マンションの7階
私、Aの地元には名所と呼ばれるマンションがありました。名所と言っても観光地のようなものではありません。そこは「心霊スポット」や「自殺の名所」と呼ばれる場所でした。ただ、私が思うにあそこはもっと次元の高い、なんと表現したらいいのか。心霊スポットなんてちゃちなものではなくて、もっと神秘的な、一般人が安易に足を踏み入れてはいけない、そんな場所なのです。
私の通っていた高校では、常に「また自殺者がでたぞ」「今度は隣町の高校生らしい」そんな会話が飛び交っていました。しかしその話を心の底から信じている人は誰もいなかったと思います。例のマンションが学校から遠い町の外れのほうにあったこともあり、誰一人として自殺の瞬間を見たことがなく、いわゆる都市伝説的なものだと私含め、クラスの全員が思っていました。
あれは高校二年生の夏のことでした。私の高校は地元では評判の良い学校で、夏休みに夏期講習があり、せっかくの休みなのに高校に通わないといけませんでした。当時、面倒くささを感じていましたが今思えば輝かしい青春の1ページです。
「おはよう、A。今日も暑いな。こんな日は学校なんて来ないで家でのんびりしていたいよな。あーだる。講習中、絶対寝るわ」
机に突っ伏していた私に話しかけてきたのは友人のBでした。Bは背が低くてお調子者、しかし根はすごくまじめで、学校を休むことはなく、授業中に寝ているところも見たことがありません。本当に困ったことで相談するとふざけることなくまじめに話を聞いてくれます。また、「あの子はあいつが好き」だの、「あいつはあの子のことが嫌い」だのどこから手に入れたのか、どこまでが本当なのかわからない噂話が大好きないわゆる情報通な男でした。そんなBは例のマンションの話に興味津々で毎日嬉々としてマンションンの話をしていました。
「とか言って、Bはどうせ今日もまじめに講習受けるだろ? お前はまじめちゃんだからな」
「な、ま、まぁまじめに講習受けるけどさ。それは言わないお約束だろ?」
「そんな約束した記憶はねぇよ」
こんなたわいもない話をしているともう1人の友人が登校してくる。いつもの流れです。
「よ、A、B、おはよう」
「お、C。おはよう。聞いてくれよ、Aのやつが俺との約束を破るんだよ。」
「お前変な言い方するなよ。てか、約束してないだろうが。」
「何があったか知らねぇけどこんな暑い朝から元気そうだな、お前ら。」
彼はC。Bと同じでいつも私と一緒にいる友人です。Cは眼鏡をかけていて高身長、まじめな性格だけれど私たちの悪ふざけには全力で乗っかってくれる。顔が整っていて女子人気が非常に高くその性格も相まって先生からの評価も非常に高いやつです。
私は当時、基本この三人で行動をしていました。いわゆるいつメンというやつでした。
「あ、そうだ、聞いたかよ?A、C?例のマンション。今度はホームレスが自殺したらしいぜ」
Bが悪い笑みを浮かべながらいつもの噂話を口にします。私とCはまた始まったよ、と顔を見合わせました。一息置いてCが口を割りました。
「またその話か、ここ最近毎日自殺者が出てるじゃん。普通そんないかれたマンション取り壊しか閉鎖だろ。」
Cは初めこそ、このマンションの話を聞いて興味を示していましたが、最近はもう飽きたようで、この日もBの話に呆れているようでした。
「それがよ、なぜだか近隣住民が取り壊しに対して反対運動とかやっているらしいぜ、気味悪くねえか。」
「ハイハイ、怖い怖い。」
Cのこうしたあしらいも最近では日常です。
「なんだよつまらねぇな。なぁ、Aはどう思うよ。」
少しだけ不貞腐れた顔でBは私に話を振ってきました。
「例の建物の話?それともCの対応の話?例の建物なら俺も信じてはないかな。ただ火の無いところに煙は立たないっていうだろ。変なものはあるとは思っちまうけどな。」
なんて言ったけれど正直私はほかの二人と違って初めからこのマンションに対して興味を魅かれていませんでした。しかし少しでも興味のありそうでいないとBは拗ねて面倒くさいのです。
「なんだよお前ら、つまんねぇな。本当はビビってんじゃねぇの?」
