第18話 動き出した人生
グラスバード。それは非情にみすぼらしく、小さな町。この町に巣食うのは盗賊だったり、物乞いだったり、あるいは人殺しだったりするのだが、共通して巣食うのは諦観。誰しもが幸せな人生を諦めている。
だが、それを良しとしない者もいた。その者は町はずれの少々退廃した領主邸に住む、一人娘だった。
光が徐々に室内を照らして朝、というものを感じさせるようになるころ。彼女は目を覚ます。魔力式砂時計を見るとまだ0時である。でもこの時計はもう常に0時だ。砂時計をひっくり返すのに使う魔力がないから、ずっと時間は0時なのである。
一人娘、アリアは生まれてからこの方砂時計が動く様子を一度たりとも見たことがなかった。じゃあなぜ自分の部屋にこんなものを置いてるのかというと、この時計に親近感がわいているからだ。時間が止まっているのは、自分と同じだから。この砂時計を見るたびに自分の置かれた状況を思い出させられるのだ。
「さて」
アリアは寝起きなのにすでに覚醒している声で呟きながらベッドから降り、サッと寝間着を脱ぐと壁にかかった緑色のドレスではなく動きやすいズボンとシャツを身につけた。鏡の前で髪の毛をブラシで梳かし三つ編みにして横で束ねると先ほどの服とともに用意していたローブを羽織った。さらに昨日脱いだまま放置されていた靴下と靴を履いて準備万端。鏡の前でクルリと一回転すると笑顔を作った。
「よしっ!」
そして勢いよく扉を開けるとぶっ壊れそうなので静かに扉を開けて廊下に出て、外へと出て、厩舎へ。その間に誰にも会わない。使用人なんていない。アリアとその母の二人だけだから。
「おはよう」
馬たちの名前を呼びながら体調チェックをしていると、いつもと同じようにマリィが鼻先をこすりつけてきた。相変わらず可愛い奴。頭を撫でると嬉しそうに鳴いてくれる。
アリアは手綱を持ち厩舎から出した。軽くジョギングくらいの運動をしてもらうために牧草地へ出す。
朝の冷たい空気に体を震わせつつ軽く伸びをする。辺り一面枯草色で寂しいけれどいつものことだし仕方ない。一通り厩舎の清掃を終えたのち、鞍を置いて跨る。そろそろ迎えるあの日までにあと少し。だから今のうちに少しでも騎乗技術を身に付けたいと思っているのだ。
「アリア!また馬に乗ってるの!」
後ろの方から声をかけられ振り向くと母のエミリーが立っていた。彼女はこの町の領主であり、つまりは伯爵ということになる。町を治める役割を担っているが、具体的に良いことをしているところを見たことがない気がする。
「おはようございます」
「えぇ……おはよう。あなたももう少ししたら16歳?こっちの仕事を色々と覚えないといけないのに馬を乗り回してばっかってどうなの?」
「すみません」
「別に謝ってとか言ってるわけじゃない。ただあまり危険なことはして欲しくないだけ」
心配してくれているのはわかる。それでも彼女にはどうしても止められない理由があるのだ。
「はい、わかりました....」
これ以上長引かせるつもりはないので適当に会話を切り上げて屋敷へと戻る。いつもこうなのだ。母親はなんでも私の行動をこの町の職務に制限しようとする。表立って反発したい気持ちもあるものの、実際に反抗できるほどの度胸はない。この母親はいずれ、自分に領主の座を受け継がせるつもりなのだろうと思うと憂鬱だ。
というか一体こんな町でなんの業務を行っているのか知らないが少なくともこの町は衰退の一途を辿っていて何もできることがないと思うのだけど。困窮に苦しむ人達を救う制度や取り組みなども聞いたことがない。そもそもここにはもう何も残っていないような場所だ。
200年前の戦争において、魔族軍が優勢だった際、ここは3族の最前線として血生臭い攻防が幾度となく行われた土地である。その際に起こった悪化現象。作物の育ちは悪くなり、水の循環もおかしくなって雨はほとんど降らなくなった。その結果肥沃な大地が広がっていたこの地は死の荒野と化したのである。
そんな土地を捨て去るようにして人々は他国へと逃げ出したのだ。ただ少数の人間はこの地に留まり続けている。質の悪い野菜でなんとか生計を立てる貧困層もいれば犯罪組織のアジトとして使われていたりと色々いる。
ヘンドリックの一族はここで暮らしてきた人間の1人であって領主として全ての住人が死に絶えるまで統治していくのが宿命なのだ。だからこそアリアは自立を考えていた。この町から離れ、アヴァロニアへ。そこまで行けば何か変わるかもしれない。そういう淡い期待を持っている。そのためには移動手段として馬術を習得しなければならないというわけだ。あの馬はアリアの父、今は町で道具屋を営んでいる父親から譲り受けたものであった。
