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第四話

第四話です。よろしくお願いします。

果歩(6)


 午後も二時を回ると混雑のピークがひいて、フリーマーケットの会場にはゆるい空気が流れはじめていた。

「お腹へったなー」

 ついさっきおにぎりを食べていたはずの緑だけど、あまりに自然な口調だったので、そうか、お腹へったのか、けっこう激務だったしな、と妙に納得してしまった。

 一応の昼食を済ませ、客足もひき、再び食欲が湧いてくるという事実は、否が応にも私に時間の経過を実感させた。

 今日という特別な日が刻一刻と終わっていく。それに反比例するように、私の緊張感は増し、頭がどんどん働かなくなってくる。

「……果歩。どうかした?」

 緑が心配そうに私の顔を覗いてきたので、慌てて、大丈夫、と立ち上がり、ジーンズについた草を払った。

「そう? さっきから時計みたり、そわそわしてるけど。もしかして今日、他に用事とかあった?」

「なにもないよ。緑みてたら私もお腹すいたなーって思っただけ」

 そう答えると、緑はニヤッとして

「じゃあさ、なにかおいしいもの食べに行かない? たとえば、高校の頃よく行った――」

「お好み焼きの玉吉!」

 声が揃って、私たちは互いを指で差し合って笑った。

「そうと決まったら撤収!」

「え、もう?」

 緑が売り物の衣類をハンガーからはずして丸め始めたので、私も釣られるように台座から絵本を拾って、リュックの口を広げる。

 売れ残った絵本。買い手がついていたら、私はどうしたのだろう。

 もちろん売っていた、と自分に言い聞かせるようにして、リュックの中に沈めようとしたとき、緑が不審な声を上げた。

「あれ? あの子、さっきの……」

 緑の視線を追うと、園内の隅を彩菜ちゃんがきょろきょろしながら歩き回っている。落とし物でもしたのだろうか。

「彩菜ちゃん!」

 緑が大音量で叫ぶと、彩菜ちゃんも、お姉ちゃん! と甲高い声で答えて、こっちに向かって走ってきた。緑が受け止めるように

「どうしたの?」

「ママが……ママが……」

「はぐれたの?」

 私が訊くと、彩菜ちゃんは歯を食いしばって頷く。

「トイレ行って、戻ってきたら」

 私と緑は顔を見合わせた。

「どこのトイレ?」

 緑の質問に、彩菜ちゃんは目を擦る指をとめて、あっち、と来た道の逆を指した。

「緑、私、彩菜ちゃんとちょっと見てくる」

「うん、私は反対側に。なんかあったら連絡して!」

私は絵本を入れたリュックを背負い、彩菜ちゃんの手を取って走りだした。



砂原(6)


 自宅に到着すると、俺は美羽ちゃんをリビングのソファーに座らせて、そのままキッチンに入った。冷凍庫に溶けかけたアイスをしまい、そそくさと料理にとりかかる。時間はあまりなかった。

 買ってきたばかりのほうれん草とカニカマをまな板にのせ、包丁でみじん切りにしていく。

「砂原ってここに一人で住んでるの?」

 リビングで頭を回転させながら、美羽ちゃんは不思議そうな声を出す。俺は包丁の動きをとめたくなかったので、なにか変? と簡潔に訊き返した。

「間取りは広いけど、その割に生活感が薄いっていうか」

「最初は二人で暮らすつもりだったから」

 答えながら掛けてあるフライパンに手を伸ばす。

「二人って、女の人?」

「そうだね」

「最初はって、今は違うの?」

「残念ながら」

 こつん、と卵をまな板の角にぶつける。うまい具合に割れてくれた中身をボールに移し、箸でシャカシャカとかき混ぜる。

「別れたの?」

「そんなところ」

「そんなところって、正確には違うってことだよね?」

 俺はなんだか可笑しくなって、卵を溶く腕から力が抜けてきた。

「なに」

「いや、美羽ちゃんもそういう話、興味あるんだなって」

「え……変かな?」

 頬を赤らめる彼女を見て、俺は余計に可笑しくなった。ここにいるのは、たとえどんな事情を抱えていようと、ごくごく普通の十八歳の女の子でしかない。その再認識が、俺の気持ちを緩ませた。

「変じゃない。普通だよ」

「じゃあ教えて。そんなところって、どんなところ?」

「そうだな」

 フライパンに油を敷きつつ、どう答えるか考えながら、溶いた卵をゆっくりと流す。

「別れる、の定義次第かな」

「定義? よくわかんないけど」

「つまり……」

 曖昧に濁して時間を確保する。卵の上にほうれん草とカニカマを散らして待つこと四十秒。表面が茶色づくのを確認したところで、素早く丸め始める。じっと俺の返答を待つ美羽ちゃんに