普段なら聞き流せるBの軽い煽り。しかし、その日の私は夏の暑さのせいか、はたまた聞き飽きたこの話に対して我慢の限界が来たのか。とにかく、私自身を批判されたような気がしてしまい、頭に来てしまったのです。
「ビビるとかガキかよ。 じゃあよ、今日の夜そのマンションに行ってみようぜ。肝試しってやつだよ。丁度夏だし。」
所詮はただの建物。自殺者が出たとかは全部嘘に決まっている。そう本気で考えていました。
一瞬の沈黙の末、先に賛同したのはCのほうでした。
「いいね。行こうぜ。噂だということを証明してやるよ。」
私はてっきりCは危険だからとか、不法侵入になると言って止めてくれるものだと思い込んでいました。きっとCも私と同じでそのマンションの話に我慢の限界がきて白黒つけたかったのだと思います。
「いや、別に行ってもいいけどよ。どうなっても知らないからな。」
Cに引っ張られるように賛同したBの目は泳いでいました。
「おいおい、さっきまで人をビビり扱いしていたくせに、当の本人が一番怖がりか?」
私とCはさっきの仕返しといわんばかりにBをいじったのをよく覚えています。
学校のチャイムの音が騒々しいセミの鳴き声をかき消し教室に響きました。視界の隅に生ぬるい風が教室のカーテンを揺らしているのがうつりました。
扇風機の風だけではごまかせないほどの暑さだった昼とは打って変わって夜は過ごしやすい気温でした。私は両親が寝たのを確認し、駐輪場から自転車を出し、集合場所であった校門前に向かいました。一人、夜中、外に出るというシチュエーションに自然と気分が高揚して、自転車を漕ぐ足に力が入りました。風が頬を撫で、月明かりが私を照らすスポットライトのように感じました。自分がこの世界の主人公になったような、自分以外の人間がいなくなってしまったかのような、そんな勘違いすら覚える程に深夜が醸し出す特別感に私は狂わされていました。全身で夜風を浴びるのが気持ちよくて、自然と笑みがこぼれていました。
0時56分。校門の前にはすでにBとCが待っていました。
「ごめんごめん、待った?」
時間には間に合っていましたが、最後についたためとりあえず謝罪、Bがいつもの悪い笑顔で
「お、来た来た。結構待ったぜ。さてはビビって来る途中に引き返そうとしたんじゃないだろうな。」
と私を挑発してきました。そんなBの頭をCが軽く小突いて、
「お前もついさっき着いたばかりだろう。それに、『このままAが来なかったもう帰ろうぜ。俺ら二人で行ったって意味ねぇよな。』ってビビっていたのはどこのどいつだったっけな?」
と、普段からは考えられない悪い笑顔を浮かべました。深夜という時間がCのテンションをおかしくしていたんだと思います。
「そんなビビった感じで言ってねぇよ!!」
Bは恥ずかしそうな顔をCに向けました。そして私に向けて、
「まぁ実際は2分くらいしか待ってないから気にしなくていいからな。てか、集合時間には間に合っているわけだし。」
と続けました。Bは普段通りを装っていましたが、私たちからすれば怖がっていることは明白でした。声がいつもより低い、まじめな時のトーンだったからです。
「長時間待たせてなかったのならよかったよ。じゃ、さっそく向かおうぜ」
自転車のペダルを強く踏み込み私たちは例のマンションに向かいました。向かう道中私たちの会話に笑いが絶えませんでした。回り道をし深夜の町を楽しみながら私たちは例のマンションに向かいました。
30分くらいたったでしょうか。町の外れというには5、6階建てのマンションやアパートが並ぶ栄えた場所に差し掛かりました。さっきまでの笑いの絶えなかった私たちに緊張が走りました。例のマンションが見えてきたのです。屋上と思しき空間は無く、外観はそこら辺にあるマンションより1階程高く、外壁は真っ白で、正直普通よりも少し小奇麗なマンションくらいにしか見えず周りに建っているマンションと大差はありませんでした。そのマンションの窓やベランダから漏れる生活感がの底、私たちの中にある恐怖心を薄めてくれました。
「ついたな。」
Bの弱弱しい一言が彼の心情を表しているようでした。それに対して私は、
「ハハ、ハハハ。」
