3:勝てる一回の作り方
3:勝てる一回の作り方
王城へ戻る道すがら、俺は頭の中でやることを箇条書きにした。
1)回復役の確保
2)迷宮入口付近の罠(濡れ床落とし穴)の対策共有
3)隊列の組み直し(固定しない/入れ替える)
4)撤退条件の明文化(迷ったら引く、では遅い)
5)最短で核へ――そのための目的地を決める
こういうとき、直感があれば「こっちだ」とか「今だ」とか、気味の悪いほど正しいタイミングで助けてくれるんだろう。けど俺の【直感】はもうゼロだ。頼れるのは、紙と、言葉と、人の経験だけ。
そして、時間がない。
関所の町が襲われた。迷宮の成長は、想像より早い。
城門が見えたころ、馬の蹄の音とともに、使者が行き交っていた。城内の空気が、昨日より一段重い。兵が増え、矢倉の上にも人が立っている。城という箱が、戦争の匂いを帯び始めていた。
すぐに王の執務室へ通された。王妃もいる。魔術師もいる。書記官ミリアも、端で紙を抱えて立っていた。
「勇者よ」王が言った。「関所の町から報告が入った。柵が破られ、負傷者が出た。幸い、町はまだ落ちていないが……」
言葉の端に、焦りが滲む。俺は深く息を吸って、要求を整理した。
「回復役が必要です。迷宮の中で戦える人で、できれば精神面も支えられる人」
魔術師が頷く。「神殿の治癒師を同行させよう。だが、迷宮へ入れるほどの者は数が少ない」
「それでもお願いします。あと、罠師としてセラを連れていきます」
王妃が小さく目を見開く。「彼女を……」
「本人が条件付きで了承しました。罠の判断は彼女に任せます」
王は少し黙ったあと、短く頷いた。「……わかった。彼女の判断を尊重しよう」
俺は続けた。
「撤退条件を決めたい。迷宮内で『迷った』と感じた時点では遅い。具体的に、この状況なら引くを先に決めるべきです」
執務室の空気が、ぴんと張った。勇者が撤退を口にするのは、格好が悪い。みんな分かっているのに言いたがらない単語だ。
でも言わなきゃいけない。
死んでやり直せるなら、撤退なんて不要になる。……だからこそ、絶対に言えない。俺の死に戻りのことは、伏せたまま、撤退を戦略に変える必要がある。
ミリアが紙をめくりながら口を開いた。「撤退条件を行動規範として文書化する、ということですね。例えば――『通路の分岐が三度連続で現れた場合、進行方向を固定せず入口方向へ戻る』など」
「そう。あと、『隊列が分断されたら即撤退』。『視界が確保できない霧が濃くなったら撤退』。『負傷者が出たら即判断』」
リュカが扉のそばで黙って聞いていたが、そこで一歩前に出た。
「勇者殿。それでは、敵に押されるたび退くことになる。核を壊せぬまま、迷宮が成長すれば――」
「分かってる。でも、死んだら終わりなんだ」
俺は言い切った。言ってから、自分の声の硬さに驚いた。死んだら終わり。――一度死んだ奴が言うと、言葉が違う。
王妃が静かに言った。「勇者様が倒れたら、希望そのものが消えます。撤退のルールは……必要です」
リュカは唇を噛み、やがて頷いた。「……了解した。守るべき命は、勇者殿だけではない」
魔術師が咳払いをして話を進めた。「回復役だが、神殿から一人。名はフィーネ。治癒だけでなく、精神の安定術も扱える。迷宮での実績もある」
「会わせてください」
*
神殿は城下の高台にあった。白い石の柱が並び、風鈴のような音を立てる飾りが揺れている。中は静かで、香の匂いがした。
フィーネは小柄な女性だった。歳は二十代半ばくらい。淡い金髪を布でまとめ、青い目が落ち着いている。戦場の匂いをまとっているのに、言葉は柔らかい。
「勇者様。お会いできて光栄です」
頭を下げる動きに、無駄がない。礼儀としての礼ではなく、相手を安心させるための礼。そう感じた。
「こちらこそ。……迷宮に入った経験があると聞きました」
「はい。二度だけ。二度とも、撤退しました」
その返答に、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
「撤退は恥じゃない?」
「生きて帰る方が難しい場所で、恥も誇りもありません。必要なのは、次に活かせる記憶だけです」
その言い方が胸に刺さった。俺には次がある。けれど、その次は代償を伴う。死んだ回数だけ弱くなる。――だからこそ、彼女の言葉は重い。
「フィーネさん。迷宮内で、仲間が恐怖で固まったとき、どうします?」
「呼吸を整えます。目を見る。手を握る。短い言葉で、今の行動だけを示します。『立つ』『後ろへ』『息を吸う』。人は長い説明を理解できなくなりますから」
さすが、精神の安定術を扱うというだけある。
