5.いずれ就く“死の玉座”/婚約式2日前
死神の手を逃れ、ついにたどり着いたのは――光を吸収する『冥府の扉』。
黒い木々に囲まれた扉が、空間を切り取るかのようにそびえている。
「……歩けるか?」
ウルは何事もなかったかのように、私を大鴉の上から降ろすと。無言のまま、枯れた小道を歩きはじめた。
(身体、冷たくなっていく……)
さっきまで、ウルが抱きしめてくれていたのが嘘みたいだ。あれは落ちないよう、ただ支えていただけだったのだろうか。
広い背中に手を伸ばしかけて――引っ込めた。
今、聞くことではない。
「……ねぇ。ウルって、死神様と知り合いだったの?」
土を擦って歩いていた靴が、ふと止まった。
でも、ウルの返事は「まさか」だけ。
「それと、昼のカボチャ畑のランタンだけど」
「……またその話か」
今度は、苛立つような声が返ってきた。
身体が縮こまる――それでも、このままにはしておけない。
震える足を踏み出し、ウルの前に回り込むと。
寄せられた眉根の端に、黒い火の粉が弾けた。
「しっ……死神様が言ってたの。ランタンもヴェールも、偶然じゃない」
誰かが私を殺そうとしている――。
確信はない。それでも、芯を込めた声で言い切ると。
「誰かが、お前を……?」
目の前のウルが、何重にもブレるみたいに。ゆらりと黒煙が立ち昇った。
「……お前を死なせはしない」
ウルの感情と呼応して、彼の魔力が滲み出ている。噴火直前の火山のように、静かに。
でもそれ以上に怖いのは、彼の暗く燃える瞳の奥にある、見えない感情――瞬きもせずに、私を捉えている。
息を呑み、思わず一歩下がった。
「余計な心配をするな」
「あっ……」
なにかが変だ。
でも、その違和感は曖昧なまま。
ウルの態度なのか、私の周りに起こっていることなのか――ただ、これ以上は踏み込めない。
ウルは、畑でも劇場でも私を守ってくれた。
今はウルを信じよう――。
「……行くぞ」
相変わらず先を歩くウルに続き、石造りの階段へ足をかけた。扉の前にある祭壇の中心には、黄昏の玉座が佇んでいる――扉と同じ、異様な黒が風景に張りついたようなイスだ。
巨大な漆黒の扉。枯れた森。そして森の中にある、鐘楼付きの小さな小屋。
ぜんぶ不気味で、色がない。
「……ねぇ、知ってる? ここには『冥府の夜』のちょっと前に、紅色の綺麗な花が咲くんだけど」
前にも2人でここへ来たことがあるけれど、ウルは覚えていないかもしれない。
期待しないで声をかけると。
「死人花か?」
『冥府の夜』の時期までには、すべて枯れてしまう――そう言って、ウルは半身だけ振り返った。
(なんだ、覚えてたんだ……)
「……そう。だから、少し貴重な花なの」
今は扉の前に、半透明の小さな花がたくさん咲いている。その周りには、月光を浴びる蛾が群がっていた。
「でも、不思議なんだけどね」
最近、毎夜窓辺に花を届けてくれる人がいる。それも、ひと月前に枯れたはずの死人花が、今も新鮮な状態で届けられている――。
「私ね、その人が婚約者なんじゃないかって思ってるの」
「……!」
一瞬、ウルの目が開いた。それでも彼は、まるで「自分ではない」と言うかのように視線を逸らした。
(でも、もしかしたら……)
「ウル、じゃないよね……?」
期待と不安を込めて、無理やり口角を上げると。
ウルは唇を引き結び、半透明の花に視線を落とした。
「……俺は」
いくら言葉を待っても、無音、無風の地に変化はやってこない。