と笑みがこぼれていました。私はこれから例のマンションに入る。それだけで気分がとても高揚していました。私たちはマンションの裏に自転車を止め、フェンスを登り設置されていた非常用と思われる階段から一階の廊下に侵入しました。不法侵入。しかし、この時の私は私の高揚感を抑えつけて冷静になることはできませんでした。普段ならCが止めてくれそうなものなのですが、きっとCも変な気分になっていたのだと思います。Bは何かを言っていたと思いますが、あまり覚えてはいません、というより耳に入っていなかったとのだと思います。
マンションの広さは、各フロア10部屋程度。L字型の廊下で、等間隔にフェンスとドアが設置されているいたって普通のマンションでした。1階を見る限りどの部屋にも表札がありました。廊下を奥まで進むとエレベーターがあり、私たちはそれに乗り込みました。乗り込んだ際何とも言えない違和感が私を襲いました。エレベーターは1~6階までのボタンがあり、私たちは2階、3階と各階を見て回ることにしました。このマンションは廊下の一方の端にエレベーター、逆側の端に私たちが侵入に使った階段がある作りになっていたので、奇数階から偶数階に上がるときはエレベーターを、偶数階から奇数階に上るときは階段を使いました。
はじめ、私たちは恐る恐る廊下を歩いていましたが、4階、5階と階数を重ねても何の変化も、不思議な出来事も起こらず正直拍子抜けでした。どの部屋も表札が付いているのがほとんどで、生活感が感じられる、本当にただマンションに来ているだけといった感じでした。あっという間に最上階の6階までつきました。CがBに対し鼻で笑いながら
「やっぱり噂は噂だったな。普通に人が暮らしているただのマンションだ。少なくとも大量に自殺者が出るような恐ろしい場所のようには思えねぇよ」
と勝ち誇った顔を向けていました。
「そんなことはないと思うんだけどなぁ。おかしいなぁ。」
Bの声はすっかりいつもの調子に戻っていました。私たちの中で恐怖心や緊張感は消え私は眠気すら感じていました。
しかし、6階の廊下の先をみた私たちは緊張感を取り戻しました。階段です。エレベーターのボタンは確かに6階までしかなかったのに、私たちの目の前には上の階につながる階段がありました。屋上がないのは外から見た時点で把握していました。エレベーターに乗った際の謎の違和感の正体がわかりました。
エレベーターでは行くことのできない7階がある。
その不気味な可能性。私たちは顔を見合わせました。同時にこのマンションについた時のあの高揚感が私の中でふつふつと息を吹き返していくのを感じました。私はBとCの前に出て階段を上りました。Cも私の後をついて階段を上り始めました。
「お、おい、待てよ」
少し遅れてBも階段を上り始めました。Bの声はまじめな声に戻っていました。
階段の先は異質な光景でした。5mほどの短い廊下、その先に表札が無い、しかしこれまでのどの部屋のドアより豪華なドア。明らかにほかの階とは違うその雰囲気と不気味さ。真っ先にその異質さを口にしたのはCでした。
「あー、これはなんかやべぇな。帰るぞ。」
Bもそれに続くように、
「ハハ、そうだよな。これは、やばいやつだよな。」
と、その声はかすかに震えていましました。しかし私の中で湧き上がる高揚感は最高潮に達してしまいました。ダメだとは分かっている。でももう止められません。ドアノブに手をかけ、捻りました。いともたやすくそのドアノブは回りました。
「おい、バカ。何やってんだ。それ以上はやりすぎだ。」
Cの忠告を無視して私は扉を押しました。ギーっという音を立て開いた先には、家具などが一切配置されていない開放感のある空間がただ広がっていました。7階全部を使って1つの部屋を作っているかのようなだだっ広い空間。しかし、独特な雰囲気が漂っており、埃っぽさはなく何なら真新しさを感じる内装。生活感は無く、独特な壁紙、正面には学校の教室ほどの窓が付いておりその窓は何故か開いていて、夏らしくない冷たい風を部屋の中に送っていました。
「ほら、もう終わりだ。帰るぞ。A」
「そうだよ。帰ろう。」
CとBの声では今の私を止めること不可能でした。私はその部屋に歩をすすめました。
死にたい
