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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

咆哮の剣、眠らず

作者:

あの戦のことを語る者は、もう残っていない。

いや、“正しく語れる者”といった方がいいだろう。

あまりにも恐ろしかったのだ。声が、空を割ったあの瞬間が。


丘の上に立っていたのは、一人の将だった。

その名は、海惇。

彼が声を発した瞬間、多くの兵が耳を塞ぎ、膝をついた。

鼓膜が破れた兵が七人。うち三人は自ら耳を潰した。

その日から、風が吹くたびに顔をしかめるようになった。


あれは、何だったのか。

呪いだったのか、神の怒りだったのか。

だがその中心にいた男──海惇は、何も叫んではいなかった。

ただ、部下の死を見て、声にならない叫びを発したのだ。

それは肉の声ではなく、魂の咆哮だった。


当時、海惇に仕えていた部下は三人いた。

烈馬、魁迅、そして刀颯。

誰もが名を上げ、敵将を討ち、戦場で語られるようになっていた。

だが、その日──その戦いで、彼らのうち二人は一度“死んだ”。


刀颯は、敵軍に突入し、まるで死人のような身体で百人を斬った。

生死の境を超えて動くその姿に、敵は「鬼神が蘇った」と噂した。

最期は名のある将に討たれたが、その将もまた瀕死に追い込まれ、語り継がれた。


魁迅は、生還した。

瀕死の状態で海惇に抱えられたその胸は、もう動いていなかった。

だが、海惇はただ一言も発さず、その胸を殴りつけた。

「戻ってこい」などとは言わない。

ただ、沈黙のままに拳を振るった。

それで、魁迅の息が戻ったのだ。


けれども、それは全ての始まりにすぎなかった。


──なぜなら、海惇はその戦を始めたとき、

すでに張飛を斬り、関羽を殺し、劉備を討ち果たしていたからだ。


彼は、声で戦場を制する将だった。

剣よりも、早く届くものを持っていた。


丘の上で風が鳴っていた。

その風は血の匂いを運び、焼けた肉の熱を引きずり、死者たちの呻きすらも飲み込んで吹き抜けていった。

戦場だった場所に、もはや戦う者はいなかった。生き残る者が数えるほどしかいなかったのではない。

立つ者すら、いなかったのだ。


その中で、ただ一人、海惇だけが立っていた。

彼は、何も言わず、ただ前を見据えていた。

目の奥で、何かが崩れていた。

だが、それは叫びにも、涙にもならなかった。

代わりに出たのが、あの“音”だった。


音としか呼べない。

声ではなかった。

獣の咆哮とも違う。

剣が何千本も一斉に叩き折られたような衝撃。

その音が空気を破裂させ、耳を潰し、鼓膜を抜き取った。


「誰も、あれを“聞いた”とは言わなかった。

 “感じた”としか、言えなかったんだ。」


そう語ったのは、戦後生き残ったただ一人の従兵だった。

彼は名を持たず、記録係として配置されていた者で、武功もなく、功績もない。

だが、彼の語りは数年後に一つの巻物へと記され、やがて口承され、

そして今に至るまで、“神話”として生き続けることになった。


この話は、その巻物の冒頭をなぞる形で始まる。


その声を放った将──海惇とは、いかなる者であったのか。

その部下たちは、なぜ命を投げ出してまで彼についていったのか。

なぜ彼の剣よりも、その声が先に届いたのか。


これから語るのは、戦ではない。

剣でもない。

命を削った者たちが、何を信じて、何を託し、そして何を守ろうとしたかという、

ただ一つの、静かで凄絶な記録である。



かつて、海惇が初めて戦場に立ったとき、彼はまだ名もなき若者だった。

誰の嫡子でもなく、血統に誇るものもなければ、仕官の推薦状すら持っていなかった。

ただ、一つだけ違ったものを持っていた。


それが“声”だった。


最初にその声が戦場に響いたのは、敵の伏兵を受け、味方が総崩れになった夜だった。

味方の将が矢に倒れ、隊列が乱れ、兵たちは逃げ惑った。

そのとき、海惇はただ一人で叫んだ。


──逃げるな! ここで死ね!


