第三話 目覚める魔剣グラム
脳内に直接響く、錆びついた金属が擦れるような声。
アキは手の中にある無惨な短剣を握りしめた。これは幻聴ではない。この遺物は、生きている。意思を持ち、永い時の牢獄から、修復という名の解放を求めて叫んでいるのだ。
恐怖はなかった。むしろ、全身の細胞が歓喜に打ち震えるような感覚があった。文化財修復家としての本能が、これまでにない極上の「仕事」を前に、猛烈な好奇心と使命感をかき立てていた。
王都の宮廷では、決して触れることのできない、本物の古代遺物。それも、意思を持つほどの強大な魔力を秘めた、伝説級の存在。
「わかった。やってみよう」
アキは誰に言うでもなく呟き、決意を固めた。
その日から、アキは工房に引きこもった。農具や鍋の修復依頼はすべて断り、工房の扉に「しばらく休みます」という札を掛ける。彼の意識は、完全に手の中にある一本の短剣へと注がれていた。
まずは徹底的な分析からだ。
アキは作業台に短剣を固定し、自作の魔導レンズを覗き込んだ。レンズを通して魔力を注ぎ込むと、分厚い錆の下に隠された情報が、おぼろげながら浮かび上がってくる。
刀身に刻まれているのは、単なる装飾ではない。魔力を循環させ、増幅させるための超微細な術式回路だ。転生前の知識で言えば、集積回路(ICチップ)の配線図にも似ている。だが、その複雑さと密度は、現代のどんな技術をも凌駕していた。
さらに、素材。一見ただの鉄に見えるが、魔力を流すと、ごく微量のアダマンタイトとミスリル、そして未知の鉱物が混ざり合っていることがわかる。異なる特性を持つ金属を、分子レベルで完璧に結合させるなど、神の御業としか思えない。
「すごい……。こんなものが、本当に人の手で作られたのか……」
感嘆のため息を漏らしながらも、アキの手は休まない。数種類の薬草をすり潰し、特殊な触媒と混ぜ合わせてペースト状の薬品を作る。それを錆びついた刀身に薄く塗り広げると、化学反応によって赤黒い錆がじわじわと浮き上がり始めた。
削るのではない。剥がすのでもない。刀身そのものを傷つけることなく、不要な酸化物だけを分離させていく。地道で、気の遠くなるような作業だった。丸一日かけて錆を落とし終えると、その下から現れたのは、無数の傷と断線によって見るも無惨な状態になった術式回路だった。
「ここからが本番だ」
アキは自分の指先に意識を集中させる。彼のスキル【修復】の真価は、ここから発揮される。
彼は自らの魔力を、縫い針よりも細く、蜘蛛の糸よりも強靭な一本の「線」へと変化させた。そして、その魔力の針を使い、断線した術式回路を、一本、また一本と繋ぎ合わせていく。それはまるで、脳外科医が顕微鏡下で神経を縫合するような、極限の集中力を要する作業だった。
一つ繋ぐたびに、短剣がびくりと痙攣するように震える。衰弱しきった患者に、少しずつ生命力が戻っていくかのようだった。
三日目の夜。物理的な修復が八割方終わった頃、アキはついにこの短剣を蝕む「呪い」の正体にたどり着いた。
それは、刀身の奥深くに、悪性の腫瘍のように巣食っていた。術式回路に巧妙に擬態した、極めて悪質な呪詛の塊。その効果は二つ。一つは、この剣が持つ自己修復能力を完全に阻害すること。もう一つは、所有者から生命力を少しずつ吸い上げ、それを糧に呪い自体を維持し続けること。
どうりで、王都の荷物に紛れ込んでから、アキが奇妙な倦怠感を覚えていたわけだ。この呪いは、すでに彼を新たな宿主として認識し、その牙を剥き始めていたのだ。
「なんて悪趣味な術式だ……。作ったやつの顔が見てみたい」
アキは吐き捨てるように言うと、呪詛の解体作業に取り掛かった。呪いもまた、一種の術式だ。複雑に絡み合ったパズルなら、必ず解き方がある。彼は呪詛の構造を逆算し、その魔力的な結合を一つずつ解いていく。結び目を一つ解くたびに、おぞましい怨念が霧のように噴き出し、工房の空気を凍らせた。だが、アキは構わず作業を続けた。
