1:王都からの招集、そして公開試験
1:王都からの招集、そして公開試験
港町レイナの朝は、塩の匂いが薄くなっていた。
沖合の霧柱はまだ細く残っている。けれど脈打ちは弱く、昨日までのような息を吸われる感覚はない。町の人々は市場を開き、漁に出る準備を始めていた。歓声と泣き声が混ざった夜の余韻が、朝の光に溶けていく。
――救えた。
頭ではそう理解しているのに、胸の奥の冷えは消えない。勝てば勝つほど、次が厳しくなる。迷宮が学習するのは当然として、国まで学習してくる。俺たちの手順を道具にして、再現して、最適化して、使い回す。
その最適化は、人間の形を削る。
港の端で海を眺めていると、フィーネが隣に立った。彼女はいつも通り静かで、風に揺れる髪の先だけが生き物みたいに動いている。
「勇者様、眠れましたか」
眠れた、と言えば嘘になる。目を閉じるたび、骨に響く声が戻ってきた。『資産として』という言葉が、潮の冷たさみたいに身体に貼りつく。
「……少しだけ」
フィーネはそれ以上聞かず、小さく頷いた。彼女の優しさは、問い詰めないことに宿る。
少し離れた場所で、セラが工具袋の中身を数えていた。釘、ワイヤー、蝋、火打ち石、荒塩の残り。彼女は全部を次のために戻している。勝利の後始末をするときの手つきは、戦いの最中より落ち着いていた。
リュカは、剣を水桶で洗っていた。重くなった感覚が抜けきらないのか、何度も柄を握り直している。ミリアは炭筆の束を胸に抱えて、港の見張り台に座り、沖合の霧柱を見つめていた。見つめながら、何かを書いては消している。記録と葛藤が同じ速度で進んでいる顔だった。
そして――グレン。
監察官グレンは、港の詰所の前で使者に紙束を渡していた。昨日の戦いの記録。俺たちの合図、塩の使い方、蝋で流路を塞いだ手順。全てが、もう王都に向かっている。
俺が視線を向けると、グレンがこちらに気づき、淡々と近づいてきた。
「勇者ユウ。王都から招集命令が下りました」
朝の光の下でも、彼の声は冷たい。温度がないのに、刃物みたいに刺さる。
「早いな」セラが吐き捨てた。「礼の一つも言えないのかい」
「礼は記録に不要です」グレンは平然と答えた。「必要なのは再現性です。上層部は成果を評価しています。あなた方の手順は国益に資する」
フィーネが静かに言った。「国益の前に、町の人が助かりました。それが第一です」
「結果として一致している」グレンは言う。「よって問題はありません。――招集は三日後。王都へ戻り、報告会に出席していただきます」
報告会。嫌な言葉だ。報告をするだけならいい。だが、グレンがわざわざ会と言うときは、何かが付いてくる。
ミリアが見張り台から降りてきて、恐る恐る聞いた。
「報告会って……何をするんですか」
「公開の場で手順を説明し、再現してもらう」グレンは淡々と言った。「また、王都近郊に出現した小規模迷宮で公開試験を行う」
空気が、きゅっと固まった。
公開試験。
セラの義足が、ぎ、と鳴った。リュカの眉がぴくりと動き、拳が握られる。フィーネは口を閉じたまま、呼吸だけを整えた。ミリアの顔色が一段白くなる。
俺の胸の奥で、嫌な予感が形になる。
国は再現したがる。再現性を求める。
でも迷宮は学習する。再現性は毒だ。
それを分かっていないのか。分かっていて、やるのか。
「却下」セラが先に言った。「公開で再現なんて、迷宮に答えを配るようなもんだ」
「迷宮が学習するなら、学習速度を測る必要がある」グレンは即答した。「公開試験はそのための合理的手段です」
――やっぱりだ。
この男は、人を実験材料に変換できる。迷宮と同じ目をしている。観測の目だ。
リュカが一歩前へ出た。「勇者を死なせる気か」
「死は想定していません」グレンは表情を変えない。「勇者には死に戻りがある。情報によっては、制御された死は――」
「釘」
フィーネの声が低く落ちた。
危険停止の合図。俺たちの中だけで共有した、強制停止。
全員が一瞬動きを止める。呼吸を整える。怒りが形になって噴き出す前に、形を崩す。
俺はグレンをまっすぐ見て、短く言った。
「俺は制御された死なんてやらない」
「あなたの意思は尊重します」グレンは言う。「しかし、命令は命令です。拒否した場合、勇者の支援は縮小されます」
それは脅しだった。露骨じゃない。だが確実に首を締める脅し。補給、情報、護衛、宿、移動。国の支援が減れば、次の迷宮で死ぬ確率が上がる。死ねば弱体化する。つまり、支援を減らすだけで俺は詰む。
――国も、俺の弱点を最適化し始めている。
