第三話
第三話です。よろしくお願いします。
果歩(5)
少女は私と目が合うと、きっと唇を結び、こちらに向かって歩きだした。小学校の低学年くらいだろうか。自然なミディアムヘアの可愛いらしさとは裏腹に、体全体からは強いオーラが放たれている。
なにごとだろう、と思ったけど、少女を警戒してもしょうがない。目の前に到着して私を見上げる彼女に、笑みを交えて、なに? と訊いてみた。
彼女はじっと私の瞳を見返すだけで、なにも答えない。次に名前を尋ねると、小さく、彩菜、と名乗った。今度は理由を、と思った矢先、少女は私の脇にある木製の台座を指した。
そこには売り物の絵本が載せられている。
「……これ、欲しいの?」
彩菜ちゃんは黙って頷く。
「一応、売り物なんだけど」
「いくら?」
少女相手に気が引けたが、諦めてくれると期待して『10000』の値札を弾く。
「わかる?」
「わかる」
彼女はそう言うと、首にかかっているキッズ用の財布を開き、五百円玉を取り出して私に差し出した。
「ごめん、わかってないみたい」
それでも屈託なく微笑む彼女に
「可愛く笑ってもダメ」
「今日はこれだけだって、ママが」
「だったら貯めてから来てね」
彼女は呆然とした顔つきから、突如、ひっく、ひっく、と始めた。
「ちょ、ちょっと!」
勘弁してよ! と災難に巻き込まれた気分で彩菜ちゃんをなだめていると、缶ジュースを持った緑が飛び込んできた。
「今日暑いねー。お姉ちゃんと冷たいオレンジジュース飲もっか?」
プシュッとプルタブを開く快音に、彩菜ちゃんが素早く反応した。緑からジュースを受け取ると、煌めく宝石さながらに目を輝かせ、喉を鳴らし始める。
私は彼女に背を向けて、深い安堵のため息をついた。
「なにやってんのよ。売る気もないのに置いとくからよ」
「売る気はあるの。でも五百円じゃね。なんにでも適正価格ってのがあるから」
「へー、だったら私が買ってあげようか。ゼロひとつ付けてもいいよ。今日儲かっちゃったし」
私は衝撃を飲み込んで
「いや、でもほら、緑が持ってても意味ないよ、こんなの」
とっさにごまかしたが、私なんかよりよっぽど頭の回転が速い緑はすぐに切り返してくる。
「意味なんて買った人の勝手でしょ?」
まごつく私をよそに、緑は彩菜ちゃんに話しかける。
「ね、どうしてこの絵本、欲しいの?」
彩菜ちゃんは遠慮がちに、ウサギさん、と答えた。
「あぁ、ウサギさんね。これ、かわいいもんね。そうだ、このお姉ちゃんね、ウサギさんの絵、描くのうまいんだよ。新しいの描いてもらおっか」
「ウサギさん、描けるの?」
「ちょっと!」
勝手に話を進める緑に、私は慌てて抗議の声を上げた。
「安いもんじゃない、それで絵本を諦めてくれるんだったら。どうせ百万円積まれても売る気ないんでしょ?」
グッと拳を握って緑の暴言に耐える私に、彩菜ちゃんは好奇と期待に満ちた瞳を差し向けてくる。それはキラキラしすぎていて、大人には直視できそうにない。
私は渋々ペンを取って、未使用の真っ白な値札にウサギの絵を描き始める。一瞬、どんなウサギにしようか迷ったが、彩菜ちゃんが気に入ったらしい絵本の表紙と同じウサギをチョイスした。へたに別のウサギを描いてダメ出しでもくらったら、それこそやってられない。
ササっとペンを走らせチャチャっと絵を完成させて、ぶっきら棒に彩菜ちゃんに手渡す。実際、このくらいは朝飯前だ。
彼女は飲み込んだ息をそのままに、じっと絵に見入っている。その表情からは、どうやら合格したらしいことを読み取れた。
「それあげるから、もう帰りな」
