表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/9

第一話 無能の烙印と片道切符

カツン、と小さな音が工房の静寂に響く。

寸分違わぬリズムで、アキは手の中にある銀製のペン先を、極小のハンマーで叩いていた。歪んだペンポイントを本来あるべき滑らかな曲線に戻す。魔力を糸のように細くして巻き付け、金属の分子構造をわずかに弛緩させながら、完璧な一点へと修復していく。

彼の持つスキル【修復】は、そんな地味な作業の繰り返しだった。


「おい、アキ。まだそんなガラクタを弄っているのか? どうせ書記官の誰かが酔って壊した安物だろう」


背後から投げかけられたのは、嘲笑と憐れみが入り混じった声だった。振り返ると、同僚の魔術師たちが数人、腕を組んでこちらを見下ろしている。彼らのローブはアキのものとは違い、攻撃魔術や防御魔術の使い手であることを示す派手な刺繍が施されていた。


「依頼されたものなので」

「依頼、ねぇ。インク瓶のひびを塞いだり、破れた羊皮紙を繋ぎ合わせたり。そんなものが宮廷魔術師団の仕事だとは、片腹痛いわ」


彼らの言うことは事実だった。アキの元に来る依頼は、そんなものばかりだ。戦闘で半壊した魔法の盾でも、呪いをかけられた王家の宝剣でもない。誰かが壊した日用品。誰もが見向きもしない、価値のないガラクタ。

だが、アキにとっては違った。

壊れたモノには、そこに至るまでの物語がある。持ち主の癖、壊れた瞬間の衝撃、そして本来持っていたはずの機能美。それらを読み解き、静かに元の姿へと戻していく作業は、アキにとって何物にも代えがたい充足感を与えてくれた。

日本で文化財修復家として過労死し、この世界に転生して十数年。貴族の末家に生まれ、幸か不幸かこの【修復】スキルを発現した日から、アキの生きる意味は再び「直す」ことになった。


「まあ、好きにすればいいさ。どうせお前のスキルじゃ、それくらいしか使い道がないんだからな」


同僚たちは興味を失ったように去っていく。工房にはまた、アキと、修復を待つモノたちだけの静寂が戻ってきた。ペン先の修復を終え、依頼主である初老の書記官に届けに行くと、彼は涙を流さんばかりに喜んでくれた。亡き妻から贈られた、ただ一つの形見だったらしい。

「ありがとう、アキ殿。君はまさに神の使いだ」

大げさな感謝の言葉に、アキはうまく返す言葉が見つからず、そそくさと工房に引き返した。誰かに感謝されるためにやっているわけではない。ただ、モノが本来の姿を取り戻す、その瞬間が見たいだけなのだ。


そんなささやかな日常は、突如として終わりを告げた。

工房の扉が、許可もなく乱暴に開け放たれる。入ってきたのは、この国の権力を一手に握る宰相ドーソンと、その護衛である騎士団長だった。アイロンをかけたように皺一つない純白のローブをまとった宰相は、工房の中を汚物でも見るかのように見回し、顔をしかめた。


「ここか。宮廷の予算を無駄遣いしているという寄生虫の巣は」


冷たく言い放つドーソンの視線が、アキに突き刺さる。その隣で、全身を鋼の鎧で固めた騎士団長が、威圧するように柄に手をかけていた。


「本日をもって、宮廷魔術師団の再編を行う。我が国に必要なのは、国威を発揚し、外敵を打ち砕く強力な魔術だ。攻撃、防御、召喚、あるいは広域治癒。それ以外の、生産性のない、国益に寄与しないスキルは不要である」


ドーソンは、まるで出来の悪い生徒に言い聞かせるように、ゆっくりと続けた。


「アキ魔術師。君のスキル【修復】は、魔術師団、いや、この国にとって無価値であると結論が出た。壊れたものは捨て、新しいものを作ればいい。それが富国強兵の礎だ。君のように過去のガラクタに執着する存在は、改革の妨げにしかならん」


アキは、ただ黙って宰相の言葉を聞いていた。予想していたことではあった。効率と成果を第一とするこの宰相が政権を握ってから、宮廷の空気は大きく変わった。古いものは次々と捨てられ、アキのような地味なスキルを持つ者は、日増しに肩身が狭くなっていた。