そして、五日目の夜明け前。
工房の窓から差し込む月明かりだけが、アキの手元を照らしていた。彼の額には玉の汗が浮かび、体力も魔力も、とうに限界を超えている。
目の前の短剣には、あと一つだけ、解かれていない呪いの結び目と、繋がれていない魔力回路が残っていた。これが、最後の工程。
アキは残ったすべての力を指先に集め、震える手で、最後の呪いを解き放ち、最後の回路を繋いだ。
その瞬間だった。
工房全体が、閃光に包まれた。
アキの手の中にあった短剣がまばゆい光を放ち、彼の腕を振り払って宙へと舞い上がる。凄まじい魔力の奔流が工房の中を吹き荒れ、壁に立てかけてあった道具や素材がガタガタと音を立てて倒れた。
光の中心で、短剣の姿が劇的に変わっていく。
赤黒い錆と無数の傷は完全に消え去り、その刀身は、磨き上げられた黒曜石のようにどこまでも深く、艶やかな輝きを放っていた。まるで夜空そのものを切り取って鍛え上げたかのように、刀身の内部には無数の星屑がまたたいている。朽ち果てていた柄も、竜の鱗のような滑らかな黒い装甲と、黄金の装飾が施された、威厳のある姿を取り戻していた。
やがて、荒れ狂っていた魔力の嵐が嘘のように静まり、光が収束していく。
生まれ変わった剣は、静かにアキの目の前に浮かんでいた。そのたたずまいは、もはや「短剣」などという矮小な言葉では表現できない。それは、王が持つべき威厳と、神が振るうべき力を同時に感じさせる、完璧な「魔剣」だった。
工房の静寂を破り、明瞭な声がアキの脳内に響いた。今度はもう、錆びついた音ではない。それは、世界そのものを震わせるような、力強く、そして気高いテノールの声だった。
「――見事だ、人の子よ」
剣はゆっくりとアキの方に切っ先を向けた。
「我が名はグラム。永きにわたる呪いの牢獄から我を目覚めさせるとは……。貴様、何者だ?」
アキは、目の前の超常的な光景に圧倒されながらも、ごくりと唾を飲み込み、かすれた声で答えた。
「……アキ。ただの、修復師だ」
「アキ、か。ただの修復師が、我にかけられた神々の呪いを解けるものか」
グラムと名乗った魔剣は、ふん、と鼻で笑うように魔力を揺らめかせた。「まあ良い。貴様のその腕、しかと見届けさせてもらった。我が新たな主として、不足はない」
一方的に主従関係を宣言され、アキは戸惑う。
「主って……。俺はただ、君を直しただけで……」
「そうだ。そして、我を直せるのは、もはやこの世界で貴様だけであろう。我はかつて、英雄と呼ばれた男と共にあった。数多の魔王を屠り、邪神すら切り伏せた最強の剣よ。だが、最後に戦った“ヤツら”との戦いで、我らは敗れた。英雄は塵となり、我はこの呪いをかけられ、打ち捨てられたのだ」
グラムの声に、初めて悔しさと憎悪の色が滲んだ。
「永い間、意識だけの存在として、時の流れを眺めていた。だが、最近になって、奴らの気配が再びこの大陸で色濃くなっているのを感じる。我を呪った忌まわしき“ヤツら”の気配がな」
グラムはそこで言葉を切ると、その切っ先で、工房の扉の向こう、王都のある方角を指し示した。
「アキよ。貴様が望むと望まざると、貴様はもう、世界の運命に組み込まれた。我が目覚めたことで、ヤツらもいずれ気づくだろう。平穏な日々は、もう終わりだ」
追放され、辺境の地で手に入れたはずの、ささやかな日常。
それが、一本の魔剣を修復したことで、否応なく巨大な陰謀と宿命の渦へと巻き込まれていく。
アキは、生まれ変わった魔剣の、星空を宿した美しい刀身を見つめながら、これから始まる途方もない物語の序章を、ただ呆然と受け入れるしかなかった。