第一話
今回、はじめて小説を書きました。
拙い作品なのは承知ですが、お読みいただけると幸いです。
青春ラブストーリーで、計24000字を1話4000字くらいで全6話の予定です。
推敲を残すのみなので、完結できます。
まだシステムもよくわかっていない状態なので、ご不便をおかけすることもあるかと思いますが、よろしくお願い致します。
果歩(1)
今日は勉強日和じゃないよ、と、窓から差し込む夏の日差しがそう告げている。梅雨が終わった割に室内が蒸しているのは、おそらく外の気温に比べてマンションの中の方が五度くらい高いからだろう。
机に片肘をつこうとして、基礎演習や私法概論といった意味不明なテキストが邪魔をする。短大の二年になってもまだ一般教養の科目が残っている危機的な状況だ。夏休み前の前期試験でもそれなりの点数を取っておかないと、卒業見込みにすらならない。就活なんて明後日の話だ。講義で配られたプリントの一節をノートに書き写そうとして、思わずモンクの《叫び》のイラストが出来上がってしまう始末。
「ダメだ……」
バタッと机に突っ伏してきつく目を閉じると、どんどん過ぎ去っていく時間に、そこはかとなく罪悪感が込み上げてくる。心を満たして、やがて溢れ出す。耐え切れなくなって薄く瞳を開くと、部屋の片隅にぼさっと立て掛けられている細長い掃除機が目に入った。
そう、いつだって時間は有効に使われるべきだ。
不安にそそのかされるように、豪快に音を立てて掃除機を稼働させる。ドアの下に到着すると、隣のリビングから両親の話し声が聞こえてきた。音を出したまま、耳をそばだてる。
「なにやってるのかしらねぇ」
苛立ちを感じさせる母の声に、掃除だろ、と父が面倒くさそうに答える。
「だからどうして今、掃除なんかしているのかしら」
「知るか。そんなこと気にして、ご祝儀袋忘れるなよ。なんたって今日は社長のお孫さんの結婚式なんだからな」
「わかってますよ。でもなんでよりによって今日なのかしらねぇ」
それはまぁ、わからなくもない。今日、七月四日は、私の姉の三回目の命日だからだ。普通はお墓参りでもするだろう。
「大安だからだろ」
父の言葉にも頷ける。姉の命日は世界を律するルールではない。実の父親でさえ勤め先の社長の孫の結婚式を優先させるくらいのちっぽけなイベントだ。
パタンパタン、とスリッパが床を叩く音が大きくなる。ほっとけよ、という父の声を無視して、母がこの部屋に向かってきているのだ。思わず私はバックステップして、反対側の窓際へと掃除機を引きずった。
砂原(1)
破れたページの修繕が終わり、顔を上げて一息ついた。掛け時計の針は午前十一時を指そうとしている。
図書館は日曜日も開いているが、やるべき仕事はいつもと変わらない。各部署に必要最低限の人員を配置し、休憩や食事は交代で回す。カウンター裏のこの事務室にも、電話番を兼ねて少なくとも一人は置かれる。それが今の俺だ。
遅いな、と思ってコーヒーカップに口をつけ、ドアに目を遣った。開かれる気配はない。それでも俺は、終業の合図とばかりにパソコンの電源を落とす。随分前から早退届を出してあるので、誰かが来たらすぐにでも退館するつもりだった。
酸味の強い液体を飲み干し、うつむき姿勢で痛めた首筋に指を当てて指圧のまねごとをしていると、きしむ音を立ててドアが開いた。
上司の高木さんが顔を出す。それを見た九割の人間は、施された艶やかな化粧を、この場には不釣り合いだと判断するに違いない。
「砂原君、今日は午前あがりだったよね」
「ええ、すみません」
「いいのよ。どうせだったら休んでもよかったのに。大切な日なんでしょ」
「いえ。もう終わったことですから」
誰にでも他人に踏み込まれたくない領域はある。だから多少意識してそっけなく答えた。
「けっこう冷たいんだ」
「ベタベタするのは苦手なんで」
「その割には捨て猫のお世話してるって噂だけど。しかも熱心に」
「捨て猫?」
挑発するような高木さんの言葉に、怪訝に訊き返す。
「毎日来てるじゃない。ロビーの隅っこに座って。閉館間際までポツンと」
客観的事象としては、案外、その通りかもしれない。俺は冷静にそう考えた。興味のない人間は事実をあげつらうことに躊躇がないものだから。そこで、猫というよりは鳥ですよ、羽の傷ついた、と、当事者なりの言い分を控えめに主張した。
「守ってあげたい、とか思ってる?」
「さぁ。でも愛情は感じてますね」
「同情じゃなくて?」
高木さんは手元の資料を整えながらすげなく言った。
「正確な違いはわかりませんけど」
「あの子、DVでも受けてるんじゃないのかな」
妥当かどうかに拘わらず、部外者の無責任な推測ほど癇に障るものはない。俺はパソコンの電源が切れたことを確認して、黙って席を立った。
果歩(2)
母は遠慮なしに私の部屋に入ってくると、どんどん私に詰め寄ってきた。苛立ちが彼女の足を速めているのがわかる。