それでも、心のどこかで、この場所を奪われることはないだろうと楽観していた。ここは、アキにとって世界のすべてだったからだ。


「よって、君を宮廷魔術師団から除名し、辺境都市アルテアへの永住を命じる。事実上の追放だ。異論は認めん。これは王命である」


王命。その一言が、すべてを決定づけた。

アキは、反論する言葉を持たなかった。自分のスキルが、この国の役に立たないと言われれば、そうなのかもしれない。魔物との戦争が激化する昨今、ペン先を一つ直すよりも、ファイアボールを一つ撃てる方が、よほど価値があるのだろう。

頭では理解できた。だが、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感が、じわじわと全身を蝕んでいく。


「私物は本日中にまとめ、日没までに王都から立ち去れ。支給されるのは、片道切符の馬車代のみだ。我らが慈悲に感謝するがいい」


ドーソンはそれだけ言うと、踵を返し、一度も振り返ることなく去っていった。残されたのは、呆然と立ち尽くすアキと、騎士団長の侮蔑に満ちた視線だけだった。


荷物をまとめる時間は、ほとんど拷問に近かった。

長年使い込んだ修復用の道具一式。様々な材質に対応できるよう、自分で作り替えた特殊なヤスリや、魔力を通しやすいように調整したピンセット。それらを一つ一つ、布に包んで木箱に収めていく。

遠巻きに見ていた同僚たちが、ひそひそと噂話をしているのが聞こえる。

「当然の結果だな」

「あんなスキルで宮廷にいられたのが奇跡だったんだ」

憐れみ、嘲笑、安堵。様々な感情が渦巻く視線を背中に感じながら、アキは黙々と手を動かした。悔しいとか、悲しいとか、そういう感情よりも、ただただ、この愛着のある工房から引き離される事実が、現実感を伴わずに心を漂っていた。

この傷だらけの作業台も、壁一面に並べられた素材の入った小瓶も、もう二度と触れることはない。そう思うと、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。


転生前の人生も、似たようなものだったかもしれない。薄暗い博物館の収蔵庫で、何百年も前の陶器の欠片を繋ぎ合わせる日々。誰に褒められるでもなく、ただひたすらに、失われたものと向き合う。それが自分の天職だと信じていた。だが、結局は過労で倒れ、誰にも看取られずに死んだ。

そして、この世界でもまた、同じように「価値のないもの」と共に居場所を失うのか。


日没が迫る頃、アキは小さな木箱一つを抱え、王都の西門に立っていた。辺境都市アルテア行きの、オンボロの乗り合い馬車が客を待っている。御者台の男に銀貨を数枚渡すと、汚いものにでも触るかのように受け取られた。追放者の扱いは、こんなものだ。


ガタガタと音を立てて、馬車が動き出す。壮麗な王都の城壁が、夕日に照らされてゆっくりと遠ざかっていく。もう二度と、この場所に戻ることはないだろう。

感傷に浸る間もなく、馬車の激しい揺れで、木箱の中の道具がぶつかり合う音がした。壊れてはいないかと心配になり、アキは蓋を開けて中身を整理し始める。

ヤスリ、ピンセット、小さなハンマー、魔導レンズ……。一つ一つ、指先で確かめるように触れていく。

その時、硬く、冷たい何かが指先に触れた。

見慣れない感触だった。自分の道具ではない。なんだろう、と手に取ってみると、それは一本の短剣だった。

全体が赤黒い錆に覆われ、柄に巻かれていたであろう革は朽ち果て、見るも無惨な姿を晒している。とても武器として使える状態ではない。誰かが捨てたガラクタが、荷造りの際に紛れ込んだのだろうか。


御者に言って、そこらに捨てさせようか。そう思った瞬間、アキの指先が、錆の下に隠された微かな感触を捉えた。

それは、驚くほど精緻な文様だった。肉眼では見えないほど細かく、それでいて寸分の狂いもなく刻まれている。そして、その重心。ボロボロのはずなのに、手に吸い付くように馴染む、絶妙な重量バランス。

これは、ただのガラクタではない。

アキは短剣を握りしめた。転生前の修復家としての血が、魂が、歓喜の声を上げるのを確かに感じた。

こんな素晴らしい「仕事」が、まだ残っていたなんて。


「……直したい」


誰に言うでもなく、アキは呟いた。

追放された無念も、未来への不安も、その瞬間、頭の片隅へと追いやられていた。

ただ、目の前にある「壊れたもの」を、本来あるべき美しい姿に戻したい。その本能的な欲求だけが、アキの心を強く、確かに満たしていた。

辺境の地で何が待ち受けているのか、まだアキは知らない。だが、この錆びついた短剣との出会いが、彼の運命を、そして世界の運命すらも大きく変えていくことになる始まりの一歩だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