ミリアが震える声で言った。「……そんな」
セラが舌打ちした。「卑怯だね」
フィーネは視線を伏せずに言った。「監察官。命は脅しの道具ではありません」
「理念の話は不要です」グレンがまた言った。「あなた方は王都へ戻る。それが最も効率的です」
俺は唇を噛んだ。
効率。最適化。合理性。
それらが全部正しく聞こえるのは、正しさの皮を被っているからだ。実際は、誰かの恐怖と命を踏み台にしている。
でも、ここで逆らって支援を失うのは、もっと危険だ。俺は一人じゃ勝てない。弱体化の縛りは、仲間がいることでかろうじて成立している。仲間が削られれば、俺は死ぬ。死ねば弱体化する。終わりだ。
――なら、受けるしかない。
受けたうえで、壊す。
公開試験そのものを、成立しない形にする。
俺は息を吸って、吐いた。
「……王都へ戻る」
「勇者様……」ミリアが目を揺らす。
「でも条件がある」
グレンがわずかに首を傾げた。「条件とは」
「公開試験で、手順の再現はしない」俺は言った。「やるなら別の勝ち方で勝つ。再現性を拒否する」
グレンは少し黙った。たぶん計算している。上層部への説明、報告書の体裁、試験の目的。そこに別の勝ち方が許されるか。
「目的は学習速度の測定です」グレンは言った。「手順が異なれば、比較が難しい」
「比較なんて、迷宮の前では意味がない」セラが吐き捨てる。「同じ条件が二度来ないんだよ」
フィーネが静かに続けた。「比較をしたいなら、命を賭けない方法で行ってください。私たちは道具ではありません」
リュカが短く言った。「守る。勇者を」
ミリアも小さく頷いた。「……私も」
グレンは、俺たちの顔を順番に見た。彼の目は個人を見ていない。役割を見ている。勇者、回復役、技術役、前衛、記録係。そう分類している目だ。
「……許可はできません」グレンは言った。「ただし、上層部に提案はします。勇者ユウの発言として記録する」
記録。提案。
結局この男は、紙にして王都へ運ぶだけだ。
「好きにしろ」セラが吐き捨てた。
俺は心の中で決める。
公開試験の場で、俺たちは揺れる。
勝ち方を複数にする。
手順を一つにしない。
国にも、迷宮にも、固定された答えを渡さない。
*
三日後。
王都へ向かう道は、レイナへ来たときより賑やかだった。商隊が増え、護衛の数も増えている。迷宮の影響は港町だけじゃない。国全体の動きが、じわじわと迷宮に引っ張られている。
馬車の中で、ミリアが小さな声で言った。
「公開試験って……見物人も来るんでしょうか」
「来るだろうね」セラが即答する。「英雄の見世物さ。王都はそういうのが好きだ」
リュカが不機嫌そうに言う。「ふざけるな」
フィーネは落ち着いた声で言った。「見物人がいるなら、なおさら死を使う考えは止めさせましょう。公開の場で死を求めるなら、それは国家の暴力です」
俺は頷いた。フィーネの言葉は真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、折られそうになる危うさもある。守らなきゃいけないのは、俺だけじゃない。
王都が近づくにつれ、胸が重くなる。潮の迷宮の重さとは違う。空気が、人の視線が、政治が重い。
城門をくぐると、王都はいつも通り華やかだった。石畳、旗、噴水、広場。だがその華やかさの裏で、兵が増えている。迷宮の出現は国の秩序を揺らしている。
俺たちは城へ通された。
報告会は、予想以上に催しだった。
広いホール。貴族たち。軍の高官。学者らしい者。神官。記録官。壇上には大きな地図と、迷宮の図。レイナの霧柱の絵まである。俺たちが止めた現象が、すでに物語に加工されている。
そして最前列に――王族の一人らしい人物が座っていた。若い。目が鋭い。隣に立つ軍の将が、こちらを値踏みするように見ている。
グレンが壇上へ上がり、淡々と説明を始めた。俺たちの行動、塩、蝋、非言語合図、危険停止。彼の言葉は正確で、整っている。整っているぶん、嫌なものが削ぎ落とされている。
恐怖。迷い。仲間の震え。呼吸。
そういう人間の部分は、記録されない。
説明が終わると、将が立ち上がり、低い声で言った。
「勇者ユウ。貴殿の働きは評価する。よって、明日――王都近郊に出現した試験迷宮にて、公開試験を行う」
試験迷宮。
言葉の響きだけで吐き気がする。迷宮を試験に使う。人を試験に使う。
将は続けた。
「目的は二つ。迷宮の学習速度の測定。および、勇者一行の手順の標準化。以後、各地の迷宮攻略に適用する」