誰もがその言葉に耳を塞いだ。いや、耳を塞ぐというより、声に殴られたのだ。

逃げていた兵たちがその場に崩れ、立ち尽くした。

敵兵が一瞬、足を止めた。

海惇の声は、まるで目に見える刃のように空を裂いていた。


それが、伝説の最初だった。


その後、海惇は正式に隊に取り立てられたが、彼の“声”は恐れられもした。

上官は「味方を殺す声だ」と言った。

だが戦のたびに、海惇の声が敵陣を押し返し、戦を動かした。


最初に彼に従ったのは、烈馬という青年だった。

烈馬は腕の立つ剣士であり、誰よりも人を信じなかった。

だが、海惇の声を聞いたその日、彼は言った。


──おれは、この人のために死んでもいいと思った。自分でも意味がわからなかったが、そう思ったんだ


烈馬は、剣で命を奪うが、海惇は声で人の心を折った。

それを理解していたからこそ、烈馬はその背中に立ち続けた。


次に仕えたのは、魁迅。

魁迅は、軍に入る前は山賊であったと噂されるが、その実、書を愛する男だった。

戦の合間に筆を走らせ、戦況を詩にし、仲間の名を記録した。

だが彼も、初めて海惇の叫びを聞いたとき、その手の筆を折った。


──こんな音が、世に存在するのか。言葉では残せない。これは、魂に刻むしかない


三人目は刀颯。

最年少で、最も無鉄砲で、誰よりも海惇に憧れていた。

彼は自分の名を、海惇に倣って「刀」の字を入れたと語ったが、

決して真似ではなく、「自分はこの人の剣になりたい」と願っていた。


海惇は、それを悟っていながら決して言葉にしなかった。

刀颯もまた、海惇がそれに気づいていることに気づいていた。


その微妙な距離感のまま、三人の部下は海惇の影となり、矛となり、盾となった。


戦場は血と泥の匂いに満ちていたが、

海惇の陣だけは、なぜか風がよく通ると言われていた。

それは、彼が声を発するたびに、空気そのものが変わっていたからかもしれない。


戦において、風向きとはしばしば勝敗を決する要因である。

矢の飛び、火計の燃え広がり、煙の流れ──すべては風に左右される。

だが、海惇が声を上げたとき、そのすべての理が一瞬崩れるのだった。

風が逆巻き、煙が割れ、空が震える。

その咆哮の中心にいたのが、ただの一将──海惇であった。


ある者は言った。

──声が風を呼ぶのではなく、風が彼に屈しているのだ


その言葉を、烈馬は好んでいた。

魁迅はそれを書に残すことはなかった。

刀颯は、それを信じることよりも、ただ目の前の敵を斬ることに集中していた。


海惇が部隊を任された頃には、すでにその評判は周囲に広まりつつあった。

彼に近づく者もいれば、遠巻きに見る者もいた。

部下の中には彼の“声”を恐れて近づけぬ者もいた。

だが、三人だけは違った。

彼らは、海惇の中にあった“静かなる狂気”を、目を逸らさずに見つめていた。

そして、自分たちの狂気もそこに重ねていた。



ある夜、戦の前夜、三人は焚き火を囲んでいた。

烈馬が火を見つめ、刀颯が石を削り、魁迅が紙を広げていた。

そのとき海惇が現れ、三人の向かいに静かに座った。


──明日、戦うのは誰だ


それが、海惇の言葉だった。


──張飛、だそうです


魁迅が答える。


──らしいな


海惇は短く応じた。


──俺が行こうか?


烈馬が言った。


──だめだ


刀颯が即座に言った。


──俺がやる


──お前じゃ無理だ


烈馬は静かに返した。


──何言ってんだ、俺がいちばん──


──張飛は怒りで斬る。お前は怒りをもらいすぎる。斬られるぞ


刀颯が黙った。

それを見た魁迅が一言だけ付け加えた。


──……張飛は“相手の心を引きずる剣”を持っている。怒りと怒りは、ねじれるぞ


──じゃあ、俺が行く


烈馬が改めて言い、海惇がそれを静かに聞いていた。


そのやりとりの最後に、海惇は火を見つめながら言った。


──誰が行っても、死ぬかもしれん。だが、行かねばならん


その声は、叫びではなかった。

だが、火が揺れ、焚き火の端がぱちんと弾けた。


刀颯がぽつりとつぶやいた。


──声が、火も驚かせるんですね、将軍


海惇は、それに何も答えなかった。

だがその夜、誰も眠らなかった。

戦を前に、眠れなかったわけではない。

声がまだ、耳の奥に残っていたのだ。

音ではなく、残響として。血管の内側に染み込むように、海惇の声が生きていた。


翌朝、戦の太鼓が鳴るよりも早く、烈馬は甲冑を着て立っていた。

金具を締める音すら静かで、彼の瞳には、すでに戦の形が映っていた。

魁迅は、その背に小さく筆を当てていた。


──書くか?


烈馬が言った。


──いや、書かない。お前が生きて帰ったら、その目で話せ


──そうか


それきり、烈馬は歩き出した。


刀颯は黙って見ていた。

拳を握りしめていた。自分が行くべきだという思いはまだ消えていなかった。

だが、あの夜の言葉が、剣を握る指を固くしていた。

感情で突っ込めば、張飛に斬られる。

張飛の剣には、斬られる側の怒りまで呑み込む力がある。

それを知っていた。


海惇は、まだ何も言わなかった。

ただ、出陣する烈馬の背を目で追い、その歩みが見えなくなるまで、言葉を飲み込んでいた。


烈馬の出陣が告げられた時、陣全体が静かになった。

誰も太鼓を叩かなかった。

それは、烈馬自身の希望だった。


──俺は音で送り出されるより、沈黙で行きたい。

 海惇将軍の“声”があれば、それだけでいい


誰もそれに逆らわなかった。

それが、戦の始まりだった。



烈馬と張飛の戦いは、わずか数刻だった。

剣が交わったのは十合もない。

だが、そのわずか十合のあいだに、三十人の兵が倒れた。


烈馬が張飛の剣を受け、吹き飛ばされたとき、誰もが終わったと思った。

だが、烈馬は立った。

胸から血を流し、口から砂を吐きながら、それでも立ち上がった。


──名を言え!


張飛が叫んだ。


──烈馬。

 海惇将軍に、従う者だ


それを聞いた張飛が、一瞬、剣を下ろしかけたという。

だが、次の瞬間、烈馬は剣を構えて突進した。

剣は振るわれなかった。

ただ、その咆哮が響いた。


──お前を、殺すために来た!


