2:観測の舞台、反復する迷宮
2:観測の舞台、反復する迷宮
翌朝、王都の空はやけに澄んでいた。
晴れているのに、胸の奥が重い。潮の迷宮で感じた「身体の重さ」とは違う。「見られる重さ」だ。視線が皮膚の上に乗ってくる感覚。歩くだけで、誰かの期待と欲が足首に絡む。
宿舎を出ると、護衛の兵がすでに並んでいた。数が多い。丁寧な護衛というより、逃がさないための配置に見える。
グレンが前に立っていた。相変わらず顔色ひとつ変えない。
「試験迷宮の地点へ移動します。到着後、観測装置の説明、規定の確認、開始合図。以上です」
セラが鼻で笑った。「まるで劇の段取りだね」
「公開試験ですから」グレンは淡々と返す。「観測の信頼性を担保する必要があります」
リュカが吐き捨てるように言った。「信頼性のために命を削るのか」
「命は削るものではありません。消費するものです」グレンはさらりと言った。
空気が凍った。
フィーネが一歩前に出る。目は静かだが、声に刃がある。
「監察官。あなたの言葉は、人を物に変えます。私はそれを許しません」
グレンは眉一つ動かさない。「理念の話は不要です」
セラが小さく手を挙げた。俺たちの合図で、釘。危険停止。言葉をここで増やしてはいけない。怒りを燃やせば、国はそれを反抗と記録する。
俺は息を吸い、吐く。呼吸だけは俺のものだ。
「行こう」
俺が言うと、リュカも唇を噛んで頷いた。ミリアは胸の前で炭筆を握りしめ、フィーネは目を閉じて一瞬祈るように息を整えた。
*
王都近郊、城壁の外。
そこには、仮設の巨大な観覧台が組まれていた。木と鉄の組み合わせ。軍の工兵が作ったのだろう。円形の闘技場のように見える。中央に、青白い光の柱――試験迷宮の入口が立っていた。
入口の周囲には、透明な結晶柱がいくつも立っている。大きさは人の背丈ほど。内部に淡い光が流れている。観測装置だ。これが俺たちの動きを記録し、外の観覧台へ映す。
……見世物だ。
観覧台はすでに人で埋まっていた。貴族、学者、神官、商人、兵士、そして一般市民。歓声とざわめきが混ざり、まるで祭りのような熱気が渦を巻く。
その熱気が、俺の皮膚に貼りつく。
最前列には昨日の将がいる。その隣に、若い王族らしい人物。目が鋭い。さらに後ろに、高官たち。笑っている者もいる。興味の目。期待の目。試す目。
そして、壇上に立つのはグレンだった。
「これより、試験迷宮の公開試験を開始します」
淡々とした声が結晶柱に反響し、闘技場全体に響いた。声が増幅される仕組みだ。迷宮が声を拾う世界で、わざわざ声を増やす。皮肉がすぎる。
「目的は二点。迷宮の学習速度測定、及び攻略手順の標準化」
観覧台から拍手が起きた。
拍手が、俺の鼓膜を叩く。
それだけで気持ち悪い。
グレンがこちらを振り向く。
「勇者ユウ一行。前へ」
俺たちは入口の前へ進み出た。視線が集中する。人が多いほど、空気が硬くなる。息が詰まる。
フィーネが小さく言った。「深呼吸」
俺たちは一瞬だけ呼吸を揃える。観覧台のざわめきが遠くなる。身体の内側に線が戻る。
将が立ち上がり、儀式みたいに言った。
「勇者ユウ。貴殿の意思は理解した。標準化を拒否し、複数化すると言ったな」
「言った」俺は短く答えた。
「ならば見せよ」将は言う。「観測の前で、貴殿の揺れがどれほど有効か。――ただし条件がある」
嫌な予感がする。
将が続けた。
「試験迷宮は、昨日提出された手順記録を基に設計した。貴殿らの特徴を抽出し、最適化した」
観覧台がどよめく。
学者が身を乗り出す。
貴族が興奮した顔で笑う。
市民の中には、よく分からないまま歓声を上げる者もいる。
――作った。
セラが小さく呟いた。「やっぱり作った」
リュカが歯を食いしばる。「ふざけるな……」
フィーネが静かに言う。「命を実験にする」
将は淡々と告げた。
「これにより、観測の価値が上がる。貴殿らが学習を上回れるかが測れる」
グレンが補足するように言った。