「一つ頼みがある。迷宮内では、俺が勇者らしいことをできないかもしれない」
フィーネは微笑んだ。「勇者様らしい、とは何でしょう」
「……剣で前に出て、皆を引っ張る、みたいな」
「それは騎士らしいです。勇者様らしいのは、勝てる道を選ぶこと。剣を振らない勇者がいても、私は驚きません」
その言葉で、胸の奥の硬い塊が少しだけ溶けた。
俺たちは神殿を出る前に、簡単な打ち合わせをした。合言葉。撤退の合図。負傷者が出たときの優先順位。フィーネはそれを紙に書き、要点を短くまとめた。
俺が欲しかったのは、この短さだ。
迷宮で役に立つのは、英雄譚じゃない。短いルールだ。
*
翌朝。関所の町へ向かう馬車には、俺、リュカ、兵士二名、セラ、フィーネ、そしてミリアが乗っていた。
ミリアが同行すると聞いたとき、王は渋った。だがミリアは「記録は武器です。迷宮の規則性を掴むには、証言ではなく現場の観測が必要です」と押し切ったらしい。
俺は正直、助かった。俺の直感が消えた分、観測者が必要だった。
セラは工具箱と、細い棒の束、縄、金具を持っている。リュカは剣。兵士は槍。フィーネは治癒具と、香の小瓶。ミリアは板紙に挟んだ地図と、炭筆。
そして俺は――剣だけじゃなく、セラに言われた通り、丈夫な棒を一本持っていた。槍ほど長くないが、床を叩いて確かめるための棒だ。
「勇者さん」セラが言った。「棒の使い方、今やる」
馬車が揺れる中、セラは俺に棒を渡し、床を軽く叩く動作をさせた。
「一定のリズムで叩け。音が変わったら止まれ。濡れてる場所は三倍叩け。……いいか、勇者さん。迷宮は、派手に殺すよりうっかりで殺す」
俺は頷いた。「分かってる」
分かっている。分かっているから、手が汗ばむ。
フィーネがその様子を見て、小さく囁いた。「息を、吸って。……そう。ゆっくり吐いて。足の裏の感覚を意識してください。今は馬車の中。ここは安全」
言葉が、心の壁を少しだけ押し広げる。ありがたい。
ミリアは窓の外を見ながら言った。「迷宮の霧の柱……昨日より太くなっています」
俺も見た。黒い霧が、森の奥でゆっくりと脈打っている。まるで成長を見せつけるように。
関所の町に着くと、空気が荒れていた。柵は補修され、血の跡が残り、負傷者が運ばれていく。人々の目が、俺たちを追う。期待と恐怖が混ざった目だ。
セラが小さく舌打ちした。「もう、待ってくれない」
リュカは兵士に指示を飛ばし、町の門を固めさせた。俺たちは迷宮の入口へ急ぐ。
黒い石のアーチ。
あの口。
ここで俺は死んだ。ここから落ちた。骨が砕けた。
足がすくむ。喉が固まる。
フィーネが俺の横に立ち、手を軽く握った。温かい。
「大丈夫です。勇者様。今は二度目ではなく、準備した一回目です」
その言葉は、嘘のようで、でも本質だった。
俺は頷き、棒を握り直した。
「行く」
アーチをくぐった瞬間、世界が切り替わる。湿った石の匂い。水滴の音。反響する足音。
今回は最初から、ルール通り動く。
「喋るのは最小限」俺が言う。「セラが床を確認。リュカは前に出すぎない。兵士は左右の壁を意識。フィーネは真ん中、ミリアは後ろで記録」
「勇者さん」セラが言った。「隊列固定しないんじゃなかった?」
俺は息を止めかけて、すぐに吐いた。「……そうだ。じゃあ、二分ごとに位置を入れ替える。右壁、左壁、中央。時計回りで」
セラは笑った。「いい。すぐ修正できるのは強い」
通路を進む。最初の角。セラが棒で床を叩く。コン、コン、コン。音は一定。
次の角。濡れた床。セラが三倍叩く。コン、コン、コン、コン、コン、コン――
音が、少しだけ鈍った。
「止まれ」
セラの声は低い。全員が動きを止める。俺の心臓が跳ねる。
セラが縄の端を兵士に渡した。「これ握って。万が一、引け」
そして彼女は、床の濡れた部分に、細い金具を投げた。カツ、と小さな音。金具が沈む――沈む、沈む、沈んで、消えた。
俺の背中に冷汗が流れた。
「当たりだ」セラが言った。「落とし穴。薄い膜みたいに偽装してる。踏めば終わり」
リュカが顔をしかめる。「……こんなもの、報告にあったか?」
ミリアが震える指でメモを取っている。「あります。ですが、証言では曖昧で……現物は、想像より――」
「えげつない?」セラが言い、淡々と続けた。「迷宮は親切じゃない。勇者さん、これがあなたの見た未来だ」
俺は喉の奥が鳴るのを感じた。未来じゃない。過去だ。俺が死んだ場所だ。
でも、今回は落ちない。
「迂回できる?」
「できる。壁沿いに幅がある。ここ」セラが指を差した。「ただし、次も罠が来る。迷宮は回避を読んでくる」
その言葉が、胸を刺した。
迷宮は、学習するのか?