その叫びは、海惇の声に似ていた。


それが、烈馬の最期の咆哮だった。

張飛の剣が振るわれ、烈馬の身体が斬り伏せられたとき、

彼の手の中には、自らの折れた剣の破片が握られていた。


その破片が、張飛の左の頬をかすめていたという。

深くはない。だが、血が出た。

その傷は、のちに張飛が酒を飲むたびに疼いたと、記録されている。


海惇は、それを遠くから聞いていた。

鼓動の音と、烈馬の叫びだけが届いていた。

空を見上げ、目を閉じた。

そして、何も言わなかった。

ただ、その背中が、重く沈んでいった。


沈黙が全陣に流れた。

烈馬の死を告げる使いは来なかった。誰も言葉にしなかった。

それでも、全員が知っていた。烈馬が帰ってこないことを。

その剣が、張飛に届かなかったことを。


魁迅は、その夜、何も書かなかった。

紙を広げたまま、筆を握りしめ、夜が明けるまで座っていた。

刀颯は、甲冑を着たまま寝ずに立ち尽くしていた。

誰かが声をかけようとしたが、その眼に宿る光を見て言葉を飲んだ。


そして、翌朝。

海惇は、刀颯を呼んだ。


──行くか?


その言葉は短かった。

だが、それだけで刀颯の中の何かが確かに引かれた。


──はい


刀颯の返事は静かだった。

烈馬のように怒りで燃えてはいなかった。

魁迅のように理で整えてもいなかった。

ただ、そこには揺るぎない“決意”だけがあった。



──ただ……

海惇が言いかけて止まる。


──言うな

刀颯が先に遮った。

──何も言わないでください。今、声を聞くと……、たぶん、泣いてしまう


それを聞いて、海惇はわずかに口の端を上げた。

微笑でも、哀しみでもない。

ただ、そうだな、と認めただけの表情だった。


刀颯の出陣は、烈馬のときとは違い、太鼓が鳴った。

それは、彼自身の希望だった。


──俺は……音の中で斬りたいんです。烈馬の静けさじゃなくて、俺は音が欲しい。

 鼓動のような、熱のような……。そういうのじゃないと、戦えないから


太鼓が鳴り響き、刃が鞘から抜かれる音が一斉に続いた。

その音のすべてが、刀颯の背に集まっていくようだった。


魁迅が、何かを叫ぼうとして口を開いたが、何も言えなかった。

代わりに、手にした筆を空に向けて掲げた。

それを見た刀颯は、ひとつだけ頷いて、駆け出していった。


その背を見ながら、海惇は初めて言葉を漏らした。


──……生きて、戻れ


それは小さな声だった。

だが、風がそれを運んだ。

太鼓の音を割って、刀颯の背に確かに届いた。


そのとき、刀颯の剣が、微かに光ったように見えた者がいたという。

誰も、それが本当かどうかはわからなかった。

だが、そう語られている。



刀颯は、烈馬の死を見ていた。

烈馬の折れた剣、張飛の動き、血の散り方、すべてを見ていた。

彼は、烈馬の死を「目に焼きつけた」と語っていた。


──戦うってことは、死をもらうことだ。なら、もらった死を、使ってみせる


彼はそう言って、剣を握り締めた。

その手のひらからは血が流れていた。

それは、剣の柄をあまりにも強く握りすぎたからだった。


そして、刀颯は張飛の前に現れた。

その顔には、怯えも怒りもなかった。

ただ、烈馬の声が、今も耳の奥にあった。

それだけを、心の中で繰り返していた。


張飛は剣を構えたまま、動かなかった。

刀颯の姿を見て、一瞬だけ、何かを思い出したように眉をひそめた。


──……あのときの小僧か


声に出したわけではない。ただ、目がそう言っていた。

だが、刀颯はそれに応えなかった。

彼の目は張飛を見ていなかった。

張飛の奥に立っていた“烈馬の背”を、ずっと見つめていた。



刹那、張飛が動いた。

剣が唸り、空気を切り裂いた。

刀颯は、避けなかった。

右足を半歩だけ引き、剣を半身で構えた。

そして、──受けた。


金属と金属がぶつかる音が響いた。

張飛の剣は、刀颯の刃に真正面から打ち込まれた。

火花が散った。

だが、折れなかった。

刀颯の剣は、折れなかった。


「……何者だ」


今度は、張飛が口に出した。

あの声が、重く、空気を揺らす。

だが、刀颯は答えなかった。


その代わりに、叫んだ。

声が爆ぜた。

まるで海惇のような咆哮──否、それは似て非なるものだった。

刀颯の声には、“憧れ”が混じっていた。


「俺は──海惇将軍の、剣だ!」


その言葉に、張飛の目が鋭くなった。

烈馬のときにはなかった、何かが揺らいだ。



再び、剣が交錯する。

一合、二合、三合。

張飛の動きは、先ほどとまるで違った。

読みが狂っていた。


刀颯は、張飛の動きに“烈馬の死”を重ねていた。

烈馬がどう動いて、どう斬られたか──

すべてを、肉体に刻んでいた。


五合目。

張飛の動きが鈍った。