「試験迷宮の名称は《反復迷宮》。貴殿らの手順――塩、蝋、非言語合図、役割固定の回避、深呼吸――それらに対する対策が組み込まれている」
名まで付けたのか。
反復。
俺のループを、迷宮の名前にしやがった。
将が言った。
「開始せよ。勝てば、貴殿の提案――複数化――も検討する。負ければ、標準化を命じる」
負ければ標準化。
勝てば検討。
……条件が不公平すぎる。だが、今ここで抗議しても、歓声の中に消える。正しさは、数に負ける。
俺は入口の青白い光を見た。
迷宮は学習する。
国も学習する。
だったら――俺たちも学習するしかない。
俺は仲間を見た。目だけで合図する。
揺れる。
でもバラバラにならない。
心の手順を共有する。
セラが小さく頷く。リュカも頷く。ミリアが唇を結び、フィーネが目を閉じて一度呼吸を整える。
そして俺は、入口へ一歩踏み出した。
*
青白い光が視界を満たし、次の瞬間――空気が変わった。
湿気がない。潮の匂いもない。乾いているのに、金属の匂いがする。鉄の粉を吸い込むみたいな感覚。
そこは、広い白い部屋だった。天井も壁も床も、真っ白。ただし白は塗られた白ではない。骨の白。陶器の白。冷たく、硬い。
床には、細い黒線が格子状に走っている。まるで盤面。
壁のあちこちに、透明な鏡が埋め込まれている。鏡は俺たちを映すが、少し遅れて映す。動くと、影が追いついてくるみたいにズレる。
ミリアが小さく呟いた。
「……反復」
フィーネが囁く。「動きを覚える部屋」
リュカが剣を構えようとして、眉をひそめた。「……軽い」
軽い? 潮の迷宮では重かった。ここは逆だ。剣が軽い。身体が軽い。軽すぎて、足が浮くような感覚。踏み込みが空振りする。
セラが義足を軽く踏み鳴らした。「軽いってことは、転ぶってことだね」
そうだ。軽いとバランスが崩れる。点で踏む歩き方は、軽いと逆に危ない。足が滑る。跳ねる。空転する。
――俺たちの点対策。
床の黒線が、ふっと光った。
《観測開始》
《反復対象:勇者一行》
《模倣遅延:三拍》
文字が見えた。
俺だけに。
模倣遅延、三拍。
この部屋は、俺たちの動きを三拍遅れで再現する。つまり、俺たちがした行動が、少し遅れて罠として返ってくる。
リュカが前へ出ようとした瞬間、鏡の中のリュカが三拍遅れて同じ動きをする。それが敵になるかもしれない。床が反応するかもしれない。
俺は短く言った。
「三拍」
それだけで、セラが理解する。フィーネも、ミリアも。言葉を短く、意味を濃く。俺たちの間で共有した符丁だ。
「反復するんだね」セラが小さく言った。「じゃあ、同じ動きしなきゃいい」
「同じ動きをわざとさせるのもあり」ミリアが言う。「反復が罠なら、罠を先に出させる」
フィーネが頷く。「先に出させて、空振りさせる」
リュカが口角を上げた。「いい」
俺は息を吸って吐いた。
「揺れる。……でも、揺れを作る順番は決める」
セラが眉を上げた。「順番?」
「先頭交代」俺は言った。「部屋ごとに先頭を変える。今日は――セラ、最初」
セラが一瞬目を見開き、それから笑った。
「まさかの私かい」
リュカが即座に頷く。「いい。動きが読めない」
フィーネも言う。「私も賛成です」
ミリアが少しだけ安心した顔をした。役割が固定されない。だからこそ、国も迷宮も予測しにくい。
セラが一歩前に出た。義足を鳴らさないよう、あえて足を引きずるように動く。普通なら悪手。でもここは反復。変な動きほど、反復が歪む。
すると、床の黒線が一部だけ光った。
――反応がズレた。
鏡の中のセラが三拍遅れて同じ動きをする。だが鏡のセラは、義足を正常に動かそうとしているように見える。引きずりが再現されていない。反復が理想形に補正されている。
セラが舌打ちした。「補正してる。最適化だ」
迷宮は変な動きを変として再現しない。正しい動きに直して反復する。つまり、癖で揺れても、迷宮が正規化する。
――国の標準化と同じだ。
