4:出口のない迷宮
4:出口のない迷宮
入口が消えた――そう言葉にした瞬間、喉の奥がひゅっと狭くなった。
逃げ道がない。
撤退のルールを作って、守ろうとした。なのに迷宮は、その正しさを踏み台にして、出口そのものを引き剥がした。
だから今、俺たちの選択肢は一つしかない。
核へ向かう。
セラの言葉が、冷たい刃みたいに背中を押す。
「勇者さん。泣き言は後。今、迷宮に飲まれた。だったら、飲み返す」
リュカが周囲を睨んだ。「……核へ向かう道は分かるのか」
ミリアが震える指で地図を押さえながら答えた。「入口付近は証言が多いので、ある程度形が分かっていました。でも、ねじれた後は……ただ――」
彼女は耳を澄ませた。
ドクン。ドクン。
迷宮の鼓動みたいな低音が、石壁を伝って響いてくる。音は一定じゃない。わずかに速くなったり、遅くなったりする。生き物の呼吸みたいだ。
「音の方向が……奥です。恐らく核に近いほど、この鼓動は強くなる」
フィーネが小さく頷いた。「心臓の位置を探す、ということですね」
俺は棒を握り直した。直感がないなら、観測で進むしかない。鼓動。風の流れ。湿気の濃さ。音の反響。全部がヒントになる。
「行こう。ルールは変えない。二分ごとに位置を入れ替え、床は叩く。会話は短く。分断したら――」
「即止まる」セラが被せた。「止まれない奴が死ぬ」
その言葉に、兵士の一人がごくりと唾を飲んだ。
俺も同じだ。止まれないと死ぬ。焦りは死を呼ぶ。だからこそ、焦りを手順で潰す。
セラが工具箱から細い杭と糸を取り出した。「ミリア。地図描くなら、これ使え。曲がり角に杭を打って糸を張る。戻れないなら、せめて戻れない証拠を残せ」
ミリアの目が少しだけ強くなる。「はい。……ありがとうございます」
セラは俺にも糸の端を渡してきた。「勇者さん。合図役やれ。隊列が入れ替わるタイミング、糸の張り替え、止まる時。全部、短い言葉で」
俺は頷いた。「了解。……『交換』、『杭』、『止まれ』。それだけでいく」
フィーネが微笑んだ。「短い言葉は、恐怖を小さくします」
俺たちは鼓動の方向へ進んだ。
通路はさっきより乾いている。苔が減り、代わりに黒い筋が石に走っていた。まるで血管みたいに。鼓動が近づくほど、この筋は増える。
ドクン。
音が一段、腹に響く。
「交換」俺が言う。
右壁を見ていた兵士と、中央のフィーネが入れ替わる。リュカが一歩後ろへ下がり、俺が前へ一歩出る。セラはいつでも床に棒を当てられる位置。ミリアは最後尾で杭を打つ。
固定しない。それを手足でやる。
最初の分岐が現れた。左右に伸びる通路。どちらも同じ幅、同じ湿度、同じ闇。差がない。迷宮が「選べ」と言っている。
ミリアが囁く。「証言では……分岐は少ないはずです」
セラが棒で左右の床を叩く。コン、コン。音は同じ。
俺は耳を澄ませた。鼓動は――どちらからも聞こえる気がする。いや、違う。右のほうがほんの少し、低音が強い。
「右」俺が言った。
セラが俺を見る。「根拠は」
「音。……気のせいかもしれない。でも、今はそれしかない」
リュカが短く言う。「進む」
ミリアが杭を打ち、右へ糸を張った。「分岐・右。時刻――」
「声は短く」セラが遮る。
ミリアは頷き、口を閉じ、筆を走らせた。
右へ進むと、通路は急に広がった。
天井が高い。壁には崩れた像。人の形に似ているけど、顔がない。手がない。何かを祈っていたような姿勢で、途中で砕けたまま。
広間の中心に、水たまり――いや、黒い鏡のような液体が溜まっている。濡れているのに、波紋がない。動かない。生き物の目みたいだ。
俺の背中がぞわっと粟立った。
あの落下の記憶が、胸の内側から湧き上がる。
フィーネがすっと前に出て、俺の視界に入った。「見ないで。……足元だけ見て」