僅かに、呼吸が荒くなった。

刀颯の一撃が、張飛の膝をかすめた。

血が滲んだ。

その瞬間、刀颯が叫んだ。


「お前の剣は怒りだ! 俺の剣は──痛みでできてるッ!!」


張飛の表情が変わった。

わずかに、目を見開いた。

その隙に、刀颯が踏み込む。


斬った。

張飛の肩口から腹にかけて、浅く、しかし深く、裂いた。

張飛が後退した。

剣を支える腕が震えていた。


だが、次の瞬間。

張飛が咆哮を上げた。

怒りが一気に噴き上がった。

その声に、刀颯の耳が揺れた。


「やはり、お前も声か──!」


張飛が振り下ろした剣が、刀颯の胸を裂いた。

血が噴き出す。

だが、刀颯は倒れない。

踏みとどまった。


「まだ……まだだ。俺は……!」


血を吐きながら、刀颯が一歩を踏み出す。

剣を肩に掲げ、最後の一撃を構える。

その姿は、海惇の影のようだった。


張飛が構え直す。

剣が空を裂く音が重なる。


そして、──二人の剣が、交わった。


刹那、張飛の剣がわずかに軌道を外れた。

その刃先は刀颯の肩を掠め、深く斬り裂いたものの、致命を逸れた。

同時に、刀颯の剣が張飛の腹を貫いた。

どちらの剣も止まらなかった。

ただ、斬り合った。


沈黙。


一歩、張飛が後ろへよろめいた。

その巨体が、ぐらりと揺れる。

剣を支える腕が、膝に触れた瞬間──

そのまま、張飛は地面に膝を突いた。

剣が地に落ちる音が、やけに遠くに聞こえた。


刀颯もまた、立ったままの姿勢を崩さなかった。

いや、崩せなかった。

呼吸が浅く、視界が霞み、力が抜けていく。

だが、剣だけは握ったままだった。


張飛が血の中で呻いた。

「……貴様……名を……」


刀颯は、剣を鞘に納めることもなく、その場に膝をついた。

崩れるのではなく、自らの意志で腰を落とした。

目を閉じ、口元に微笑を浮かべて──


「刀颯。海惇将軍の剣だ」


そう言った。

それが、最後の言葉だった。



張飛の身体が、前のめりに崩れ落ちた。

その刹那、戦場が静まり返った。

誰もが、それが何を意味するかを理解した。

あの張飛が、倒れたということを。


刀颯の身体は、動かなかった。

彼の目は閉じていたが、剣は地に触れていなかった。

その手が、最後まで握っていた。

海惇の“剣”として、生ききった証だった。


それを遠くで見ていた海惇は、唇を噛み締め、何も言わずにその場を離れた。

刀颯の死が、その瞬間に“伝説”になったことを、誰よりも先に悟ったのは、彼だった。


魁迅が駆け寄り、刀颯の傍に膝をつき、筆を持って立ち尽くした。

涙は流さなかった。

その代わりに、筆を震わせながら紙を広げ、静かに記し始めた。


「これは──刀颯の生である。

 その剣は折れず、魂は沈まず。

 声は剣を凌ぎ、死すら退け、張飛を討ち取るに至る。

 されど、その身は燃え尽き、風となりて将のもとへ還る」


筆が止まり、魁迅は震える手で目元を拭った。

海惇は遠くから、それを見ていた。

そして、自らの胸の奥に何かが欠けたことを、確かに感じていた。


烈馬の怒り。

刀颯の憧れ。

二つの命が、今、海惇の中に静かに沈んでいた。


魁迅は、刀颯の遺骸をそっと抱き上げた。

その身体は、すでに冷たかったが、剣を握る手は固く固く、死してなお意志を残していた。

「戻ろう。お前の魂は、まだ将軍に届いていない」

魁迅はそう呟き、血と泥にまみれた戦場を一歩ずつ踏みしめて進み始めた。


周囲の兵たちは、その姿に手を合わせ、道を開けた。

何人かの敵兵も、剣を納めて頭を下げた。

それは、戦場において稀に見る、敬意の沈黙だった。

名のある武将を討ち取った若き剣士に、死をもって尊敬を捧げた瞬間だった。


魁迅が海惇のもとにたどり着いたとき、将は何も言わず、ただその姿を見つめた。

刀颯の身体を目の前に置かれても、海惇は言葉を選ばなかった。

いや、言葉ではなく、視線だけが答えていた。



「……将軍。あいつ、やりきりました」

魁迅がそう言った瞬間、海惇はその場に膝をついた。

そして、刀颯の胸元に拳を置いた。

誰にも教わったことはない。ただ、そうすべきだと心が叫んでいた。

次の瞬間、強く、激しく──拳を打ち込んだ。


「目を覚ませ、刀颯」


音がした。骨が鳴った。肉が軋んだ。

静寂が訪れたあと、刀颯の身体が微かに跳ねた。

その口が、血を一筋吐き、目蓋が震えた。

呼吸──細く、浅い呼吸が戻った。


「……か……い……とん……しょう……ぐん……」

その声は聞き取れないほどかすれていたが、たしかに海惇の名を呼んでいた。

生きていたのだ。魂が、まだこの地にあった。


だが、もう一人の男──烈馬は違った。

彼はその時すでに死しており、何度声をかけても答えなかった。

海惇は烈馬の胸にも、同じように拳を叩き込んだ。