フィーネが小さく言った。「なら、癖ではなく、選択で揺れます」
セラが頷いた。「補正できない揺れを作る。……道具だ」
セラは工具袋から、短いワイヤーと釘を取り出した。床の格子線の交点に、釘を軽く刺す。音を立てない程度に。次にワイヤーを床に沿って張る。格子線に沿って、ほんの少しだけ斜めに。
床が反応した。黒線の一部が強く光る。迷宮は線に敏感だ。足ではなく、接地の形に反応する。
「ここは盤面だ」ミリアが言う。「足ではなく、線を読む」
リュカが低く言った。「点の歩き方は死ぬ」
俺は頷く。「面で踏む」
点を捨てる。潮の迷宮の勝ち方を捨てる。揺れる。
セラが足裏全体で床を踏んだ。
同時に、鏡のセラが三拍遅れて同じように踏む。
その瞬間、鏡のセラの足元の黒線が赤く光った。鏡の中だけ、床が罠になっている。
そして三拍後――現実の床が赤く光った。
赤く光った場所が、沈んだ。
沈むというより、床が抜けた。
穴が開く。真っ白の床が口を開ける。下は闇。落ちたら終わりだ。
「来た!」リュカが叫びそうになり、口を閉じた。声は不要。動きで伝える。
セラはすでに分かっている。彼女は自分の踏んだ場所が三拍後に抜けると読んで、先に次の格子へ移動していた。面で踏み、面で移動する。跳ばない。滑らない。重心を低く。
俺たちも続く。
面で踏む。
三拍後に抜ける場所を避ける。
つまり、今踏んだ場所は三拍後に危険になる。
なら、踏む場所を記録しながら進む必要がある。
ミリアが炭筆を床に軽く当て、格子線に小さな印を付け始めた。印は点じゃない。短い線。線なら迷宮の補正が働きにくい。
彼女は印で「踏んだ場所」を記録し、三拍後に危険になる場所を可視化する。
フィーネが息を整えながら、光の膜を薄く張った。罠が抜ける瞬間の風圧でバランスが崩れないようにする。膜は盾ではない。姿勢制御の補助だ。
リュカは前ではなく、横に立った。前衛の位置を変える。敵がいないなら盾役は不要。落下から守る役が必要だ。リュカは俺の左に立ち、腕を伸ばして支点になる。
セラが先頭で進みながら、短く言った。
「出口、見える?」
白い部屋の奥に、黒い扉が一つ見える。だがその前に、鏡が三枚並んでいる。鏡はまるで門番だ。鏡の中の俺たちが、三拍遅れて動く。それが罠の引き金になる。
俺は短く答えた。
「見える。……でも鏡が鍵」
その瞬間、鏡の中で別の俺が笑った気がした。
錯覚じゃない。鏡の俺の口角が、俺より少し早く上がった。
ミリアが息を呑む。「……鏡が、勝手に」
鏡の中の俺たちが、勝手に動き始めた。三拍遅れのはずなのに、遅れが縮む。模倣が自走する。観測から、介入へ。
鏡の中のリュカが剣を振り上げ、鏡の中のフィーネが手を伸ばす。鏡の中のセラが釘を投げ、鏡の中のミリアが炭筆を折る。
――嫌な映像だ。
俺たちの役割を壊す動き。
国が言った《次回対策:役割崩壊》。
それが、もう来ている。
フィーネが小さく言った。「見せたいんです。私たちが壊れるところを」
セラが低く笑った。「観測って言葉は便利だね。悪意を隠すのに」
鏡の中の俺が、口を開いた。声は聞こえない。だが唇の形が読める。
――「死ね」。
俺の背筋が冷えた。
リュカが一歩前に出る。鏡に向かって剣を構える。だが、剣を振れば、三拍後に床が抜ける。反復が返ってくる。
どうする。
鏡を壊したい。
でも壊す動きが罠になる。
俺は息を吸って吐き、短く言った。
「逆手。……空振りさせる」
セラが即座に理解する。「鏡の動きに答えを返さない」
フィーネが頷く。「私たちが動かなければ、反復は――」
「止まらない」ミリアが言った。「自走してる。なら、鏡はもう敵です」
敵なら、倒す。
でも倒し方を固定しない。
揺れる。
俺は棒を握り直した。
棒は剣より軽い。
軽いなら、振りが大きくなる。
振りが大きいほど、反復が大きく返る。危険だ。
だから、振らない。
俺は棒を床に置いた。
武器を捨てた。
リュカが目を見開いた。「おい!」
俺は短く言う。
