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第九話 呪詛の浄化と王都への噂

『待て、アキ! それに触るな!』

グラムの悲鳴にも似た警告が、静寂に満ちた工房に響き渡った。その声のあまりの切迫ぶりに、古文書に没頭していたリリアも、警戒していた騎士たちも、はっとしてアキの方を振り向く。

アキが視線を向ける先、黒いベルベットの台座に置かれた首飾りは、一見するとただの美しい装飾品だった。だが、魔力に敏感な者であれば、その表面から滲み出す、禍々しく、そして底なしの悪意を感じ取ることができた。それは、生命あるものすべてを憎悪し、その魂を喰らうことだけを目的として存在する、呪いの凝縮体だった。


「これは……文献で読んだことがあるわ。『魂喰らいの首飾り』……所有者の魂を糧とし、周囲に不幸と災厄をまき散らす、S級の危険指定遺物デンジャー・アーティファクト……! なぜこんなものが、こんな場所に……」

リリアの顔から血の気が引いていく。

「姫様、お下がりください!」

バルガスとレオンが即座に剣を抜き、リリアとアキを庇うようにして首飾りとの間に立ちはだかった。

「危険です。即刻、破壊すべきかと!」

バルガスが言うが、それをグラムが鋭く制した。

『愚か者めが! こんな凝縮された呪詛を、下手に破壊してみろ。呪いが霧散し、この工房全体が二度と使えぬ死の土地になるぞ!』

「なっ……! では、どうすれば……」

進むも地獄、退くも地獄。一行は、触れることすら許されない絶対的な悪意を前に、完全に手詰まりとなっていた。


工房の空気が、鉛のように重くなる。

その沈黙を破ったのは、アキだった。

「……俺がやります」

静かだが、揺るぎない声だった。彼は騎士たちの間をすり抜け、再び呪詛の首飾りの前に立つ。

「アキさん!? 何を言っているの、無茶よ!」

「そうですよ、アキ殿! それはあなたの手におえる代物ではない!」

リリアと騎士たちが必死に止める。だが、アキは振り返らなかった。彼の瞳には、恐怖も、無謀な好奇心もなかった。そこにあるのは、目の前で苦しんでいる「壊れた魂」を救おうとする、医師にも似た、静かで強い使命感だけだった。


「このまま放置すれば、いつか誰かが犠牲になる。それに……これが『壊れている』のなら、直すのが俺の仕事です」

その言葉に、誰もが息をのんだ。

グラムだけが、アキの背中を見つめ、やがて諦めたように呟いた。

『……やれやれ。貴様は、我の知るどんな英雄よりも、修復師よりも、途方もない馬鹿者らしい。だが……貴様なら、あるいは……』

グラムの後押しが、最終的な決定打となった。リリアたちは、固唾をのんでアキの作業を見守ることにした。


アキの行動は迅速だった。彼はまず、この工房に残されていた素材――浄化作用を持つ銀の粉末や、魔力を安定させる霊木の枝などを使い、首飾りの周囲に巨大な円形の結界を描き始めた。リリアも、古代文献の知識を総動員し、結界術式の効果を最大限に高めるための助言を送る。ゴーレムは、その巨体で工房の入口を塞ぎ、万が一にも呪いが外に漏れ出さないよう、不動の番人となった。


準備が整うと、アキは結界の中心で首飾りの前に座り、目を閉じた。

彼は決して、首飾りに直接触れようとはしなかった。その代わり、自らの魔力を無数の細い糸のようにして伸ばし、まるで外科医がカテーテルを挿入するように、慎重に呪詛の内部構造を探っていく。

魔力の糸が、呪いの核に触れた、その瞬間。

凄まじい量の「記憶」と「感情」が、濁流となってアキの精神になだれ込んできた。


――それは、絶望の記憶だった。

舞台は、数千年前の、今はもう地図にない古代王国。一人の、極めて優れた才能を持つ魔女がいた。彼女は、心から愛する国の王子がいた。だが、王国が敵国との戦争に追い詰められた時、王子は、敵国の王女との政略結婚を選んだ。国を救うため、魔女は捨てられたのだ。