私の頭の中に何か濁ったものが混ざり込んだそんな感覚。私はその感覚に対して違和感を感じる間もなく何かが決壊しました。
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい生きていても意味がない。生きる価値がない。死んだほうがいい。死ぬことが正解だ。死のう。楽になろう。死にたい。死ねる。今なら死ねる。そうだ、死ぬんだ。生きている必要なんてない。死のう。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
「A!!!!」
絶叫にも近いCの声を聞いて我に返りました。私は正面の窓から上半身を乗り出し、落下する寸前でした。私はあの感情に支配されて無意識のうちに飛び降りようとしていたのです。
「ヒッ」
上半身を後ろにそり返してしりもちをつきました。何が起こったのか訳が分からなくてただただ恐怖が私を支配しました。この部屋にいてはいけない。私は全力で走りBとCの待つ廊下に飛び出して膝から崩れました。Bは完全に腰が抜けていましたが、戻ってきた私に対して
「よかった、ごめん、もう帰ろう、ここはマジのやつだ。本当にごめん。帰ろう。」
と泣きじゃくりました。
「お前が部屋に入った瞬間からずっと呼んでいたんだぞ!!聞こえてなったのか!?」
Cはよほど大きな声を出し続けていたのか息を切らしていました。しかし私は自分がどうなっていたのか、どれくらいの時間あの部屋にいたのか、何をしていたのか全く記憶になく、ただ頭の中が「死にたい」で支配されていた記憶しかありません。夏なのに全身鳥肌と震えが止まりませんでした。とにかくこのマンションにもういたくない。今すぐにでもここを立ち去りたい。頭の中は恐怖の感情でいっぱいでした。崩れた体を起こし、私たちは階段を駆け下りました。警備員や管理人がいるかもなんて考える余裕もなく正面玄関から外に飛び出し、裏に止めた自転車を回収して猛スピードでそのマンションを後にしました。ベランダから漏れる生活感がただ恐ろしく、私は振り返ることができませんでした。
見覚えのある道に差し掛かるころ、私たちは行きの時と同じようにくだらない話をしていました。しかし、それは楽しむためではなく、少しでもあのマンションを忘れるため、安心感を得るためでした。実際私たちの会話に笑顔はなくあのマンションのことは誰も口にしませんでした。
「じゃあ、またな」
ひきつった笑顔でお互いの顔を見合い私たちは解散しました。スポットライトのような月明かりが現実ではない何か異質なもののように感じ、真夜中の持つ恐ろしさが私の孤独感をより強め吐きそうでした。その感情を拭うためペダルを漕ぐ足に自然と力が入りました。全身で感じる風が生きていることを感じさせ自然と涙が出そうになりました。
家に帰り自分の部屋のベッドにうずくまりました。夏なのにタオルケットを頭から被りました。それでも震えは止まりませんでした。一歩遅かったら死んでいた。その事実がただただ恐ろしくて仕方がありませんでした。気が付くと窓から朝日が差しこんでいました。
騒々しい教室にそぐわない顔色の二人。私と同じで一睡もしていないであろうことはすぐにわかりました。
「おはよう」
私は何と言っていいかわからず二人に挨拶をすることしかできませんでした。Cはかすれた声で、
「昨日の、覚えているか。」
私の顔をじっと見て問いかけました。その目には心配が見て取れました。変な話ですが、私はそれがすごく嬉しかったのを覚えています。
「みんなであの建物にいって、俺が危ない目にあったのは覚えているよ。でもあの部屋の中で何があったかは覚えてないんだ。」
私の返答から少しの間もあけずにBが、
「あの時のお前変だったよCと俺がずっと叫んでいるのにお前まったく聞く耳を建てずに」
と取り乱した様子で声を荒げました。しゃべりながらヒートアップしていくBの目には涙がうかんでいました。
「落ち着けB。A、昨日のお前がどんな感じだったか覚えてないんだな。」
少し間を開けてCはゆっくりと話し始めました。