「ねえ、ちょっと巻きす取って」

「巻きす?」

「こっちの後ろの棚。形を整えるから」

 キッチンに足を入れ、俺の後ろを通りざまに、美羽ちゃんはフライパンの中を覗いた。

「卵焼き?」

「カニカマとほうれん草入りのだし巻き卵」

「へぇ。やっぱり料理うまいんだね」

「まともに作れるのはこれだけだよ。前に練習したしね」

「じゃあ、それが砂原にとっての目標の味?」

「目標というより……約束かな」

「約束?」

「そう。最初で最後の約束の味」

 焼けた卵をラップで包み、美羽ちゃんから受け取った巻きすに巻いてゴムで縛り付ける。このまま十分は置きたいところだ。

 そこで俺は、出かける準備を先に済ますことにした。美羽ちゃんには皿を出しておくように頼んで、キッチンを後にする。

 寝室に入ると、広すぎるベッドの脇に跪き、ベッド下の収納から水色の封筒を取り出した。カーテンの隙間からわずかに漏れてくる陽の明かりがそれを照らす。表には《果歩へ》と書かれている。

 それを持ったまま、しばし思考のとまった俺を、皿の擦れるような音が呼び覚ました。俺は封筒をバッグに突っ込んで寝室を後にする。

 キッチンに戻り、卵焼きから巻きすを外すと、本体にはしっかりと段々の巻き跡がついていた。色艶もよく、及第点はもらえる出来だ。

 美羽ちゃんが息を潜めて見守る中、俺は卵焼きに包丁の刃先をつける。すっと切れ目が入った瞬間、温かで甘い匂いが鼻をかすめた。美羽ちゃんの小さな歓声に胸をなでおろすと、卵焼きを六つに均等に切り分け、そのうち三つを皿に載せる。

「これ、美羽ちゃんの分」

「え、いいの?」

「こっちは半分あれば十分だから」

 残りの三つをアルミホイルで包んで、形を崩さないようにタッパーに詰める。

「ご飯も炊いてあるから。後は勝手に食べて」

「砂原は?」

「ちょっと出てくる。けど遅くならないうちに戻るよ。食べ終わったら適当にテレビでも」

「その卵焼きを届けに行くの?」

 キョトンとして訊いてくる美羽ちゃんに

「届けなきゃいけないのはもう一つあるんだけど」

 そう、と彼女は下を向くと、箸で卵焼きを一切れ拾って口に運んだ。

「とってもおいしい……」

 パッと顔が晴れた。素直で飾り気のない笑顔。

 ――同じ顔をして同じことを言った女性を、俺はもう一人、知っている。


 四年前、駅前の居酒屋で、俺は婚約者だったすみれと飲んでいた。どこにでもあるようなしなびた居酒屋で、やはりどこにでもあるような卵焼きを、彼女は齧った。すると、意表を突かれたように、とってもおいしい、と感嘆の声を上げた。

「なにその驚き。ただの卵焼きだろ」

「ただのじゃないの。カニカマとほうれん草が絶妙で……」

「それだって普通だよ。すみれはなんにでも大げさ過ぎる」

 あしらうような口調が気に障ったのか、彼女は語気を強めて、だったら食べてみて、と睨みを利かせた。

 そこからはよほどの自信が窺えた。本当にただの卵焼きではないのかもしれない。だとしても、素直に認めるのは癪だったので、俺は事前に拒否した。

「食べません。俺はこっちのイカ焼きを――」

 箸を伸ばすより早く、すみれが卵焼きを俺の口元に運んできた。この上なく挑発的な笑みで。今度は食べないのが負けなような気がして、いかにも嫌そうな顔をしてやってから口に含んだ。

 次の瞬間、俺はすみれが観察していることも忘れ、うまい、と呟いてしまった。

「でしょ?」

「確かにただもんじゃないな」

「だから言ったのに」

 すみれは勝ち誇るようにもう一口食べた。

「でも、このくらいだったら俺でも作れるかな」

「なにそれ。今度は負け惜しみですか?」

「失礼な。負けたかどうかはこっちが作ったのを食べてから言ってほしいね」

「じゃあ約束。新居に移ったら早速作ってもらうから」

 しまった、と、俺は虚勢を張ったことをすぐに後悔した。もしかするとこの勝負が今度の二人の結婚生活を左右するかもしれない。どう考えても敗色濃厚だった。それでも――

「吠え面かくなよ。うますぎて」

 彼女は、あり得ない、と苦しそうに笑った。

 その時の彼女の横顔は、少なくとも俺の目には幸せそうに映った。

 腰のあたりまで伸びた長くて黒い髪が、彼女の体全体を包装紙のように包み込んでいる。その髪に指を通せることが、俺の幸せのすべてでもあった。

 結局、卵焼きの勝負は決着をみなかった。


 靴を履いてドアノブに手をかけると、玄関マットにのっかっている美羽ちゃんが遠慮気味に口を開いた。

「あのさ」

 俺は肩越しに振り向く。

「さっきの卵焼き。もしかして、私にも目標の味を持たせようと思って、食べさせてくれた?」

「いや。全然考えてなかったけど」

「でも、とても温かくて、食べたらホッとした」

「無理に目標にする必要なんてない。けど、あれでよかったら、今度作り方教えるよ」

 彼女ははにかむように、覚えたい、と言ってくれた。

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