裏切られた絶望と、国を救うために自らを犠牲にした王子への愛憎。その二律背反の感情は、彼女の強大すぎる魔力と混ざり合い、暴走した。

『私のすべてを捧げたのに』

『私の愛も、私の力も、すべて国のためにあったのに』

『ならば、この身が滅びる前に、私の絶望と憎悪のすべてを、永遠にこの世に残してやろう』

魔女は、自らの魂と心臓を代償に、この呪詛の首飾りを練り上げた。愛した男と、彼が守ろうとした世界そのものを永遠に呪うために。


奔流のような憎悪と悲しみの記憶に、アキの意識は飲み込まれそうになる。並の精神力であれば、この時点で発狂していただろう。だが、アキは耐えた。彼は、魔女の絶望を真正面から受け止めた。

彼は、力でこの呪いを破壊しようとはしなかった。それでは、彼女の魂は永遠に救われない。

アキが試みたのは、【修復】スキルの新たな応用――「魂の鎮静」だった。

彼は、魔女の絶望に、ただ静かに寄り添った。彼女の悲しみに共感し、その裏切りの痛みを分かち合った。そして、自らの魔力を、暖かく、穏やかな鎮魂の光に変えて、呪いの核へと送り続けた。

『もう、いいんだ』

『あなたは、十分に苦しんだ』

『その憎しみも、その悲しみも、すべて俺が受け止めよう。だから、もう、安らかに眠っていい』

それは、浄化というより、カウンセリングに近い行為だった。力ずくで書き換えるのではなく、対象に寄り添い、自ら変わることを促す。歪んでしまった魂を、本来あるべき「平穏」な状態へと、ゆっくりと修復していく。

アキの意識の奥で、絶叫していた魔女の怨念が、次第に嗚咽へと変わり、やがて静かな涙へと変わっていく。憎悪の炎が、鎮魂の光に浄化されていくのがわかった。


どれくらいの時間が経ったのか。

アキがゆっくりと目を開けた時、彼の体は疲労で鉛のように重かったが、心は不思議なほど澄み切っていた。

目の前の首飾りは、禍々しいオーラを完全に失い、まるで夜明けの空のような、深く、そして清らかな藍色の輝きを放っていた。邪悪な茨のデザインも、いつの間にか、月桂樹の葉を模したような、穏やかなデザインへと変化している。

アキがそっと手に取ると、首飾りは心地よい暖かさを返し、強力な守護の魔力が込められているのを感じた。


『信じられん……』

グラムが、畏怖の念を込めて呟いた。『あの怨念の塊を、癒し、鎮めたというのか……。アキよ、貴様はやはり、ただの修復師ではないな』

「アキさん!」

リリアが駆け寄り、アキが無事なことを確認すると、その場にへなへなと座り込んだ。彼女の瞳からは、安堵の涙が止めどなく溢れていた。


数日後。一行は、この古代工房の発見と、S級呪物の浄化という、歴史的な大発見を辺境伯に報告するため、騎士のレオンを一足先にアルテアの街へ帰還させることにした。


――同時刻。アルテアの街の酒場。

一人の商人が、冒険者たちに不満げに愚痴をこぼしていた。

「ちぇっ、街外れの腕利きの修復師によ、先祖代々の剣を直してもらおうと思ったら、しばらく休みだと言われちまった。なんでも、辺境伯の姫様に雇われて、どっかの遺跡調査に行ったらしいぜ」

「ああ、聞いた聞いた。あのアキって若者だろ? 俺の仲間が直してもらった鍬、魔法の武具みてえな切れ味になったって大騒ぎしてたぜ。あいつ、一体何者なんだ?」

噂は、人の口から口へと、尾ひれがついて広がっていく。


――そして、王都。宰相ドーソンの執務室。

ドーソンは、辺境から届いた定期報告書に目を通し、鼻で笑った。

「……辺境の修復師が、古代遺跡でS級の呪物を浄化した? 馬鹿馬鹿しい。追放したあの無能な男が、そんな大層なことをできるはずがなかろう」

彼は、その報告を、辺境伯が自分の領地の功績を誇張するための、つまらない作り話だと断じた。

「ありえんことだ」

ドーソンは報告書を屑籠に投げ捨て、冷たい笑みを浮かべた。

だが、その心の片隅に、ほんの小さな、しかし無視できない棘が刺さったような、奇妙な感覚が残った。

追放したはずの男の噂。それはまだ、取るに足らない些細な火種だったが、やがて自らの地位を焼き尽くす大火となることを、この時の彼は知る由もなかった。

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