Cの話によるとどうやら私は部屋に入ると何かにとりつかれたかのように、部屋の中心にうずくまり、自分の首を絞め始めたそうです。まずいと思ったけれど恐怖が体を支配し、Cは叫ぶことしかできませんでした。Bは腰を抜かして、廊下に座り込んでしまったそうです。首を絞める手に力が入り私は「カッ」と喉を鳴らし、その後、一直線に窓に向かって走りだし、そして窓から頭を突き出しました。とそのとき、ようやく私はCの叫び声を聞いて、そこからは私記憶にある通りでした。私はぞっとしました。あの建物が自殺の名所なんかではなくもっとやばい何かだったことに、そしてそんなマンションにいまだに住んでいる人がいるということに。口から出てきそうなほど心臓の高鳴りを感じました。鳥肌がまた私の全身を支配しました。
その日私たちはあのマンションについて、インターネットや過去の新聞を使って調べました。分かったことは、あのマンションは今から10年ほど前に建てられたもので若くして亡くなった有名な建築家の最後の作品だそうです。このマンションは彼が精神的にやられてしまったときにデザインした作品で、本来なら全体を設計するはずだったのに彼は7階部分を完成させると全体は未完のまま自殺。真偽は定かではありませんが遺書には、
「私の人生で最も美しく、素晴らしいデザインができた。もう後悔はない。」
と残されていたそうです。しかしその一室に入居した人が立て続けに遺書も残さず飛び降りをしていて、そうした背景からあの7階だけは入居者の募集を行っていません。しかし、1~6階は満室、近所のアパートやマンションの住民も気味悪がることはなくむしろ気に入っていて、閉鎖の話が出る度に反対運動が大々的に起こるほどだそうです。近隣住民やマンションに住んでいる人は皆口を揃えて、
「私たちはあのマンションに救われました。」
というそうです。私たちは調べていくうちにとても怖くなりました。
「もうよそう。これ以上調べても気味が悪いだけだ。」
「Cの言うとおりだよ。Aは生き残ったんだ。それだけで十分すぎるよな。」
Bの震える唇とCの優しい目を見て私はこれ以上調べることをやめました。
結局私たちは「建築家が現世に残した未練による呪い。」と結論付けました。そう結論付けることしかできませんでした。この日以降私たちの間でこのマンションについて話題に上がることはありませんでした。
それから数年が経ち、高校を卒業した私はBとCとは別の大学に進学し、地元を出ました。とにかくあの気味の悪いマンションから逃げたかったのです。地元には極力帰りませんでした。次第にCとBとも縁が切れていきました。
大学生活は非常に楽しいものでした。就活は大変でしたが、無事就職先も決まり大学も卒業することができました。
二十八歳のころ私の人生は大きく変化しました。詳しいことを書くと話の本筋からぶれてしまうため、軽く触れることにします。簡単に言うと当時の彼女の浮気、家族の死、仕事での失敗と辛いことがいくつも重なったのです。私の中で、何か崩れていくそんな感覚を覚えました。前を向くしかない。頭の中はそれでいっぱいでした。
そんなある日。大学時代の後輩の勧めである食事会に行くことになりました。なんでも若くして成功した人たちの集まりで、
「成功者は過去に大きな挫折を経験しているもので、そこから這い上がり生き残った者が後世に名を残すんですよ。先輩は成功者になれる素質がありますよ!」
なんてことを言われ藁にも縋る思いでついていきました。私の人生がいい方向に動きだしているそんなのんきなことを考えていました。そこで知り合った人を信じてお金を払いました。契約書にサインをしました。冷静さを欠いていました。バカでした。もしCがいれば、「そんな怪しいところ行くなよ」と止めてくれていたことでしょう。Bがいればその集まりの怪しい噂をどこからともなく手に入れていたかもしれません。本当の本当にバカでした。いつの間にか借金まみれで首が回らなくなりました。後輩は姿をくらまし連絡も着きません。私は必死に働いて借金の返済を頑張りました。今の仕事では足らず副業で肉体労働も行いました。そんな生活が1年続きました。
年末の足音が迫ってきた十二月の夜。夜勤終わり疲れ果てた私は自動販売機で温かいコーヒーを買いました。おつりの70円が全て十円玉で出てきました。私の中で何かが壊れました。