標準化――固定化だ。
セラが小さく鼻で笑ったのが聞こえた。リュカの拳が震える。ミリアが唇を噛む。フィーネは目を閉じ、静かに呼吸を整えた。
俺は一歩前に出て、短く言った。
「標準化はしない。迷宮は学習する。固定した手順は殺される」
ホールがざわついた。貴族が眉をひそめ、学者が興味深そうに身を乗り出す。神官が小声で何かを祈る。王族の目が、俺を射抜く。
将は表情を変えずに言った。
「では、貴殿の代案は」
――ここだ。
俺は息を吸って、吐いて、言った。
「複数化する。勝ち方を一つにしない。役割も固定しない。迷宮に学習させないために、俺たちが揺れる」
将の口角がほんの少し上がった。嘲笑ではない。試す笑みだ。
「揺れる、か。面白い。だが公開試験は、観測の場だ。観測には再現性が必要だ」
フィーネが一歩前に出た。声は静かだが、芯がある。
「観測のために命を賭けるなら、それは目的が逆転しています。観測は人を守るためにあるべきです」
ホールが再びざわついた。誰かが不快そうに咳払いをした。
将はフィーネを一瞥し、淡々と告げた。
「議論は明日の結果で判断する。勇者ユウ、公開試験に参加せよ。拒否は許されない」
命令。
俺の背中に、冷たい汗が流れた。
――拒否は許されない。
つまり、国が俺たちの選択肢を削ってきた。迷宮と同じだ。選択肢を削り、固定した形に押し込めて、そこを最適化して殺す。
俺は頷くしかなかった。
「……分かった」
ホールの空気が少し緩む。決まった、という空気だ。人は決定が好きだ。決定は安心になる。誰かの命が材料でも。
その場が散会になり、控室へ通される途中で、グレンが隣に来て低い声で言った。
「勇者。上層部は死に戻りの検証に強い関心を持っています。明日、何が起きても冷静に対応してください」
冷静に、という言葉が怖かった。冷静に死ね、と聞こえる。
俺は歩きながら、短く返した。
「俺は死なない」
グレンは淡々と答える。
「死なないことが最適とは限りません」
――言った。
この男は、言った。
俺は立ち止まりかけたが、フィーネがそっと俺の袖を掴んだ。小さな合図。今は止まるな、という合図。
俺は歩き続けた。
*
その夜、宿舎の小さな部屋で、俺たちは円になった。
外では王都の灯りが揺れている。華やかな夜。だが部屋の中は、戦場の前夜みたいに静かだった。
セラが先に口を開く。
「公開試験。つまり見世物。つまり罠。――迷宮だけじゃなく、国の罠も混ざる」
リュカが短く言った。「守る。勇者を」
ミリアが不安そうに言う。「でも……国が介入したら、私たちの合図も……手順も……」
フィーネが頷く。「だから言葉だけで繋がらない。合図だけでも繋がらない。――心の手順も必要です」
心の手順。フィーネらしい言い方だ。
俺は息を吸って吐いて、皆を見た。
「明日は、揺れる」
「揺れる」セラが繰り返す。
「勝ち方を一つにしない。役割も固定しない。迷宮にも国にも、答えを渡さない」
リュカが頷く。「分かった」
ミリアが小さく言った。「揺れる……でも、バラバラにならない方法が必要」
「そこだ」俺は言う。「バラバラにならずに揺れる。――合図を増やすんじゃない。合図を捨てる場面も作る。互いの癖を読む」
セラが口角を上げた。「即興ってやつか。いいね。迷宮は即興に弱い。最適化は固定が前提だから」
フィーネが静かに言った。「そして、誰かが死に戻りを口にしたら、私は止めます。命を道具にする言葉を、許しません」
その言葉が、俺の胸に真っ直ぐ刺さった。
ありがとう、と言いたかった。
でも言葉にすると、何かが崩れそうで、俺はただ頷いた。
そのとき、ミリアが窓の外を見て、息を呑んだ。
「……あれ」
俺たちも窓へ寄る。
王都の外壁の向こう、近郊の空が――薄く光っていた。霧じゃない。潮でもない。淡い青白い光の柱が、一本、立っている。
――新しい迷宮。
しかも、王都近郊。
しかも、試験迷宮。
あまりに都合が良すぎる。
セラが低く笑った。
「作ったんじゃないの? って言いたくなるね」
リュカが拳を握る。「……明日、あそこへ行くのか」
フィーネが窓の光を見つめ、静かに言った。
「勇者様。明日は、迷宮だけでなく……人の欲も相手です」
欲。観測欲。権力欲。英雄を欲しがる目。
俺は青白い柱を見つめながら、胸の奥で決めた。
明日、俺は死なない。
死なないまま、勝つ。
そして――国の最適化にも、迷宮の学習にも、答えを渡さない。
青白い光が、夜空で静かに脈打った。
まるで「来い」と呼んでいるみたいに。