ウルは、目を逸らしたままだ。
たぶん、あれは否定――。
「……そっか。別にいいの! ちょっとだけ、もしかしてって思っただけ」
気を紛らわせるように、“黄昏の玉座”へ足を近づけた。
ここへ来るのは6年ぶり――。
この一帯は崖に囲まれていて、ウルの使い魔の大鴉でもないと近づけない。
ここから、ずっと遠くに見えるランタンの明かりを眺めていると。ふと、その時のことがよみがえった。
ママが亡くなった年の『冥府の夜』。私が自分だけでママの魂を迎えに行きたくて、『冥府の扉』前へ行きたいとウルに無茶を言った。
その時、私は――この崖から落ちそうになったのだ。
パパたちにバレても、私は怒られなかったのに。王家を守る「番人」の息子で、番人を継いで1年目だったウルは、彼のパパにひどく叱られていた。
番人の資格剥奪までは、パパが説得してくれたおかげでされずに済んだけれど――。
あれから、ウルは私に冷たくなった気がする。
はじめは、大人になるにつれて、自然と関係が遠ざかっていっただけかと思ったけれど。
きっと、そうじゃない。
合わない視線、後ろめたいような声。
それを目の当たりにする度、ウルが遠く感じる。
「ん……?」
今、そびえる扉の輪郭が歪んだ気がした。
まさか、そんなはずがない――。
この扉は滅多に開かないのだから。
「……そうだ。今はママを迎えに行かないと」
冥府の扉前に佇む、黄昏の玉座。
まるで「この世の物質ではない」というかのように、すべすべで柔らかい、謎の闇でできているイスだ。
「……あれ?」
玉座の前に立った瞬間、かすかな風を感じた気がした。
やっぱり、扉の方から吹いた気がしたけれど――何事もない。
(また、気のせい……?)
少し粘着感のある肘掛けを掴み、闇色の玉座へ、おそるおそる腰掛けてみた。
「なぜ、今座る……?」
ランタンを提げたウルが、眉根を寄せたまま尋ねてくる。
不満げな顔に対し、目蓋を閉じて、深く息を吸った。
「これは、いつか私が就く玉座だから」
覚悟を決めておきたい――。
女王として君臨する、その日のために。
胸の前で手を組み、前女王――ママの姿を思い描いた、その時。
『オ前ハマダ、満タシテイナイ』
熱を削ぎ落とした声が、頭の中に響いた。
「……初代、女王様?」
頭ではないどこかで、声の主を確信した。
満たしていない――その意味も、何となく分かってしまう。冥府の女王の資格を得るには、“次代の女王を産まなければならない”ということだと。
「女王様、違うの! 今夜はただ、ママを迎えにきただけ」
すぐに玉座から立ち上がれば、私の中へ巡っていた「何か」が抜け落ちていく感じがした。
ほぼ同時に、玉座の中から、銀色に輝く蛾が現れる――祭壇を覆う透明な花に群がっているものよりずっと神々しい。
『ああ、もう、そんな時期か』
水の中で聞くような声。
でも、すぐに分かった――ママだ。
玉座に刻まれた、歴代女王の魂。
私の想いに応えて、出てきてくれた。
『今年はお前が迎えに来てくれたのだな』
「うん……お城に帰ろう、ママ」
月光を浴びて羽ばたく蛾が、ウルの灯すランタンへ入り込んでいく。
これを連れ帰るのが、“魂迎え”。
今度は1週間後、また送りにいく。それが“魂送り”。
年に一度だけは、こうして死んだ人に会える。
だから、誰も寂しいなんて言わないのに――。
「……行くか?」
ずっと不機嫌そうだったウルが、玉座から離れた私を見て、頬を緩めた気がした。
(今、笑った……?)