何の根拠もなく、ただの衝動として。


──が、次の瞬間、烈馬の目が開いた。


「……将軍、俺は……呂布を……」


言葉が意味をなしていなかった。

心はすでに死地に置いてきたのだ。

目の焦点も定まらず、魂だけが目的を呟いていた。


海惇は悟った。

この男は、もうこの戦場以外では生きられない。

ただ一つの命令だけが、彼を支えているのだ。

それが消えれば、烈馬はもう息をする理由を失ってしまう。


だから、海惇は嘘をついた。


「烈馬……まだだ。呂布は、生きている」

その言葉に、烈馬の目が光を取り戻した。

身体を起こし、よろよろと立ち上がる。

全身が血で濡れているのに、なぜか歩き出した。

誰も止められなかった。


「……わかりました。行ってきます」


烈馬はそう言って、ひとり、敵陣へ向かった。

すでに戦は終盤に入っており、残党しかいなかった。

だが、烈馬はその残党を一人残らず斬って進んだ。



兵たちは恐れた。

彼は死人にしか見えなかった。

足を引きずり、肩を落とし、顔は蒼白。

だが、その剣だけが鮮やかだった。


「鬼だ……」

「いや、“声の将”の化身か……」

「もう死んでるはずなのに……なぜ動く……?」


烈馬は言葉を発さなかった。

ただ、すべての敵を斬った。

名のある武将も、手練れの兵も、彼の前に立った者はすべて地に伏した。


最期に、名を持つ敵将──蒼州という猛将が立ちはだかった。

蒼州は烈馬がかつて斬った男の弟だった。

その恨みを胸に、復讐のためだけに戦いに身を投じていた。


「烈馬ァァアアアッ!!」


叫んで斬りかかる蒼州。

だが烈馬は反応すらせず、剣を斜めに振っただけだった。

蒼州の身体は、悲鳴すらあげる間もなく地に沈んだ。


その直後、烈馬は膝をついた。

胸に手を当て、ぽつりとつぶやいた。


「……やった……ぞ……将軍……」


そのまま、風が吹いた。

砂が舞い、視界が霞んだとき──烈馬の姿はもうなかった。


海惇のもとに、その知らせが届いたのは、日が沈んでからだった。

烈馬の遺骸を抱えて戻ったのは、かつての部下のひとりだった。

血まみれで、目を腫らしながら、その青年はこう言った。


「烈馬様は……最後まで、死んでなど……いなかったんです……」


そして、言葉を失い、泣き崩れた。


海惇は、彼の身体を抱きしめた。

静かに目を閉じて、もう一度、あの言葉を口にした。


「……おかえり、烈馬」



魁迅は、将の横でただ無言で立ち尽くしていた。筆は持っていたが、動かなかった。いや、動かせなかった。言葉にすれば消えてしまいそうなものが、そこにはあった。


海惇は、烈馬の身体を自らの腕に抱えながら、ふと空を仰いだ。空は、何も語らなかった。ただ、どこか遠くで鳥が鳴いた気がした。いや、それすら幻だったのかもしれない。


そこへ、戦の終わりを告げる太鼓が、ようやく打たれた。誰もがその音を聞き、ああ、本当に終わったのだと理解した。だが海惇は、それを一度も振り返らなかった。ただ、腕の中の烈馬の額にそっと手を置き、血をぬぐった。


「これからだ」


その声は小さかった。けれど、近くにいた兵たちは皆、身を強張らせた。あの声を聞いた者たちは皆、知っていた。海惇が“これから”と口にしたとき、それはただの予告ではない。誓いに等しい。


「これから、俺は全てを終わらせる」


魁迅が、ゆっくりと筆を動かし始めた。滲む涙で文字が歪むのを止める術はなかったが、それでも書き続けた。彼は“記す者”だった。生き残ると誓ったあの夜から、彼はこのすべてを刻む者として生きると決めていた。


「烈馬、刀颯……お前たちは、俺の剣と盾だった。だがこれからは、お前たちの意思が、俺の剣となる」


海惇は立ち上がった。烈馬の遺骸は、そっと地に横たえられ、近くにいた兵たちが整えていく。彼らの手つきは、まるで自分の家族を送るかのように慎重で、丁寧だった。



その瞬間だった。


「海惇将軍! 残党の一部がこちらに向かってきています!」


駆けてきた若き伝令が、汗と血にまみれながら告げた。彼の顔には恐れが刻まれていたが、決して逃げはしなかった。その背に、烈馬や刀颯の影を感じていたからかもしれない。


「来るか」


海惇は、ゆっくりと振り返った。


そこにいたのは、かつて刀颯を討った張飛の副将──鉄箭(てっせん)と呼ばれた男だった。無口で知られ、剣技よりも冷酷な指揮で恐れられた存在。彼は、張飛の死を目の前で見ていたという。


鉄箭は、ただ一人で歩いていた。背には黒鉄の大剣。鎧はひしゃげ、片目は潰れていた。それでも、彼の目は燃えていた。復讐の炎に。


「海惇……俺が討つ……!」


彼の声は震えていた。怒りで、悔しさで、そして絶望で。刀颯に討たれた将の仇として、今この場に立ったのだ。周囲の兵はまた、あのときのように剣を交える長き闘いが始まると思った。


