2 一條竣介の日常は人には言えないストレスに満ちている
一條竣介は、とあるメーカーの工場で人事として勤務する傍ら、休日は民間の団体で心理カウンセラーとして働いていた。繁忙期でもない月半ばの工場は18時で既に半分以上が退社しており、竣介も残っている社員にお疲れ様ですと挨拶をしながら、早々に帰路についた。自分にほんのり纏わり付く視線を感じながら工場を後にし、車の運転席に座るとホッと息をつき、ペットボトルの水を口に含んだ。車は奮発して最近買った、アウディの白いコンパクトSUVだ。いつも通りラジオをつけ、通りかかった別の課の知り合いに会釈しながら駐車場を出て家へと向かう。
車の中では、一人だ。一人は、安心する。昔から顔は褒められた。身長は普通、体型も28歳という年齢で多少気にしていればこんなもんか、というレベルだが、痩せ型で肩幅もあり悪くはない。学生時代は陸上で走り高跳びをしていたのでもっと筋肉質で絞り込まれていたが、社会人6年目の車生活で同じ状態を維持できる訳がない。
うるさい姉の指導でいつも小綺麗にしていたせいか、持って生まれた顔のせいか、学生時代はまあまあ異性にモテた。そして社会人になって有名メーカーに入り、人事で学生や女性社員、パートのおばちゃんなど工場の中で女性率が高い部署に本社から配属になると、更にモテた。自意識過剰なのは自覚している。しかし、いつも自分の一挙手一投足が注目されているようで、妙なプレッシャーを感じる。髪を切る、車を買う、誰かと話す、どこかを見る、何かするとすぐにあることないこと噂になった。自分のした事が妙に持ち上げられ、妙に貶される。何も考えずにしたことが、全く本人の意に添わない意図に解釈される。いつでも人の輪の中心にいたが、何となく人間関係がうまくいかない。妙に馴れ馴れしい人、妙に突っかかってくる人、自分がくるとピリつく場、誰かの肩を持ったと解釈されると面倒事がふってくるので、発言も慎重にならざるを得ないので無口になった。プライバシーも侵害され、電話やSNSに教えていない人から連絡がくるのは日常で、買い物をしていると偶然会う、誰かがあとをつけてくる、物を盗られる、逆に贈り物を入れられる、ひどい時には自分の出したゴミをあさった形跡があった。気持ち悪いし気が休まらないが、男の自分が身の危険を感じるとまでは言えないので、警察に相談が出来なかった。自分の願いはいつも、普通になりたい、まわりにも普通に接して欲しい、だった。
そんなこんなでずっと澱のように心に蓄積するストレスを感じていたが、まさか芸能人でもないのにモテすぎてストレスがたまるなんて、どんなに薄めても自慢もしくは自意識過剰の勘違いヤローととられそうな相談を、迂闊に周囲にもらすことはできない。正確には何度かもらしてしまったが、その後の自身の羞恥と後悔が激しい上にまた変な噂が増えるので、かえって疲れた。よって守秘義務がある専門家を頼り、心理カウンセラーに話を聞いてもらっているうち、心理学に興味が出て自分も勉強し、数年かけて心理カウンセラーになった。
そして気付いた。カウンセリング技術を身に着けるということはクライアントの話を聴いて心を受け止める術を身に着けるということなので、顔が見えなくても話をするだけで擬似的な関係ではあるもののエグいほど好かれる。心理カウンセラーとしての好感は、集客とクライアントの癒やしに繋がった。先生と話せて良かった、先生と話すと元気が出る、と言われて、生まれて初めて無駄にモテて良かったと思った。
そしてダブルワークのお陰で懐が潤ってきて、カウンセラーとしても少しずつやりがいを感じはじめ、工場にも慣れてきて、気持ちが上を向き始めた今日……。帰路の運転中に猛烈な背中の痛みを感じて失神し、カーブした山道のガードレールをノーブレーキで突っ切って、命を落とすこととなった。
☆☆☆
猛烈な寒気を感じてマリアは目を開けた。
息を吸い込むと喉がカラカラで、寒さで身体の震えが止まらない。
薄い青色の術着以外は何も身に着けておらず、口はプラスチックの覆いが被さっていた。手を動かそうとして、何か管が繋がっているのに気付いた。
「マリアさん、目が開きました」
バタバタと複数の足音が聞こえ、自分を覗き込む知らない人達の顔。いろいろ触られ、確認をされ、寝たままどこかへ運ばれ、ベッドに移された。
……病院だ。だんだん身体が温かくなってきて震えが止まり、そう思った。顔を動かし身体を起こそうとしたが、力が入らず起き上がれなかった。
「マリアさん、聞こえますか?マリアさん!マリアさん?」
マリアって、誰だろう。目を開くと明らかに日本ではない顔立ちの人達が自分に話しかけているようなので、パチパチと目を合わせ、聞こえていることを示す。声は掠れて出ない。でも充分に伝わっているようだ。
「良かった。マリアさん、意識が戻られたようです」
そして数時間後、身体が少しずつ動くようになり、鏡や持ち物、周囲の様子、何より自身の記憶を探って、気付く。
――あ、これ、有名な例のアレだわ。