何年ぶりに見たか分からない表情。
でも。すぐにこちらへ背を向け、彼は歩き出した。ママの魂が揺れるランタンを、慎重に抱えながら。
「……あれ?」
石を引っ掻くような音――それに気づいた瞬間、私が背後を確認するより先に、ウルがこちらを振り返った。
「姫……!」
耳元に響く、獣の唸り声。
「……っ!?」
「『業を絶て……!』」
背後から迫る、命を脅かす“何か”の吐息。
ウルの身体に揺れる黒煙。
目の前に振りかざされる、大剣。
すべてがゆっくりに感じる――そんな中。確かな手に、引き寄せられた。
ウルの背後から、扉の方を覗くと。さっきまで私が立っていたところには、黒い残像がある。
そして『冥府の扉』からは――次々と、獣の形をした黒い影があふれていた。
「魔獣!?」
「……おかしい。『冥府の夜』だとしても、ここまでの数は……」
半分しか実体のない影を、ウルの手を離れた大剣が斬りつける。
黒い炎に煽られ、踊るように舞う剣に見惚れる間にも、腕にランタンを押し付けられた。
「向こうの小屋まで走れ……早く!」
(そうだ、ここに居たらウルの邪魔になる……)
「……気をつけてね」
ウルは「ああ」、と呟いた瞬間。
目では追いきれない数の影に向かい合った。
ウルは絶対に大丈夫――問題は私だ。
全力疾走なんて、もう何年もしていない。
それでも。枯れ木の森に佇む鐘楼小屋を目指して、一心に走り続けた。
ランタンの中で光る銀色の蛾が、森の闇を祓うように照らしてくれる。その光に導かれるまま走ると――褪せた群青色の屋根が見えてきた。
「……あれ?」
以前見た時より、建物が古くなっている気がする。壁の白い塗装はくすんで、正面扉の上には蜘蛛の巣が重なり合うように作られていた。
もう6年も前に見たから、忘れているだけかな――。
速度を落とし、薄ら砂のついた扉に手をかける。
隙間の空いた扉の中からは、ゾクっとするような冷気が漏れていた。
「……大丈夫、だよね」
ここは扉を訪れた王家の休憩所みたいな場所だと、パパから聞いたことがある。
それに扉を守る女王の結界も、この小屋まで届いているはず。
「お邪魔します……」
力の入らない腕で、何とか重い扉を押すと。
月明かりの差し込む、紫のステンドグラスに迎え入れられた。
立ち並ぶベンチ、それに演台――まるで教会だ。
誰もいないけれど。
でも、不思議――中に入るのは初めてなのに、どこか懐かしい気がする。それに魔法の力が働いているのか、外から見るよりずっと広い。
「ふぅ……とりあえず、ここは安全そう」
妖しい光に照らされたベンチに腰を落とし、一息つくことにした。
それにしても、何が起こったのか。
『冥府の夜』の最中に、扉が開きかけることはある。でも、どうしてあんなに多くの魔獣が――?
『……』
手元のランタンに問いかけても、ママは答えてくれない。
ランタンに入っている時は、眠っているようだった――死者が眠るのかは分からないが。
気を抜いたら、このまま私も眠ってしまいそう。
姫が全力で走ることなんて、一生に一度、あるかないかの事態だ。
「でも、ダメ……」
私を逃してくれたウルが、今も戦っているのに――。
頬を軽く叩き、眠気を覚ましていると。
「今……」
どこからか、声がした。
リリン――私の名を呼ぶ、はっきりとした囁き。
演台の奥にある扉の方から。
扉には、『懺悔室』の札が下がっている。
あの奥に、誰かがいる気がする。
怖さよりも不思議な懐かしさから、私は立ち上がっていた――。
「誰か、いますか……?」
奥へ続く扉に、手をかけた瞬間。
「んん、これは珍しい! こんな夜更けにお客様ですか?」
背後からの高い声に、思わず飛び上がってしまった。
「ひっ……!」
扉の取っ手から手を離し、振り返ると――。
シスターの格好をした若い女性が、こちらを見上げていた。
燃えるような赤髪の上から、黒のベールを被っている。
「あなたは……」
(どこかで会ったことがあるような……)
いや、そもそも。
この空間には私しかいなかったはずなのに――この人は、どこから現れたのだろうか。
「すでに一杯飲んだ後ですが、よろしければ」
お話をお聞きしましょう――微笑む女性の肩には、月粉をまとう蛾が羽ばたいていた。
突然現れた、謎の酔いどれシスター……。
彼女はすでに登場しているのですが、あなたは誰だと思いますか?