「アリア...この町は本当に良くない。私だって本当は逃げ出したいんだ。だが今さら、こんなしょぼくれたおじさんを助けてくれる奇特な人間なんているわけないだろう。お前の将来を考えれば考えるほど自分が不甲斐ない……だからアリアだけは、逃げ出してほしい。遠く離れた安全な土地に行ってほしいんだ。」
いつの日か父から言われた言葉を思い出し拳を強く握りしめた。今はまだ慣れないけれど、きっとできるようになってみせる!必ずここから抜け出してみせるんだ!それでアヴァロニアに行ったら....ギルドでスキルを鑑定してもらう。全ての人間には1から5までの何かしらのスキルが眠ってるって本で読んだことがある。スキルがあれば何かいい仕事もあるかもしれない。
そうだ……冒険者っていう職業になってみようかとも想像した。どこでも自由に働けそうだ……妄想にふけっているうちに屋敷に戻り、職務を手伝うための準備を行い。外に出る準備として顔を洗おうとして顔を洗う水もないと気づき苦笑しながらタオルで拭いて変装をする。ここは治安が非常に悪いので娘だとバレてしまうと拉致されてしまう可能性が高い。
それほどまでに腐敗し切ってしまっているのだ。黒色の長い外套を羽織りフードを深く被って完全に正体を隠す。今時こんなことしなくちゃならないのは、彼女の住んでいる町だけなんだ。だけどこんなことをしなくちゃならないのももうすぐ終わる。
あぁ……早く上手に乗れるようになりたいなと、そんな事を考えながら彼女はゆっくりと歩き始めた。
そしてそこから数週間が過ぎた頃。待ちに待った日がやってきた。旅に出る日。昨日から寝ずにいたのにまだ信じられない。ついに念願叶った気分だ。これから彼女が夢見る生活が始まる!新しい人生への扉が開かれようとしていることにワクワクが抑えられない。
もうすぐこの家とはお別れになるのかと思うと寂しさはなく、解放感の方が強い。挨拶は父親だけに昨日済ませた。母親に言うと止められるのは目に見えているから。父と別れるのはお互い悲しく、あまり言葉を交わせなかった。父は最後にアリアへポーションをいくつか渡した。あまり今森に魔族は出ないらしいけど念の為に、とのことだった。そうして日が昇ると同時に厩舎へ向かう。旅に必要なものは最低限。干し肉や保存食といくらかの銀貨や地図など。緑のドレスを着て、それらが入ったバッグを持てば準備完了。出発する前に一度だけ屋敷を振り返り大きく息を吸った。
今までの辛い思い出や苦しかった記憶が溢れてくるようだ。でも大丈夫。もうアリアは違う世界へ行くのだ。希望溢れる新天地へと。そして視界が滲んで見えるくらい強く瞼を開いてしっかりと前を向いた。
「行こう」
そう馬たちの寝床へ足を踏み入れると、そこにはエミリーの姿が。
「ママッ!?」
突然の出来事に驚きすぎて久しぶりに母を『ママ』と呼んでしまった。昔は普通に呼んでいたんだけど大きくなるにつれてこの人をお母様と呼ぶようになった。だってママと呼ぶほど親しみがないから。
「ふふ。どうしたの?そんなに慌てて?まだ太陽が昇り切ってないのに....馬のお世話にはちょっと早すぎるんじゃないかしら?」
「それは……そうなのだけど……その……」
急いで来たことによる疲れよりも、この町からの脱走がばれたんじゃないかの冷や汗で汗だくになってしまった。それが恥ずかしくなり思わず俯いてしまう。
「汗びっしょりね。それに...クマもできてないかしら?夜更かしはあまりよくないわよ?肌が荒れるのは嫌でしょう?さぁ家に戻って休みましょう?」
母親の声が普段より優しく感じられて尚更怖くなっていた。いつもならもう少しキツイ口調なのに今日は随分穏やかだなぁと感じている。アリアとしては、今さら止まるわけにはいかないが、かと言って無理やり逃げるのも難しい……どうしたものかと悩んでいると母親は突然笑顔を浮かべて話し始めた。
「ごめんなさいね。実はね昨日旦那にあなたのことを聞いたら全部教えてくれたの。あの人ったらまったく呆れちゃうね。あなたにそんな無茶なことをさせるつもりだったなんて……知らなかった。許せないわね、その決断に....この町で生まれて、この町で育って、この町と共に死ぬ運命のあなたにとって無用な判断だわ。まぁ……そういうわけでどこへも行かせないわよ?朝食を作ってあげるから食堂で待っていて」