だが──


海惇は、一歩、前に出た。


「──来い」


その言葉の瞬間、空気が揺れた。鼓膜が震え、兵たちの耳に“音”ではなく“圧”が走った。鉄箭が叫びながら突進する。剣が振り上げられ、地面を割る勢いで振り下ろされた。


次の瞬間──


鉄箭の身体が、空を舞った。


海惇は、右手を伸ばしたまま、動かなかった。その拳は、まだ空を掴んでいるようだった。


鉄箭の身体が地に叩きつけられ、沈黙した。誰も、何が起きたのか理解できなかった。


「……終わった」


それだけを呟き、海惇は振り返った。



刹那、空気がざわめいた。

遠くにあったはずの敵の残党──その中心に、ひときわ禍々しい気配を放つ男がいた。


男の名は、紀霜きそう

張飛の側近として幾多の戦を生き抜き、烈馬を討った張本人。

彼は、刀颯の奮戦にもかかわらず生き延び、今や怒りと復讐の念だけを支えにしてこちらへ歩いてきた。


「海惇……ッ!」


嗄れた声が地を揺らす。

片腕は折れ、兜は割れ、顔の半分は焼けただれていた。

それでも、彼の両目だけは鋭く、凍てつく刃のように光っていた。


「貴様が全てを壊した……! 烈馬を……張飛様を……この俺のすべてを!」


魁迅が前へ出ようとした。だが海惇が右手を軽く挙げて制した。


「来るな。……これは、俺の声の届く距離だ」


紀霜は吼えるように叫びながら駆けた。

口から血を吐き、息も絶え絶えになりながら、剣を振り上げ、残った力のすべてを注いで襲いかかってきた。


その勢いに、周囲の兵すら動けなかった。

風が止まり、空が一瞬、色を失ったかのような錯覚に陥った。


だが、海惇は一歩も動かなかった。


紀霜の剣が振り下ろされる──その刹那、海惇がわずかに口を開いた。


「静まれ」


たったその一言。

声を張ることもなく、怒りも、力も込めない、低く短いひとこと。


だが、それは稲妻のようだった。

音ではなく、“命令”だった。

声が空気を突き破り、紀霜の動きが止まった。


まるで、時が止まったかのように、紀霜の身体が一瞬で固まった。


そして、海惇の剣が抜かれた。


音はなかった。

ただ、鞘から刃が滑り出す際の微かな金属音だけが、耳元を刺した。


次の瞬間、紀霜の首が、宙を舞っていた。


斬られたことにすら気づく間もなく、身体は前へ一歩進み、そして崩れた。

その目は、未だに憎悪に染まっていたが、すでに命の火は絶えていた。


誰も、息を呑む音すら立てなかった。

あまりにも、呆気なく──まるで儀式のように、静かで完璧な“処理”だった。


海惇は剣を振り払うこともせず、そのまま背を向けた。

地に倒れた紀霜の遺骸に、目を向けることはなかった。



彼にとって、今必要なのは“戦うこと”ではない。

“連れて帰ること”だった。


烈馬と刀颯を。

海惇のもとで命を燃やし尽くした、最も信頼した部下たちを。


その背に、魁迅がそっと追いつく。

まだ言葉はなかった。


けれど、風だけは再び吹いていた。

それは血の臭いを運ばず、剣の金属音も伴わなかった。


ただ、静かに、丘を越えて吹き抜けていた。


──海惇の声を、もう一度、誰かが思い出すように。


烈馬の亡骸は、斬られた傷口すら整っていた。

地に伏したままの姿は、まるで眠っているようで、体から流れた血も、もはや乾ききっていた。

刀颯はそのすぐ傍に、仰向けに倒れていた。握っていた剣は手から離れず、指の関節が白く浮き出ていた。


海惇は、ふたりの間に膝をついた。


手を伸ばして、それぞれの胸に当てる。鼓動はない。温度もすでに消えかけていた。

魁迅が口を開きかけたそのとき、海惇が唐突に拳を握った。

そして、力任せに──烈馬の胸に打ち下ろした。


「おいッ……!」


魁迅が反射的に声を上げた。


だが、海惇は止まらなかった。次に刀颯の胸にも同じく拳を振るう。

