6.シャワールーム
「さぁさ、深夜の迷える子羊様! どうぞこちらへ」
誰もいないはずの礼拝堂に現れたのは、薄ら笑みを浮かべたシスター。
「一杯飲んだあと」と公言した通り、月明かりの下でも頬が赤いとわかる。
「あなたは……」
「んん? 私の顔に血糊でもついております?」
彼女は笑みを深めると、私をベンチへ導いた。
“エリス”と名乗る彼女は、長い赤髪を揺らしながら顔を近づけてくる。
「それで? 土塊色の顔をなさって、どうしたのです」
「あっ……今、大変なことが起きていて!」
不思議な魅力をまとう彼女に見惚れて、つい忘れていた。
今、おびただしい数の魔獣が扉から溢れ出てきている――。
「“無焔の番人”が食い止めているので、大丈夫だとは思うんですけれど……」
すべてを話し終える間も、女性はとても落ち着いていた。
まるで外の状況を知っていたかのように。
「私も長く宿直を続けておりますが、100年に一度あるかないかのような出来事ですねぇ」
(100年って……冗談、だよね?)
表情は緩いものの、エリスはやっと真剣に言った。「冥府の夜に魔獣が大量発生した記録は、過去にもあった」と。
それにしても、赤髪――やはりどこかで彼女を見た気がする。それも昔のような、つい最近のような。
「さて」とこぼしつつ、エリスは立ち上がった。
月明かりを浴びた彼女の視線は、私の手元――ママの魂が入ったランタンに留まっている。
「そう焦らずとも大丈夫ですよ、リリン姫! アナタの番人の強さは、アナタが一番ご存じでしょう?」
「え……?」
姫や番人の顔は、国民みんなが知っているとしても。より詳しく私たちを知っているような――そんな口調に思えた。
(この人、何者なの……?)
「あらら、まだお気づきでない? ワタシは姫様たちが無事“魂迎え”を終えられるよう、お城から『見守り役』を頼まれたものです!」
含みのある笑みに、強制的に黙らせられてしまった。
なんか嘘くさい――。
エリスの肩で、月色の蛾が羽を休めている。
その不規則な羽ばたきを眺めていると。
「あれ……?」
目の前の彼女がぼやけて、だんだんと「在るべき形」に見えてきたような――彼女が女性ではなく、以前は男性だったような気さえしてくる。
そんなこと、あり得ないのに。
「私……やっぱり、ここに来たことがある?」
こぼれた声に対し、目の前のエリスが歪に微笑んだ。
そして――彼女の視線が背後に移る。
つられて振り返ると。
「……っ、姫……」
教会の扉が軋む音を立てて開き、血まみれのウルが雪崩れ込んできた。
「ウル! 怪我したの!?」
すべての魔獣を倒し終えた――珍しく芯のない声で、ウルは言った。
ふらつく身体を支えようと、腕を伸ばしたけれど。
「……よせ。お前が汚れる」
少し乱暴に手を弾かれた。
「別に構わない! シスター・エリス、彼をそこへ寝かせても……あれ?」
おかしい。
エリスの姿がない。
ベンチの上では、私が持ち込んだランタンが銀色に光っているだけ。
さっきまで、確かにそこで笑っていたはずなのに――。
(幻……ううん、そんなはずない)
彼女の妙に明るい響きが、今も耳に残っている。
「ゴホッ……」
水っぽい咳の音に、ふと我に帰った。
とにかく、今はウルを休ませないと――。
「平気、だ。俺の血ではない。ただ少し魔力を……『無焔』を、使いすぎた」
平気と言いながら、自分で立てないくらいフラフラだ。
「いいから、寄りかかって!」
離れようとする腕を引っ張り、何とか担ごうとしたけれど――2メートル越えの彼を、私が運べるはずはなかった。
「……無理をするな。帰るぞ」
足元がおぼつかないくせに、ウルはママの魂が入ったランタンを持ち上げた。
せめてそれを受け取り、ウルの後に続く。
「……シスター」
念のため、もう一度振り返っても――そこにエリスの姿はない。
銀の残像だけが、演台の前で舞っていた。
教会を出た後も、ウルは全然人の言うことを聞こうとしない。
「えっ……ヴァルグで飛ぶなんて無理だよ!」
「平気だと言っている」