「武器で壊すな。……鏡の観測を壊す」
セラが笑った。「なるほど。物理じゃない」
ミリアがすぐ理解した。「鏡は反射する。反射するために光が必要。――光を乱せば、映像が崩れる」
フィーネが静かに言う。「私の膜を、鏡に」
フィーネは薄い光の膜を、鏡の表面に貼りつけた。鏡の表面が曇る。だが曇り方が均一ではない。膜が揺れる。呼吸と同期して揺れる。
鏡の中の映像が歪んだ。
鏡の中の俺が、顔を歪める。
鏡の中のフィーネの手が、途中で止まる。
鏡の中のリュカの剣が、曲がって見える。
セラが釘を床に刺し、ワイヤーを鏡の前に張った。光がワイヤーで分散する。
ミリアが炭筆で床に短い線をいくつも引く。線が光を散らす。盤面が乱れる。
鏡の中の映像がさらに崩れる。
だが、鏡が最後の抵抗をした。
鏡の中のセラが、こちらに向かって釘を投げる仕草をした。
鏡の中のリュカが、こちらに向かって剣を振る仕草をした。
鏡の中のミリアが、こちらに向かって炭筆を突き刺す仕草をした。
反復ではない。攻撃だ。
次の瞬間、白い部屋の天井から、細い黒い糸が降ってきた。糸は光を吸う糸。糸が降ると、フィーネの膜が弱まる。光が削られる。
――光対策への対策。
迷宮は学習している。数秒で上書きしてくる。早すぎる。
リュカが低く言った。「時間がない。扉へ抜けるぞ」
扉までの距離は短い。だが床は三拍後に抜ける。走れば転ぶ。転べば終わり。
でも、鏡と糸が増えれば、ここに居続けるほうが危険だ。
俺は息を吸って吐き、言った。
「走らない。……滑る」
「滑る?」ミリアが目を見開く。
「面で踏む。面で滑る」俺は言った。「床の抜ける周期は三拍。なら、三拍以内に扉前へ移動すればいい。走らず、滑れば反復が追いつく前に――」
セラが笑った。「スケートみたいなもんだね」
フィーネが薄く膜を張り、床を滑りやすくする。光の膜は潤滑ではないが、摩擦を少しだけ減らせる。
リュカが俺の横で腕を伸ばし、支点になる。
ミリアが床の線を見て、危険になる格子を避ける経路を指で示す。
セラが先に滑った。義足が床を撫でる。滑る。
俺も滑る。棒は使わない。手は空ける。転びそうになったらリュカの腕を掴む。
フィーネは膜を維持しながら、最後尾で支える。
ミリアは線を見て、タイミングを叫ばずに指で示す。
一、二、三。
床が抜ける。
俺たちはすでに次の格子へ滑っている。
一、二、三。
また抜ける。
抜ける音が背後で連鎖し、穴が増える。落ちたら終わり。
扉が近づく。
鏡の中の俺が、最後に口を動かした。
――「逃げるな」。
俺は心の中で返す。
逃げるんじゃない。通るんだ。
扉の前まで滑り込み、セラが釘を扉の隙間に差し込んだ。てこ。
リュカが剣の腹を当てて押す。
俺が肩で扉を押す。
フィーネが膜で摩擦を減らす。
扉が開いた。
次の部屋は――暗かった。
白い部屋とは正反対。
黒い部屋。
床も壁も天井も、光を吸う黒。
そして、床の中央に、一本の細い光の線だけが走っている。
その線の上に、何かが立っていた。
人の形。
でも顔がない。
鏡のような肌。
こちらの動きを真似るために作られた、空っぽの人形。
ミリアが震える声で言った。
「……模倣体」
フィーネが息を整え、静かに言った。
「次は、鏡ではなく……人が来ます」
リュカが剣を構え、セラが工具袋を握り、俺は棒を拾い直した。
暗闇の中、光の線の上の模倣体が、ゆっくりとこちらへ歩き出す。
その足取りは――俺の足取りだった。
視界の端に、文字が浮かぶ。
《反復迷宮:第二層》
《対象:勇者ユウ》
《最適化:弱点抽出 開始》
弱点抽出。
――来る。
俺の弱点を、迷宮が形にして殴ってくる。
俺は息を吸って吐き、仲間を見た。
揺れる。
でも、今度は揺れが俺自身を守れるかどうか。
模倣体が、俺と同じ角度で首を傾けた。
そして、俺と同じ声で――初めて音を出した。
「死ぬたびに、弱くなるんだろ?」
その一言で、胸の奥の冷えが、刃になった。