母親の説明を聞きながら目の前が真っ暗になった気がした。一番言ってはいけない相手にバレてしまいどう言い訳したらいいかもわからない状態の今逃げる方法はないと思った方が賢明かもしれない。アリアは唇を噛み締め拳を固く握りしめると震える声で返事をした。
「いや.....もうここに居たくないよ。私は……普通の暮らしを送りたいんだ。自由な日々を過ごしてみたいんだ。このまま一生を過ごすなんて耐えられない!」
アリアの言葉に対して母は何も言わずただ笑顔のまま黙って聞いていた。その笑顔は酷く恐ろしく見えて背筋が凍った。
「ねぇアリア?いい加減わかってくれないかしら?それとも口だけじゃわかってくれないの?」
「またそうやって脅すんだ……」
エミリーはよく口答えするアリアの頬を引っ叩いたりしたことがある。アリアとしては全く理解できないし意味不明だが母親にはそれが愛情表現となっていた。彼女に見せるこうした必死さのある怒りが、アリアを理解させるのに役立っていた。だけど今日ばかりは絶対に屈しないぞと心に決めたアリアは今までのようにはいかないことを示すべく大声で叫んだ。
「いい加減にしてっ!!私だってもう大人なのよ?自分のことは自分で決めるから邪魔しないで!」
アリアは立ちふさがるエミリーを無理やりどかし馬たちのいる寝床へ入り込む。無理やりにでも馬に乗って逃げるしかない。だが厩舎の中を見た時、唖然とした。アリアが今まで可愛がってきた馬たちの体にはいくつもの切り傷があったからだ。どれもかなり深いようで明らかに故意的に付けられたものと思われる。ショックで崩れるアリアの背後に、エミリーが背後に立って見下ろす。
「どう?わかった?これがお母さんの気持ちよ。あなたがここから出ていくのがどれほど嫌だったか分かるわよね?」
「酷い......」
「あなたが逆ったからでしょう?何年かけて育ててきた馬たちがこんなに傷ついてしまったのは……」
「こんなのっ……間違ってる!」
アリアは涙を堪えながら馬を撫で続ける。なぜこんなひどいことができるんだろうか?アリアには理解不能だった。だからこそアリアは母エミリーを、エミリーをそうしたこの町を拒絶した。これ以上この人と一緒にいるとおかしくなる。荷物をエミリーに投げつけ、痛がる隙に厩舎から飛び出るとそのまま駆け出した。振り返ることなくただひたすら森を目指す。
「待ちなさい!」
後ろから追いかけてくる足音が聞こえてくるがアリアは振り向かない。体力なんて既に使い果たしたが走る。背中に鞭打って全力疾走だ。門を通ると森の中。薄暗い空間の中で迷わず進むことができるのはあの町に絶対戻りたくないからという憎悪からだ。木々の間をすり抜けて逃げ続けた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸を整えようとしてもできない。喉がヒューヒューいっているから。ここまで来ればもう大丈夫だろうと思い幹にもたれかかるように腰掛けると一気に力が抜けたような感じになる。呼吸も落ち着いてきて楽になってきた頃合いだったのでそのまま地面に寝転がって空を見上げた。青く澄んだ空には白い雲が浮かんでおりとても美しい風景だと思う反面どこか悲しさもあるような複雑な心境だ。
これからどうすればいいんだろう。荷物は全て失くした。何もない。しばらく放心状態でいたが次第に冷静になってきてまず最初にやらなければならないことを行うことにした。周囲の警戒である。この辺りはそこまで出ないとはいえ一応魔族領域なのだ。もし襲われたらひとたまりもない。
アヴァロニアへ近づこう。ひょっとしたらだれかと会えるかもしれない。どの方角に行けばいいのかわからないが、幸いにも日は出ていてまだまだ昼過ぎといった具合なので日の入りまで余裕を持って進められるはずだ。それからは早歩き程度にスピードを落として道なき道を突き進んでいった。途中何度か休憩を挟んだりして体力を温存しながら歩いて行ったのだが一向に景色が変わらない事実に辟易していた。
かれこれ3時間近く歩きっぱなしで疲労も溜まってきており限界を迎えていた。もう歩けないと思ってその場にしゃがみ込んでしまったとき遠くの方でガサりと葉の揺れる音がしたのだ。アリアはビクリとなって反射的に身構えた。誰かいる!?恐る恐る近づき、首を伸ばして様子を伺うとそこには想像もつかないような大きな影があったのだ。
