第四話 辺境伯の依頼
夜が明け、工房に朝日が差し込んできた時、アキはほとんど眠っていないにもかかわらず、奇妙なほど意識が冴えわたっていることに気づいた。原因は、彼の目の前でぷかぷかと宙に浮いている、一件の魔剣である。
「おい、アキよ。腹が減ったぞ。我はエネルギーの補給が必要だ。さっさと極上の魔力がこもった肉を用意しろ」
「……君、飯を食うのか?」
「食わん! だが、主が食事も摂らずに倒れては、我が不便だ。故に、貴様が食事を摂るのだ。さあ、早くしろ」
なんという理不尽な物言いだろうか。覚醒した魔剣グラムは、アキが想像していた伝説の武器のイメージとは程遠かった。威厳のある声と見た目とは裏腹に、その性格は尊大で、わがままで、そしてどこか過保護だった。アキが作業台の掃除を始めれば「そこはそうではない、もっと効率的にやらんか」と口を出し、水を飲めば「良質な湧き水を選べ、淀んだ水は魔力の巡りを悪くする」と説教を垂れる。
「少し黙っていてくれないか……」
「何を言うか! 我は貴様の主であり、相棒であり、師でもあるのだぞ。我のありがたい助言を黙って聞け!」
この先、このやかましい剣とどうやって暮らしていけばいいのか。アキは深いため息をついた。何よりもまず、この「喋る剣」という異常事態を、世間から隠し通さなければならない。農具や鍋の修復ならともかく、「喋る魔剣を直しました」では、街の衛兵に捕らえられ、王都に強制送還されても文句は言えないだろう。
アキは大きな麻布をグラムに被せ、釘を刺した。
「いいか、誰かが来たら、絶対に喋るなよ。ただの古い剣のふりをしていろ」
「我をただの鉄屑と一緒にするな! 不敬であるぞ!」
「頼むから……!」
アキが必死に頼み込んでいると、まさにその時、工房の扉がコンコン、と控えめにノックされた。
びくりと肩を震わせ、アキは慌てて布を被ったグラムを作業台の隅に押しやる。そして、深呼吸を一つして、おそるおそる扉を開けた。
そこに立っていたのは、アキがこの街で見た誰とも違う、気品と快活さを兼ね備えた一人の少女だった。歳はアキと同じくらいだろうか。貴族令嬢らしい上質な仕立ての乗馬服に身を包み、腰には細身の剣を吊っている。栗色の髪を後ろで一つに束ねた彼女の、真っ直ぐで知的な翠色の瞳が、アキをじっと見つめていた。背後には、同じ紋章をつけた騎士が二人、控えている。
「あなたが、この工房の修復師アキさんね? 私、このアルテアを治める辺境伯の娘、リリアと申します」
少女――リリアは、貴族とは思えぬほど気さくな口調で自己紹介すると、にこやかに微笑んだ。
「街で噂になっているのよ。どんなものでも新品同様……いえ、それ以上に直してしまう、神業の修復師がいるって。あなたの腕を見込んで、お願いしたいことがあるの」
そう言うと、彼女は後ろの騎士に目配せした。騎士の一人が、ずっしりと重そうな、布に包まれた立方体の塊を恭しく運び込み、作業台の上に置く。
「これを見ていただきたいの」
リリアが布を取り払うと、中から現れたのは、一辺が三十センチほどの、奇妙な箱だった。石とも金属ともつかない、鈍い光沢を放つ未知の素材でできており、表面には継ぎ目一つ見当たらない。ただ、幾何学的な文様が全面にびっしりと刻まれているだけだ。
「これは、数ヶ月前に領内の古い遺跡から発掘されたものなの。おそらく、数千年前に栄えたとされる“第一文明”の遺物よ」
リリアは、その箱を愛おしげに撫でながら、熱っぽく語り始めた。彼女の目が、先ほどまでの快活な輝きとは違う、研究者のような熱を帯びる。
「王都の宮廷魔術師団や、国中から呼び寄せた名うての鍵師にも見せたわ。でも、誰も開けることができなかった。物理的に破壊しようとしても、どんな攻撃魔術を使っても、傷一つつけられないの。完全な状態で見つかった、極めて貴重な古代遺物……。この中に、失われた文明の謎を解く鍵が眠っているかもしれない。お願い、アキさん。あなたの力で、これを開けてもらえないかしら?」