違う。俺たちが正しい行動をすると、その先に罠がある。セラの言っていた通りだ。
俺は歯を食いしばり、棒を床に当てた。「じゃあ、回避の回避をする。……ミリア、記録。罠の位置、濡れ床、音が鈍る。フィーネ、皆の呼吸見て。リュカ、焦るな」
「了解」ミリアが即答した。
迂回して進む。通路の先で、魔物の唸り声が聞こえた。
あの黒い狼のような魔物だ。
リュカが剣を構える。兵士が槍を構える。俺も剣に手をかける――が、セラが小さく首を振った。
「振るな。棒でいい」
俺は頷き、棒を持ち替える。魔物は二匹。こっちを見て、低く唸り、跳躍の体勢に入る。
その瞬間。
フィーネが一歩前に出て、香の小瓶を床に落とした。パリン、と小さな破裂音。甘い匂いが広がる。
「……落ち着いて。目は、目標だけ」
彼女の声は、反響する迷宮の中でも、妙に真っ直ぐ届いた。魔物が一瞬、鼻を動かす。
その隙に、リュカが動いた。斬るのではなく、剣の腹で叩き、魔物の跳躍を崩す。兵士が槍で突く。俺は棒で魔物の横腹を強打し、壁へ押し付けた。
――戦ってない。崩してるだけだ。
それでも、魔物は倒れた。黒い血が床に滲む。息が荒い。俺の。
フィーネが俺の肩に手を置いた。「今のは、勝ちです」
勝ち。――そうだ、勝ちだ。剣を振らなくても、勝ちは作れる。
だが、そこでミリアが小さく呟いた。
「……おかしい」
「何が?」俺は息を整えながら聞いた。
ミリアは地図を指差した。「入口からここまでの距離。証言と照らすと、もう少しで広間があるはずです。でも、空間の気配がありません」
セラが舌打ちした。「ねじれだ。もう来たか」
リュカが周囲を見回す。「つまり、道が――」
「繋がってない」セラが言う。「同じ角を曲がってるのに、別の場所に出てる」
背筋が冷えた。
俺は撤退条件を思い出す。分岐が連続したら引く。分断したら引く。霧が濃くなったら引く。
今は? まだ分断していない。霧も薄い。分岐は――二回。
撤退するには早い。でも、このまま進んだら、戻れなくなるかもしれない。
迷ったら撤退では遅い。
俺は棒を握り締め、決断を口にした。
「一度、入口方向へ戻る。……戻れるか、確認する」
リュカが驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。「了解。戻る」
セラが目を細める。「いい。戻れなくなってからじゃ遅い」
俺たちは来た道を引き返した。
通路。濡れ床の罠。迂回路。魔物の死体。
――ある。全部ある。
なのに。
黒い石のアーチが、見えない。
「……そんな馬鹿な」兵士が震える声を出す。
セラが低く言った。「ねじれた。入口が別の場所に移った」
フィーネが静かに息を吸った。「皆さん。呼吸を。今、恐怖が増幅します」
ミリアは顔を青くしながらも、炭筆を走らせていた。「入口が移動……迷宮は出口を固定しない……」
俺の頭の中に、最悪の結論が浮かぶ。
撤退できない。
つまり――
勝てる一回は、もう始まってしまっている。
セラが俺を見た。目が鋭い。「勇者さん。言ったろ。迷宮は『正しさ』を狙ってくる。撤退を選んだなら、次は――」
「次は?」俺は喉の奥から絞り出した。
セラは、通路の先を見つめたまま言った。
「核へ向かうしかない」
迷宮の奥から、低い振動音が響いた。
ドクン、ドクン、と。
まるで心臓の鼓動みたいに。