「死にたい」
その感情は、空っぽになった脳みそがやっとの思いで絞り出したもののようでした。
遺書を書いて自分の死に場所と死に方を考えました。いろいろ考えました。首吊り、練炭、薬。そして『飛び降り』。蓋をしていたトラウマを自ら掘り起こしました。あそこなら死ねる。行こう。私の人生に大きく影響を与えたあそこに。私はいてもたってもいられなくなり、12年ぶりにあのマンションに向かいました。地元に帰るのは親の葬式以降初めてでした。
マンションの外観は12年前の真っ白な外壁は、薄汚れていて前よりも不気味さを増したように見えました。しかしベランダから漏れ出す生活感はあの日のままでした。私はスーツの内ポケットに遺書があることを確認して、そのマンションに入りました。もう現世に未練はない。ようやく死ねる。解放される。私の中で高揚感が湧き上がり、階段を1段飛ばしで7階へ向かいました。
7階の扉は12年前と違って輝いて見えました。あの日のトラウマが、今の私にとって希望でした。ドアノブに手をかけ捻りました。ドアを押すと「ギギギッ」と前よりも重たい音を立て開きました。広い空間に開いた窓。フロアに埃っぽさがなく、十年以上経っているというのにあの頃と同じ、いやあの頃以上に真新しさを感じ、時間の感覚が麻痺しました。意を決して部屋の中へ歩を進めました。その時私の頭の中をある感情が支配しました。
「美しい」
なぜか涙があふれてきました。この空間全体が私を肯定しているように感じました。私の頭の中に『死にたい』はきれいさっぱり消えていました。部屋の中心で膝から崩れ落ち私は泣きじゃくりました。どうしてこんなに美しいのだ。どうしてこんなにきれいなのだ。どうしてあの時これに気付けなかったのか。全身に鳥肌が立っていました。震えも止まりませんでした。
私は遺書を無造作にポケットに突っ込みマンションを後にしました。いつかこのマンションに住む。ここは私の生きる意味になったのです。
あのマンションは自殺の名所なんて物騒なものでも、建築家の呪いなんかでもありません。7階は建築家が極限の精神状態で最も美しいと感じデザインしたもの。その完成度は彼が満足して自殺をしてしまうほど。
ただ、その美しさを感じるには条件がありました。極限状態に陥った人、心の底から死にたい人のみが、建築家と同じ極限状態になった人のみがその真の美しさを感じることができる。強い感情のこもった物には魂が宿るという話しがあります。この空間はさぞ強い感情が込められたことでしょう。しかしこのマンションが建てられてから、この真の美しさを感じる人はめったに現れなかったと思います。極限状態に陥る人なんて中々現れません。さぞ悔しかったことでしょう。本当の姿を見てほしい。本当の美しさを知ってほしい。認めてほしい。そう感じたことでしょう。
これらの感情がこの空間に力を与えてしまったのです。部屋に足を踏み入れた人を極限状態に陥らせてしまう。全ては美しい自分を見てもらうために。しかし常人ではその極限状態に耐えることができません。十二年前、私はこの部屋の美しさに気付けなった。死にたいという感情に支配され周りが見えなくなってしまい窓から上半身を出した。きっとあの空間が影響を与える範囲外に顔が行き、我に返ることができた。本来なら私はあそこで死んでいた。
しかし今は違う。もとから極限状態の人は、自殺を決意した人はその真の美しさに胸を打たれ、救われ、このマンションを生きる理由にするのです。それが私の考えるこのマンションの正体です。取り壊しの話が出るたびに近隣住民が反対したのも今なら納得ができます。
あれから4年が経ち私は今このマンションの近くのアパートで暮らしています。仕事をやめアルバイトで稼いだお金で借金を返済し続ける毎日。でも人生で一番の幸せを感じています。私にはあのマンションがある。あれを見るだけで勇気をもらえる。私は借金を返済したらお金をためてあのマンションに引っ越すつもりです。しかし最近また取り壊しの話が出ています。当然ですが私は断固反対です。反対運動にも署名をし、抗議にも参加するつもりです。全てはあのマンションを後世に残すために。
創作です