古代文明、アーティファクト。その言葉に、アキの修復家としての血が騒いだ。彼はリリアの言葉に頷くと、そっと箱に手を触れた。ひんやりと冷たい感触。だが、その内部からは、グラムとはまた違う、静かで、しかし強大な魔力が満ちているのを感じる。
アキが箱の調査に没頭し始めたのをいいことに、リリアは好奇心に満ちた目で工房の中をきょろきょろと見回し始めた。
「すごいわ……。噂には聞いていたけれど」
彼女は壁にかけられていた、アキが修復した鋤を手に取った。
「この金属の輝き、刃の滑らかさ……。ただ古い農具を直しただけじゃない。素材そのものが活性化している。まるで、この鋤が作られた全盛期の状態……いえ、それ以上に性能が引き出されているわ。こんな技術、聞いたことがない」
さらに、作業台の上に置いてあった、修復済みの鍋を指先で弾く。キィン、と澄み切った金属音が、美しい余韻を残して工房に響いた。
「魔力伝導率まで最適化されてる……。この鍋でお湯を沸かせば、普通の鍋の半分の時間で沸騰するでしょうね。信じられない……」
リヤは次々とアキの「作品」の異常性を見抜いていく。彼女がただの貴族令嬢ではなく、魔術や古代文明に対して深い造詣を持っていることは明らかだった。
そしてついに、彼女の視線が、作業台の隅に追いやられた、麻布を被った塊に向けられた。
「そちらは? なんだか、ものすごい魔力を感じるのだけれど……」
リリアが手を伸ばそうとした、その時だった。
我慢の限界に達したらしいグラムが、布の下から、くぐもった声で叫んだ。
「小娘! 我をそこの鍋や鋤と一緒にでないと何度も言わせるな! 不敬であるぞ!」
「えっ!?」
リリアは驚いて飛びのいた。騎士たちが即座に剣を抜き、リリアを庇うように前に出る。
「姫様、お下がりください!」
「な、なんだ今の声は!?」
アキは頭を抱えた。「黙ってろと言ったのに……!」
麻布が内側から持ち上がり、宙に浮かぶ。そして、その下から、黒曜石の刀身をきらめかせた魔剣グラムが、堂々たる姿を現した。
「喋った……!? 剣が……!?」
騎士たちが動揺する中、リリアだけは違った。彼女は恐怖するどころか、その翠色の瞳を、これまでで一番大きく輝かせた。
「喋る魔剣……意思を持つ武具……! まさか、神話の時代にしか存在しないと言われる、伝説級の遺物じゃない! すごい! すごいわ、アキさん! あなた、一体何者なの!?」
リリアは興奮のあまり、アキの両肩を掴んでぶんぶんと揺さぶった。彼女の古代文明マニアとしての探求心は、恐怖心など軽々と凌駕してしまったらしい。
騎士たちとグラムが睨み合い、リリアが興奮して騒ぐという、混沌とした状況をよそに、アキはただ一人、目の前の箱に集中していた。
彼は、箱をただの「鍵のかかった箱」として見てはいなかった。転生前の知識と経験が、これを一つの精密な「構造物」として捉えさせていた。表面を指でなぞり、その微細な凹凸や温度差を感じ取る。魔力を薄く流し込み、内部で魔力がどう反響し、どう流れていくのかを探る。それはまるで、CTスキャンで人体の内部を透かし見るような作業だった。
やがて、彼は顔を上げた。そして、騒がしいリリアに向かって、静かに告げた。
「リリア様」
アキの落ち着いた声に、リリアははっと我に返り、彼の方を向いた。
「これは、鍵で開けるものではありません」
アキは、箱の表面に刻まれた幾何学的な文様の一点を指し示した。
「これは一種の……からくり箱です。この文様自体が、複雑なロック機構になっている。正しい順番で、正しい量の魔力を、正しい箇所に流し込まない限り、内部の機構は決して作動しません」
「そ、そんなことまで分かるの!?」
リリアが驚愕の声を上げる。
王都の賢者たちが束になっても「開かない」と匙を投げた箱の、その本質を、この辺境の若き修復師は、わずかな時間で見抜いてしまったのだ。
アキの持つ能力が、単なる修復技術ではないこと。それは、失われた古代文明の叡智すら解き明かす、唯一無二の鍵であることを、リリアはこの瞬間、確信したのだった。