その短い言葉に、俺は救われた。
「止まれ」セラが低く言った。
全員が止まる。セラが棒を三倍叩く。コン、コン、コン、コン、コン、コン。
音が、鈍る。
俺は息を止めた。
「また落とし穴?」リュカが言う。
「似てるけど違う」セラが顎で黒い鏡を指した。「あれは床じゃない。溜まりだ。踏んだら沈む。たぶん、底がない」
底がない――その言葉が怖い。落下より怖い。落ちた先に終わりがない。
セラは工具箱から小さな金具を取り出し、黒い鏡に投げた。金具は吸い込まれ、音もなく消えた。波紋すら立たない。
「ね。飲むだけ」
兵士の顔が青くなる。
ミリアが、震える指で地図をめくる。「……こういう溜まりの証言は……」
「ある」俺が言った。口が勝手に動いた。「『黒い水を踏んだら、戻れなくなった』って。……誰かの」
ミリアの目が揺れた。「勇者様……」
俺は言い過ぎたと気づき、言葉を切った。俺が見た未来だ、なんて言えない。言えば、俺が何を隠しているか悟られる。
セラが歩幅を測りながら言う。「端を通れる。だが、罠はここで終わらない。こういう場所は、必ず守りがついてくる」
守り――その瞬間、像の影が動いた。
いや、影じゃない。影の中から、赤い点が一つ、二つ、三つ……。
狼の目だ。
あの黒い狼。さっきより大きい。筋肉の厚みが違う。毛が濡れたように艶を帯び、牙が太い。
五匹。
そして最後に、ひときわ大きい一匹が、像の向こうから姿を現した。肩が人の腰ほどある。首のあたりに硬い黒い板――骨の鎧みたいなものが張り付いている。赤い目が、俺たちを値踏みする。
リュカが息を飲む。「……群れ長」
フィーネが小さく香の瓶を握りしめた。
セラが俺に囁く。「勇者さん。黒い溜まりを背にするな。押されたら終わりだ」
俺は頷き、棒を構えた。「隊列、入れ替え。……交換」
全員が動く。リュカが前に出すぎないよう、俺が横に立つ。兵士が左右を支える。フィーネは半歩後ろ。ミリアは杭を打つ手を止め、壁際に張り付いた。
狼たちが一斉に唸った。
次の瞬間、群れが跳んだ。
「止まれ!」セラの声。
止まる? 飛んでくるのに? 一瞬迷いかけた俺の脳を、フィーネの声が貫いた。
「足を、動かさない!」
俺は反射で足を固めた。リュカも固めた。兵士も固めた。
狼は、飛ぶ。飛ぶときの軌道は予測できる。動けば、当たり所が変わり、押される。動かなければ、受けて、崩して、落とせる。
リュカが剣の腹で叩き落とす。兵士が槍で横へ弾く。俺は棒で狼の脇腹を打ち、壁へ押しつけた。セラは足元に釘のようなものを投げ、狼の踏み込みを滑らせる。
フィーネの香が割れる。甘い匂いが広がり、狼の動きが一瞬鈍る。
「今!」リュカが叫ぶ。
叫ぶな、と言いたいのに、叫びたくなる。反響する声が広間を満たす。狼が苛立ち、牙を剥いた。
群れ長が動いた。
速い。さっきの狼とは違う。低く身を沈め、俺たちの足を狙って滑り込む。足を崩し、溜まりへ押し込むつもりだ。
――やばい。
俺は棒を振り下ろした。間に合わない。群れ長の肩がぶつかり、俺の体が横へずれる。足が黒い鏡へ近づく。冷気が足首を舐める。
その瞬間、セラの糸がピンと張った。
糸――さっき分岐で張った糸とは別だ。彼女はいつの間にか、俺の腰と壁を結ぶ短い縄をつけていた。
「引け!」セラが叫ぶ。
兵士が縄を掴み、全力で引いた。俺の体が黒い鏡の縁から引き戻される。
群れ長がバランスを崩した。
リュカが、その首筋へ斬り込んだ。深くはない。でも、痛みで群れ長が吠え、後ろへ下がる。その隙に兵士の槍が腹へ突き刺さる。
群れ長は倒れない。だが、退く。
群れの狼たちも、群れ長に合わせて後退した。目を光らせ、唸りながら、像の影へ溶けていく。
逃げた。