「あ……」
そこにいたのは、大きな黒いゴキブリだった。体長は自分の3倍ほど大きく、全身が濡れた黒くテカテカ光っている昆虫。思わず悲鳴を上げそうになった。しかしすぐに我に帰った彼女は両手を胸元で握りしめて恐怖と闘うことにした。もし声を出せばこいつを刺激してしまうと思ったから。
「む?誰か近くにいるな」
アリアは自分の気配は相手から感知されていることを悟り、驚きのあまり体が硬直してしまった。
「おぉ……これは珍しい。お前、人間だな?」
なんとその生き物は言葉を発したのだ。しかも流暢に話しているではないか。アリアはもう逃げようがないと感じ、そのゴキブリの前へと姿を見せた。
「ほう、我の前に自分から出てくるとは……よほど肝が据わってるようだな。まさかとは思うがお前、我を恐れないのか?それとも何も知らない愚か者か....?」
「どちらもです」
アリアは緊張した面持ちで答える。虫は今まで沢山見てきたし接してきたので特に驚くことも怖がることもなかった。確かに巨大ではあるが見た目だけで言えばそんなに気味悪くは感じないと思っている。あとこんな種族はしらない。魔族についてはある程度本を読んで勉強してきたが、こんな外見を持つ種族は見たことがなかった。
「なるほどな。まぁいい。なぜお前のような人間がこんな場所にいるのだ?ここは我が住処の近くで危険だぞ?」
「ちょっと事情があって……飛び出してきたんです。」
「なぜそんなことを?」
「……ちょっと事情があるって濁したじゃないですか」
「ふっ。そうだな」
グロスとの出会いは衝撃的だった。今までずっと小さな町でひっそり暮らしてきたアリアにとって未知の存在であったからだ。家族としかろくに会話を交わしてこなかったため最初はうまく話せず噛み合わないやりとりをしていたものだったが彼の方から歩み寄ってくれて打ち解けることができたのであった。
見た目こそ人と違うがその実温厚で紳士的な態度を取ることが多くアリアも次第に信頼するようになっていった。そうした経緯もあり、アリアは町に戻らず、街へ向かうことなく、グロスと暮らすことを選択した。生活は前よりも苦しくなったかもしれないが、それでも楽しいと思える毎日が続くようになり、それが続いて行く未来を望んでいた。
「しっかり捕まってろ」
グロスはアリアを頭にのせると、天高く跳躍した。足に力を込めて、高く跳び上がる。地面に穴ができるくらい。そしてスキルで背中の羽を蝶のものへと変化させ、それを羽ばたかせて滑空する。今まで眺めるだけだった快晴の空が、目の前に広がる。アリアは笑った。これが自由なんだ、と。ここは何もない。行く手を阻む木々や地形、だれもかれもいなくて、ただ平和に飛んで行ける。ここを永遠の棲みかにしたい。アリアは心から願った。
視界の遠くに、街らしきものが見える。かつてアリアが住んでたところより、かなり大きくて活気があるみたいだ。
「あそこは?アヴァロニア?」
「多分な。昔と比べて随分と発展してるなー」
「ねぇ、もっと近づいてみてみたいんだけど....」
「難しいなぁ....もし目撃されてしまったら、騒ぎが起きて大変なことになってしまうぞ」
アリアは不安げな表情でグロスに問いかける。
「そうなの?……やっぱり仲良くなれないのかな?」
「そうだ。我は敵対することは望まないが人間側が....主にエルフが我々昆虫族に対して抱く感情は言葉に尽くしがたいほど醜悪で歪んでいるからな。彼らの社会における我々に対する認識は単なる害虫でしかない。我の予測では昆虫族は今、魔族と同じ括りで駆逐する対象なんだろう。200年前から何も変わってない。同じ歴史を繰り返すことしかできない連中だ」
珍しくグロスが悪態を吐いている。いつもと少し違い、アリアは困惑した。
「やっぱりそういうのってあるんだね……」
「だから……アリアとこうして仲良くできることが本当に奇跡だと思えてるんだ。君だけがここにいてくれるだけで十分満足できる」
「うん……ありがと……私もあの日、グロスに出会えて本当に嬉しかったよ。ようやく、私の人生が、誰にも真似できない私だけの人生が動き出したって思えたんだ」
アリアは微笑むと頷いてみせた。するとグロスは安心したように再び空高く舞い上がった。そんな彼を見つめながらアリアは思った。私もグロスのためにできることを見つけたいと。あの優しさに報いるためになにか力になりたいと心から強く思った。
そうして、一つの計画が立てられた。