音が鳴った。骨のきしむような、肉を叩く鈍い音。

そしてもう一度。今度は烈馬へ。


魁迅は目を見開いたまま、止めることもできなかった。

だが次の瞬間──


烈馬の身体が、びくりと震えた。

微かな咳。胸がわずかに上下し、喉から空気を求める音が漏れた。


「……か……将軍……」


それは、今にも消え入りそうな囁きだった。

海惇は目を細め、しかし口を開かず、烈馬の肩をそっと押さえた。


生きていた。


次に、刀颯が唇を震わせた。目は閉じたままだが、吐息がわずかに漏れ、指がぴくりと動いた。


「……っ、将軍……俺……また……行ける……」


その声には、意識はなかった。

だが確かに、生きていた。


魁迅は震えた声で呟いた。


「生きて……いる……本当に……」


安堵と驚愕が入り混じったまま、彼は膝を折った。

海惇は何も言わなかった。ただ、烈馬の背を押し、刀颯の手を握りしめた。



しかし、その瞬間、異変が起きた。


刀颯の目がかっと開いた。

だが、焦点が合っていない。視線は空を見ておらず、何も見ていなかった。


「俺は……張飛を……」


そう呟きながら、彼は立ち上がろうとした。

海惇が押さえようとするも、力が強すぎた。


「俺は……張飛を、殺す……将軍、命を……」


「……刀颯、落ち着け」

海惇が初めて、低く、明確な言葉を発した。


だがその声にも、刀颯は反応しなかった。

彼の精神は、すでに死の瞬間に囚われていた。

戦場に心だけが取り残されたのだ。


海惇は、その瞳をしばらく見つめた。

やがて、ゆっくりと口を開いた。


「そうだ。お前には、まだ任せたいことがある」


刀颯が立ち上がる。

血まみれの身体を引きずるように、剣を握る。

海惇はその背中に、嘘を込めて言った。


「張飛は、まだ生きている。今すぐ──殺してこい」


刀颯が頷いた。

それだけを確認し、走り出した。


魁迅が叫びかける。


「待て! そいつはもう……!」


「行かせろ」


海惇が短く遮った。


「……あいつは、この戦場の外に出たら死ぬ。だから、あの中で死なせる。戦場で、命を終わらせてやる」


魁迅は絶句した。


海惇の目は、どこまでも冷たく、優しかった。

それは、“慈悲”という名の嘘だった。



刀颯の背が、霧の中へ消えていった。


やがてその先で、新たな戦いが始まった──

一人の亡霊が、百の敵を切り裂き、千の兵に恐怖を刻む。


彼が駆け出してからわずか数十息。

戦場に新たな風が吹いた。


それは──死の匂いを孕んだ風だった。


刀颯の姿はまるで幻のようだった。

一歩ごとに血が零れ、二歩ごとに裂け目が広がる。

だが、彼の歩みは止まらない。止められなかった。

もはや彼は生きている者ではなかった。


敵陣の残兵が彼の姿を見つけたとき、最初に走ったのは驚愕ではなく、後退だった。


「奴は死んだはずでは──!」

「見ろ、あの目……魂が、抜けてる!」

「声を……声を上げるな! 聞かれるぞ!」


だが刀颯は、何も言わない。

叫ばず、吠えず、ただ歩く。

その足取りが、まるで音を持たぬ打楽器のように、敵の心臓を打ち鳴らす。


一人、槍兵が突進した。

刀颯は剣を上げた。

瞬間、その首が宙に浮いた。


二人、斬りかかった。

刀颯は構えず、ただ歩を緩めた。

次の瞬間、彼らの腹が裂けていた。


三人、叫びながら包囲した。

その叫びが届く前に、喉が裂かれた。

誰も、彼がどう動いたかを見ていなかった。


彼はただ、刃を引き摺っていた。

死者が振るう一振りの“魂”だった。



次第に、周囲の兵が彼に道を譲り始めた。

斬られる前に、恐怖が彼らの足を縫い留めたのだ。

数十人、百人──誰も刀颯の前に立てなかった。


それでも、一人の将が立ちはだかった。


「俺がやる!」


その男の名は、公孫覇(こうそんは)