俺は膝に手をつき、荒い息を吐いた。
死ぬところだった。
黒い溜まりに足を入れたら、終わっていた。死に戻りで戻れたとしても、その度にスキルが削れる。次は剣術かもしれない。死に戻りそのものが削れたら? そんなことを考えたら、胃が痛くなる。
フィーネが俺の肩に触れた。「今、立てますか」
「……立てる」
声が震えるのが嫌で、短く答えた。
ミリアが壁際から出てきて、炭筆を握り直した。「群れ長……撤退。黒い溜まり……吸収。罠――いや、地形そのものが罠……」
セラが言った。「迷宮は進むほど手段が減る場所だ。勇者さん、今のはよく耐えた。腰の縄、気づいたか」
「……気づかなかった。ありがとう」
「礼は後。次は、縄を全員につける」
リュカが眉をひそめる。「動きが鈍る」
「鈍っていい。落ちるよりマシだ」
セラはそう言い切り、全員の腰に短い縄を結びつけ始めた。縄は一本の長いロープへ繋がり、最後に壁へ固定される。蜘蛛の巣みたいに。動きに制限がかかる。だが押されたら終わりの地形で、それは保険になる。
フィーネが小さく息を吸った。「皆さん、手が震えています。……三回、吸って、吐きましょう」
俺たちは言われるまま呼吸した。迷宮の鼓動に合わせない。自分のリズムを取り戻すために。
ドクン。ドクン。
鼓動は、さっきより近い。黒い筋が壁を這い、像の足元へ伸びている。血管みたいに。
「……行ける」俺は言った。「今、進まないと。狼が戻る」
セラが頷く。「そうだ。迷宮は、逃がした獲物を追い詰める」
黒い溜まりの縁を、縄で互いを固定しながら、ゆっくり通過する。足元は冷たい。溜まりの表面は、まるでこちらの影を引っ張るみたいに暗い。
通路へ戻ると、空気が変わった。乾いていて、臭いがない。水滴の音が消えている。代わりに、遠くで金属が擦れるような音がする。
カチ、カチ、カチ……。
鎧の音だ。
リュカが小さく呟いた。「番人がいる」
ミリアが地図を押さえながら言う。「証言にあります。核の近くには、必ず守りが――」
「喋るのは短く」俺が言った。言いながら、自分の声が乾いているのが分かった。怖い。怖いのに、足は前へ出る。
通路の先に、扉があった。
黒い石でできた大きな扉。取っ手はなく、中央にひび割れた紋様が彫られている。その紋様が、鼓動に合わせてわずかに光った。
ドクン。
扉の向こうで、何かが生きている。
セラが耳を当てた。「……前室だ。核の手前。来るぞ」
「何が」兵士が震える声で聞く。
セラは答えない。代わりにリュカが剣を構え、低く言った。
「迷宮の騎士。……倒さなければ、核へは行けない」
扉が、内側からゆっくり開いた。
ギギギ……と石が擦れる音。冷たい空気が流れ出す。
扉の向こうは、円形の広間だった。天井は高く、壁には黒い筋が渦を巻き、中心に一本の柱が立っている。柱の頂に、赤黒い結晶が脈打っていた。核――に見える。
だが、結晶の前に、ひとつの影が立っていた。
全身を黒い鎧で覆った騎士。顔の部分は空洞で、闇が詰まっている。手には長い剣。床に突き立て、まるで眠っているように静止している。
カチ、カチ。
鎧の内側から、あの金属音がする。
俺は息を止めた。
背中の汗が冷える。
この相手に、死に戻りは使えない。使えば削れる。削れたら詰む。だから――
勝てる一回を、ここで完成させる。
セラが俺の横で、囁いた。
「勇者さん。隊列を固定するな。あいつは前衛を狩る」
俺は頷いた。リュカを見る。兵士を見る。フィーネを見る。ミリアを見る。
全員の目が、俺に集まった。
俺は短く言った。
「交換。……役割を回す。狙われたら、次へ渡す」
その瞬間、黒い騎士が、ゆっくり顔を上げた。
空洞の奥で、赤い光が二つ灯る。
ドクン。
迷宮の鼓動が、今までで一番大きく響いた。