ウルは指を鳴らし、黒炎とともに現れた使い魔を飛ばせようとするが――大鴉は首を横に振った。
『このままだと、ご主人が参っちまいますぜ』
「……俺はいい。早く、飛べ」
こうなったら、私が止めても無駄だ。
使い魔はウルの言うことしか聞かない。
でも――ウルと私を乗せて飛び始めた大鴉も、力のない飛行をしている。
やっと都の郊外まで飛んだところで、ついに鴉が小さくなっていった。
「わっ……!」
高度がみるみる下がり、街中へ降ろされてしまった。
ウルの魔力が限界にきている証拠――使い魔まで、あまり力が回らないほどに。
(どこか、休めるところは……)
また指を鳴らそうとする手を強引に取り、周りを見回していると。小さな平屋の立ち並ぶ中に、まだ新そうな外観の宿を見つけた。
揺れるランタン下の看板には、シャワーのイラストがついている。
「浴室付きの宿かな? 今は『冥府の夜』だし、あんな良いところが空いてるか分からないけど……」
身体についた血を落とすため。それに、ウルの尽き果てた魔力を回復させるためにも、あの宿が良さそうだ。
「待て、ここは……」
「いくらかかっても大丈夫!」
無用な心配をするウルの腕を引き、大きな観葉植物で隠された玄関ホールに突入すると――お祭りの最中だからか、宿の廊下には人の気配がない。
簾のかかった受付を訪ねれば、ひと部屋だけ空きがあるという。
「お前、ここがどこか……」
「城下の外郭町でしょ? ちゃんと分かってるよ」
もう魔力の限界なのか、ウルの足取りが重い。
(早く、休ませてあげないと……)
部屋の広さはお城の衣装部屋くらいでも、薄紅の光を灯したランタンが綺麗だし、そこそこ広いベッドも清潔感がある。
たぶん、世間で言う高級宿。
まずは血を流さないと――部屋よりさらに小さな浴室へ、なぜか抵抗するウルを引っ張っていった。
「鎧、解いて」
「……ああ」
少し間をおいて、ウルは詠唱を唱えた。
すると。魔力を主とした漆黒の鎧が帯状に解け、彼の体内へ吸収されていく。
「……もういい。助かったから、お前は部屋で待て」
「だめ! 私がやってあげるから」
足取りのおぼつかないウルを放っておけば、バスタブに頭から突っ込むかもしれない。
ひとまずウルをバスタブの縁へ座らせ、焦りで滑る指でシャワーをひねった。
「ふぅ、暑っ」
顔にかかる長い髪を結い、ドレスの裾を捲り上げた。解放されたうなじと脚が涼しい。
「シャツは……一緒に洗っちゃう?」
そっぽを向いているウルの代わりに、「怪我してないならそれで良いよね」と自答した。
バスタブに座ったウルの頬とシャツは、黒く変色しはじめた赤に染まっている。温めたシャワーを向ければ、ウルが少しだけこちらを向いた。
「……」
なんだろう。
はっきりと見られていないのに、視線を感じる。特に手元に――。
しかも、何かを呟いている気がする。
(ウル、なんだか緊張してる……?)
何となくそう感じたが、実際は「余計なお世話」とでも思っているのだろうか。
夜市でも劇場でも、彼は私とちゃんと向き合ってくれなかった。ただ、彼が仕事をする時――私が危険な目に遭った時だけ、彼は私を見て、触れてくれる。
死神の手ではなく、ウルの手を選んだあの時だけは――冷たい碧眼の中で燃える、静かな炎を感じた。
「……熱い」
「えっ……あ、ごめん!」
しまった。ぼうっとして、一点にシャワーをかけ続けていた。
「お城はともかく、郊外にこんな大きなバスタブのある宿があるなんて思わなかったわ」
重い空気を紛らわせるように早口で言うと、薄い唇が「……ああ」とだけ吐き出した。
それにベッドも大きかったし。
あれなら、2人でもゆっくり休めそう――そう思った瞬間。
「あれ……?」
必死にウルを誘導していたせいで見えなかった違和感が、次々と湧いてきた。
そういえば、受付には目隠しがあった。
それに2人でも十分休める広さのベッド、郊外の宿にしては珍しいシャワー付きの部屋――。
「もしかして……」
この間、他国から取り寄せた小説のワンシーンが頭に浮かんだ。
(ここ、「逢引き用宿」なのでは……!?)