呂布配下の猛将であり、若き頃より百戦を越えたと謳われた者だった。


「貴様……俺の兄弟を斬ったのか……いや、貴様は、死人なのか……?」


刀颯は何も返さない。

ただ、一歩踏み出した。


「そうか……それでもいい。斬る!」


斬り合いは、一合目から重かった。

公孫覇の剣は雷のように鋭く、重く、怒りを孕んでいた。


だが、刀颯はそれを受け止めた。

肩が裂け、脇腹から骨が見えても、斬り返した。


互いの剣が三十合交わる。

そのたびに、地が震え、周囲の兵が声を失った。


「どうしてだッ!」

公孫覇が叫んだ。

「どうして死なない! なぜ、立っていられるッ!」


答えはなかった。


代わりに、刀颯が口を開いた。

その声は、かすれていた。喉は焼け、唇は切れていた。

それでも──届いた。


「俺は、死んだまま、斬るために、生きてる……」



最後の踏み込みだった。


その一撃が、公孫覇の胸を裂いた。

同時に、刀颯の腹を、覇の剣が貫いた。


──刹那の沈黙。


公孫覇の剣が先に、地に落ちた。

膝をつき、叫びもせずに倒れた。


刀颯はその場に、なおも立っていた。

血が口から溢れ、喉から漏れる音は、風にかき消されていた。


そして──彼は空を見た。


空には、音がなかった。


ただ、風だけが吹いていた。


「将軍……」


その名を、最後に一度だけ呟き──


刀颯は、崩れるように地に伏した。


その瞬間、戦場に残った敵兵のほとんどが剣を落とし、撤退を始めた。


「鬼だ……」

「もう、戦えん……」

「呂布将軍も、張飛も、みな……」

「声が、まだ残ってる……風の中に……」


それが、刀颯の最期だった。

だが、彼の声は残った。

誰もが、それを“聴いた”。


風の中に、死者の咆哮が混じっていた。



海惇のもとへ、魁迅が走って戻ってきた。

その背には、血まみれの刀颯の亡骸が背負われていた。

だが、その顔は、不思議と穏やかだった。

死者にあるまじきほど、静かで、清廉な表情だった。


「将軍……」


魁迅が、掠れた声で呼んだ。

海惇は振り返る。

彼の瞳が、焼けた空を裂くように、鋭く細められた。


その目が、魁迅の背を見た。

そして──その血まみれの身体に手を伸ばした。


「おれは……見たよ、将軍」


魁迅が言った。

「刀颯が、斬った。呂布の名を継いだ男どもを、全部……倒した」


「……見てたのか」


「ええ。でも……」


魁迅の声が震える。

「……もう、どうにもできなかった。あいつは……もう、“戻れない”ところに、行ってた」


海惇は、頷いた。

そして、刀颯の身体をそっと降ろし、膝をつく。

胸に手を当てた。鼓動はない。

だが──海惇は拳を握った。


次の瞬間、その拳を、刀颯の胸に叩きつけた。


どす、と鈍い音が鳴った。


「戻ってこい」


それは、言葉ではなかった。

音ではない、魂の鼓動だった。


すると──刹那、刀颯の喉がひくりと動いた。

肺が、空気をひと吸いした。


魁迅が叫んだ。

「息を──吸った……!」



だが──刀颯の目は開かない。

顔は微動だにせず、身体もぴくりとすら動かない。


「まだだ」


海惇が、もう一度殴る。

今度は、拳に血がにじむ。


三度目で、ようやく──


刀颯の目が、かすかに開いた。

だが、その目は焦点が合っていなかった。


「……張……飛……」


その名を口にした。

彼の中では、まだ戦いが終わっていなかった。


魁迅がそれを見て、震えた。

「ダメだ……刀颯の心が、“そこ”から戻ってない……!」


「ならば」


海惇は立ち上がった。

刀颯の耳元で、低く語りかけた。


「仇はまだ、生きている。呂布の最後の影、貴様が討ってこい」


それは──真実ではなかった。

だが、刀颯の目が、その瞬間だけ“今”に戻った。


「……了解……しました……将軍……」


ぼそりと、彼は言った。

そして、自ら立ち上がった。

瀕死の体を、まるで引き摺るようにして、戦場へと向かっていった。


その背を、魁迅が叫びそうになって止めた。

海惇が、手で制した。


「……もう、あいつの魂は、刃になった」


魁迅は、唇を噛んだ。

「でも、あいつは……死にます」


「知ってる」


海惇の声は、鉄のように硬かった。

「だから行かせた」



──

刀颯は、ひとりで敵陣に突っ込んだ。

残っていた敵兵が叫びを上げて集まる。

その中に、名のある武将が五人いた。


華雄、高順、魏続、成廉、そして最後に──

張遼(ちょうりょう)


呂布に仕えていた五人の中でも、最後まで戦った猛将たち。

それぞれが百人力の働きをし、数多の名を葬った武人だった。


だが──刀颯は、止まらなかった。


まず、華雄の首が落ちた。

斬られた瞬間、敵味方問わず声を失った。


続いて、高順が、剣を突き刺されたまま、動かなくなった。

魏続は、斬られながらも剣を振るい、逆に自らの命を刈り取られた。


成廉は、必死の防御の末、目を斬られ、錯乱して自刃。

そして、張遼。


張遼は、最期の一人として刀颯の前に立った。


「貴様……何者だ」


その問いに、刀颯は答えなかった。

ただ、風の中に立ち、己の名を声に出すことすらなく──


──次の瞬間、張遼の胸が割れていた。


誰もが、その早さを“見ていなかった”。


それが、刀颯の最後の戦いだった。



刀颯はその場に立ち尽くしていた。

剣は下ろされ、血に濡れた刃は微かに光を反射していた。

張遼の身体が地に崩れ落ちる音さえ、風に紛れてかき消された。


敵兵たちは、もう誰も動けなかった。

一歩踏み出す者も、剣を抜く者もいない。

全員が、ただその場に立ちすくんでいた。

まるで、そこがすでに“死の領域”となったかのように。


刀颯の足元に、血の海が広がっていく。

だが彼は、もうそれを感じていなかった。

立ち尽くしたまま、胸を上下させることも忘れているように──ただ、そこに在った。


やがて、風が吹いた。

それは静かで、どこまでも透明な風だった。

戦場の血の臭いすら拭い去るような、奇妙な澄んだ風だった。


刀颯が、ほんの少しだけ顔を上げた。

彼の瞳は、空を見ていた。

焼けるように赤く、遠く、どこまでも届きそうな空を。


「……将軍……」


その唇が、最後にもう一度だけ動いた。

そして、膝を折るように崩れ落ちた。

そのまま、二度と動くことはなかった。


──海惇は、その瞬間を遠くから見ていた。

魁迅の肩を支えに、戦場の丘の上から、最後の部下の姿を見届けていた。


彼の胸が、微かに震えた。


「……終わったな」


その声は、小さく、風に流されるほどのものだった。

だが、確かに“戦”の終わりを告げる響きだった。


魁迅が、ただ黙って頷いた。


丘の下では、敵兵たちが一人、また一人と剣を捨てていった。

誰も、これ以上戦おうとはしなかった。

もはや、戦う理由が消えていた。


“声の将”と呼ばれた男と、彼の“剣”たちが作り出した伝説は、

この瞬間をもって、ひとつの終焉を迎えた。


──

そして、その伝説は語り継がれる。

声で軍を動かし、魂を揺るがし、敵すら跪かせた将──海惇。

彼のもとで命を燃やした三人の部下。

怒りの烈馬、記録の魁迅、そして剣の刀颯。


その名はやがて、人々の口の端に乗り、文字となり、物語となった。


だが、それはほんの序章にすぎない。


なぜなら、この物語の先に──まだ語られぬ、“真実”がある。


──完

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