暗闇。底の見えない恐怖。
でも、これは落とし穴じゃない。核だ。ここを壊せば終わる。逃げ道が戻る。
俺は息を吸って、吐き、棒を両手で握り締めた。
「……行く」
棒を穴へ突き込む。赤黒い塊に当たった瞬間、ぬるりとした感触が伝わった。生温かい。ぞっとする。
俺は叫びそうになるのを飲み込み、棒を捻るように押し込んだ。
ブチッ、という音がした。
鼓動が一瞬、乱れる。
ドクン、ドクン、ドク……ン。
黒い騎士が、止まった。
赤い眼が揺れ、鎧の音が途切れる。
カチ……カチ……。
「もう一回!」セラが叫ぶ。
俺は歯を食いしばり、棒をさらに押し込んだ。今度は、えぐるように。
ブチブチブチ、と嫌な音。
鼓動が、止まった。
――ドクン、が消えた。
次の瞬間、広間の黒い筋が一斉にひび割れ、壁から剥がれ落ちた。像が崩れ、柱の上の結晶が砕けて砂になり、床の穴の中の塊が灰のように崩れていく。
黒い騎士は、ゆっくりと膝をつき、剣を落とした。
赤い眼の光が消える。
鎧が、ただの鎧になった。
静寂が落ちた。
俺は棒を引き抜き、膝に手をついた。吐き気をこらえながら、呼吸だけに集中する。
生きている。
死んでない。
フィーネが俺の肩を支え、短く言った。「勝ちです。……いまは、勝った」
その言葉で、全身の力が抜けそうになった。
ミリアが震える声で呟く。「核は床下……誘導の柱……守りは騎士……。記録、できた……」
セラが鼻で笑った。「よし。帰るぞ。迷宮は――」
言いかけた瞬間、空気がふっと緩んだ。
背後で、黒い石のアーチが現れた。さっき消えた入口。いや、出口だ。森へ通じる口が、広間の壁に開いている。
俺はそのアーチを見た瞬間、膝が震えた。
帰れる。
俺たちは互いを縄で繋いだまま、ゆっくり出口へ向かった。走らない。走ったら転ぶ。転んだら終わる。最後まで手順で生き残る。
アーチをくぐると、冷たい森の空気が肺に入った。
夜だった。関所の町の灯りが遠くに見える。霧の柱は消え、森は静かだった。鳥の声が、少しだけ戻っている。
――終わった。
兵士が膝から崩れ落ち、泣いた。リュカは剣を鞘に戻し、空を見上げて、深く息を吐いた。
セラは義足を鳴らしながら、俺の顔を見た。
「勇者さん。……死ななかったな」
「……ああ」
本当は言いたかった。死んだ。死んで戻った。その代償で、直感がゼロになった。でも、それは言えない。言えば、次から死んでいい作戦が生まれる。
フィーネが小さく微笑んだ。「勇者様。次も、死なないでいきましょう」
次。
その言葉が胸に刺さった。
迷宮は一つじゃない。王が言っていた。各地に出現している。今回の迷宮は小さいはずだった。それでも、出口を消し、核を偽装し、守りの騎士を置いた。
――小さいのに、この殺意。
俺は無意識にステータスを開いた。
名前:アサギリ・ユウ
職業:勇者
Lv:1
筋力:12
敏捷:14
魔力:10
耐久:11
幸運:8
スキル:
【剣術】Lv1
【直感】Lv0
【死に戻り】Lv1
変化はない。死んでいないから、削れていない。
――よかった。
その安堵の直後、視界の端に、小さな文字が浮かんだ。
《迷宮核:破壊》
《条件達成:勇者の進行が上位迷宮に記録されました》
記録?
背筋が凍った。
ミリアが近づき、俺の顔色の変化を見て眉をひそめた。「勇者様、どうかしましたか」
俺は笑おうとして、笑えなかった。
「……いや。なんでもない」
なんでもないわけがない。
上位迷宮。記録。進行が見られている。
つまり――この世界は、俺たちが勝つほど、迷宮が学ぶ。
俺は森の奥を見た。闇は静かで、何もないように見える。だが確かに、どこかで次の口が開く準備をしている気配がする。
セラが工具箱を肩に担ぎ、短く言った。
「帰るぞ。報告して、次の準備だ」
次の準備。
俺は頷いた。
死に戻りを使わずに勝つ。
削られずに勝つ。
勝てる一回を、何度でも作る。
そのために――俺は、勇者らしくないまま、勇者を続ける。