完全に手が止まったことで悟られたのか、ウルは「やっと気づいたか……」とため息を吐いた。
ウルは気づいていたから、入るのを渋っていたのか。
今更だけどこの状況、マズいのでは――?
無言でシャワーを止め、ウルに背を向けた。
「じゃあ、後はごゆっくり……」
ぎこちない笑みを残して、湯気立つ浴室から出て行こうとすると。
手をかけた扉を、力のこもる手に押さえつけられた。
「っ……!」
あんなに辛そうだったのに、こんなに素早く動けるなんて――。
「ウル……」
「お前は、誰にでもこういうことをするのか?」
耳にかかる吐息に、身体が震えた。
おそるおそる振り返ろうとすれば、背中に熱い何かが当たる。
たぶん、ウルの胸――逃げられない。
「誰にでもって……?」
冷静を装いながら、なんとか絞り出すと。
さらに背中へ体重がかかった。
視界が揺らぐほどに暑いのは、浴室にこもった熱のせいか。それとも、ウルが背後に迫っているせいか――頭がぼうっとして、分からなくなる。
「だから、お前は……男が弱っていれば誰でも構わず宿に連れ込み、風呂に入るのか?」
「なっ……!」
だいぶ誤解と悪意のある言い回しだ。
とっさに、首を横に振ると。
「答えろ」
「……っ」
首筋にかかる熱い息に、身体の震えが強くなった。
(ウルが怒ってる気がする……)
それにさっきから、触れそうで触れない距離に、唇を感じる。
「おっ、幼なじみを心配して何が悪いの……?」
早くこの状況から解放されたくて、早口に答えると。
「幼なじみ……」と繰り返したウルが、背後から離れていく気配がした。
今だ――。
ウルの腕をくぐって扉をすり抜け、息ができないほどに暑かった浴室を脱出した。
ベッドへ飛び込み、顔を伏せるも――首筋を伝う吐息の感触が、勝手によみがえる。
「はぁ……私これでも姫なんだよ? こんな状況ふだんならあり得ないし、誰とこんなことするっていうのよ!?」
足をばたつかせ、枕に向かって叫んだ後。
なんだか急に虚しくなって、胸の中の重い息を吐き出した。
「ほんと……なんなの」
結局ウルは、朝まで浴室から出てこなかった。
心配で何度か声をかけると、「生きている」とは返してくれたけれど――朝日が昇る前に、ふたりで部屋を出た。
ウルは、あれから一言も喋らない。
寝不足の目で顔を見上げれば、いつもの少し怒ったような表情がそこにあった。
ウルは時々、手元のランタンの中を飛び回る蛾を確認するだけだ。
(ウルのことが、分からない……)
私は自分の無知と勢いを後悔して、一晩中頭の中のウルに謝罪していたのに。あちらの番人様ときたら、まったくいつも通りなのだから。
それに、浴室で感じた吐息と熱――あれに胸を騒がせているのは、私だけみたいだ。
「ん……?」
背後からのにぎやかな声に、朝日を浴びる宿を振り返ると。
「おや……おやおや! これは珍しいお二人さまで」
私たちを交互に見るのは、派手めな女性と男性を複数人連れた、眼鏡の美丈夫。
(この人……まさか!)
いつもの白衣を着ていなくて、一瞬誰だか分からなかった。
でも、右目下のほくろは間違いない。
同じ連れ込み宿から出てきたのは、私の主治医――ジギタリア先生だった。
すれ違う幼なじみたちの朝に現れた、妖しい美丈夫医師。
どこで出てきたか、覚えていますか?