「お姉ちゃん、絵描きさんなの?」
「ただの趣味。あ、もう趣味でもないか」
「絵描きさん、なればいいのに」
「別になりたくないよ」
すげなく対応していると、案の定、緑が茶々を入れてきた。
「このお姉ちゃんね、絵本作家、目指してるんだよ」
「絵本作家?」
「だからもういいって」
「彩菜もなりたい! 絵本……」
「作家。こんな絵本を作る人のこと」
緑が煽るように絵本の表紙をヒラヒラさせる。
「彩菜も作る!」
私は醒めた目で
「勝手に作れば?」
「いっぱい作って……」
空想に浸り始めた彩菜ちゃんを横目に、どうすんのよ、と緑を肘でつつくと、どうもしないわよ、と緑は彩菜ちゃんに向き直った。
「彩菜ちゃん、だったよね。おうちの人はどこ? そろそろ心配してるんじゃないかな」
「ママはあっち」
「じゃ、行こっか。お姉ちゃんが送ってあげる」
「一人で平気」
「そう。じゃ、気をつけてね」
緑が腰を上げると、彩菜ちゃんは私の前に来て、ちょこんと頭を下げた。
「ウサギさん、ありがとうございました」
「た、ただの落書きだから。どうぞ」
その素直すぎる言葉に思わず顔を背けた。彩菜ちゃんはそんな大人げない私が描いたウサギの絵を胸に押し付け、母の元へと帰っていく。
「よかったじゃん。ただの落書き、喜んでくれて」
私は小さな痛みを覚えながら、遠ざかる彼女の背中をそっと見返した。
砂原(5)
スーパーを後にした俺と美羽ちゃんは、ついでに買った棒アイスを齧りながら、自宅マンションへの坂道を上っていく。スーパーの袋をかけている指が汗ばんできて、滑り落ちそうになるのを握り直す。
「アイスまでご馳走になっちゃった」
「おいしい?」
「うん。冷たくて気持ちいい」
「まだあるよ。箱で買ったから」
「うん」
今、美羽ちゃんが笑みをこぼしたのは事実だ。口元も僅かだけど綻んでいる。けれどそれは、明日からはまた雨の日が続くとわかっている梅雨の最中の晴れ間のような、一瞬の光に過ぎない。
「美羽ちゃん」
「ん?」
「お父さんにはバレないから。安心して」
「……でも、夜になったら、きっと私を探して……」
一瞬の安らぎを次の瞬間まで引き延ばす。言葉通りの気休め。他人にできることなんて、所詮、この程度なのかもしれない。偽善とさえ思える。
それでも俺は、彼女を救うためにできることをすると、心に決めている。それがどういう感情から湧き上がってきたのかは必ずしもクリアでないが、人と人とが繋がれるための最後の砦だという気がしていた。
「もし来たら、警察を呼ぼう。これまでのことをちゃんと話せば、きっと助けてくれる」
「警察はいや。誰にも話したくない……」
「少し時間が経って、美羽ちゃんが元気になったら、俺がお父さんに話をつける」
「悪いよ。そんなことまで砂原に――」
言い終わるのを待たないで、俺は美羽ちゃんを引き寄せた。逃げだそうとする温もりを閉じ込めるように。
「不幸だって回り物なんだ。一人が抱え続けなきゃいけないってもんじゃない。たまたま近くにいた誰かが、ちょっとくらい肩代わりしたっていいんだ」
俺の胸に額を当てながら、美羽ちゃんはしばらくしてからくぐもった声で
「ごめん。服、汚しちゃった」
彼女のアイスが俺のシャツにベタリと張り付いていた。
「汚れは洗えば落ちる。そしたらまた、明日も着れる」
腕の中で、美羽ちゃんが小さく頷く。
ふと、空を見上げると、陽が中天より傾き始めている。
さらに暑くなりそうだった。
「行こう」
美羽ちゃんを促すように坂道を急ぐ。
今日はまだ、やることがあるのだ。