「ちょっと。今日は試験勉強するんじゃなかったの?」
「掃除終わったら」
これは本当のことだから強気に言い切った。
「吉見台霊園、行ってきなさいよ。命日なんだから」
「勉強終わったら」
これは嘘のことだから、語尾が尻切れトンボになった。母は意に介す様子もなく、思ったことをずけずけ口に出してくる。
「去年の三回忌も出ないで。姉妹なのにって、親戚中びっくりしてたのよ?」
「その日は学校で大事な行事があったの」
「お腹痛いってここで寝てたじゃない」
本人が忘れたことまで憶えている母親に、内心辟易した。
「お父さんとお母さん、今日は行けないんだから。せめて妹のあんたくらい行ってらっしゃい」
それが正論なのは勿論わかっている。でなければ遊びに出かけるのに絶好の天候の中、後ろめたさから勉強など始めはしない。勉強は夜だってできる。
私は煩わしくなって、うるさい! と安っぽく反抗しかけたとき、玄関に向かう父が横から口を挟んだ。
「今日は行かせなくて正解だよ」
「でも、年に一度の……」
「きっとあいつも来る。こっちは日をずらして行けばいい」
「そういう問題じゃありませんよ」
やけになる母に、父は靴を履きながら続ける。
「一生守っていきますって、あいつ、そう言ったんだ。だから婚約も許してやった。違うか?」
「また蒸し返して。旅行中の不幸な事故ですよ」
「それで割り切れるのか? 母親だろ?」
母を黙らせると、父はドアノブに手をかけて
「出会わなきゃよかったんだよ。最初から」
その声にドアの閉まる窮屈そうな音が重なった。
父の台詞は、母だけでなく、私の心をも痛める。ドラマなんかではお馴染みだけど、そんな安っぽさで片付けられてしまうには、私たちには身近すぎて、真実すぎた。
リビングから漂ってくる線香の香りが一段と強くなった。所在なげにエプロンを握る母をどうしたものかと持て余していると、タイミングよく机の上のスマホが鳴りだした。私は石像みたいな母の背中をリビングへ押し返して、机に向かう。
電話をかけてきたのは緑だった。高校時代の親友で、高校卒業後は地方の国立大学へ進学していた。前期試験が早めに終わったので、夏休みの心づもりでこちらへ帰ってきたのだという。電話の目的は、桜木公園で開かれるフリーマーケットに一緒に参加しようというものだった。場所も押さえているとのこと。
「そうねぇ」
面倒だとも思ったが、線香くさいこの家にいるよりは、外に出て新鮮な空気でも吸った方がよっぽど健全に違いない。ちょうど部屋の掃除をしだしたせいで、フリーマーケットで売りに出す品々も見つけ易くなっている。
「じゃあ、駅前広場で待ち合わせね」
そう言って通話が切れた。
一度決まると気分が高揚してきて、さっそく、商品になりそうなものを探し始める。
クローセットを開き、ベッド下を覗いて、棚の上にも手を伸ばし……物色すること三十分。予想に反してめぼしいものは出てこなかった。余っている衣類はないし、骨董品なんて所有しているわけがない。ハンドメイドはしようとすら思ったことがなかった。
あ、和室の押し入れになら何かあるかも、と思ってドアに手をかけたとき、ふいに閃いた。私は机に戻って、右下の一番大きな棚の奥底に手を潜らせた。
硬くて薄くてひんやりとした感触。これだ。つかみ出すと、角の綻んだ古びた絵本が出てきた。表紙にはウサギの親子のイラスト。
じっと見ていると、遠い記憶が蘇る。
姉が亡くなる少し前、幼い頃に姉から譲られたこの絵本を、私は泣きながら床に叩きつけた。そのときが姉との最後の会話になった。
果歩、と憐れむように私の名をこぼす姉に、私は思いの丈をぶつけた。絵本よりもあの人を好きになっちゃった、お姉ちゃん、彼を譲って、と。
姉は動揺を抑えるように絵本を拾って微笑んだけど、それは他に為す術がないときの微笑みだった。
私はその絵本をリュックに詰め込み、部屋を出た。
砂原(2)
約束の時間には余裕があった。それでも俺は駆け足で待ち合わせ場所へと急いだ。少しでもあの子を待たせたくなかったからだ。
息を切らして商店街の入口に着くと、喫茶店後方の錆びかけたポストの脇に、美羽ちゃんが立っていた。彼女は黄色とピンクを混ぜて光らせたようなショートの髪に手を当てて、足元のスポーツバッグに目を落としている。パンパンに膨らんだそのバッグには、一週間の海外旅行に足りるほどの着替えが入っているはずだ。
美羽ちゃんは俺に気付いても、強張った表情を崩すことはなく、より不安を募らせた視線を向けてきた。救いを求めているようでもあった。彼女が口に出せなくても、俺はそれを理解している。
「荷物はこれで全部?」
こくんと、美羽ちゃんは下を向いたまま頷く。
「行こう。他に必要なものがあったら、後から買えばいい」
美羽ちゃんのバッグを拾い上げ、駅の改札へと歩く。案の定、彼女のついてくる気配がないので、俺は立ち止まって振り返り、穏やかに声を投げた。
「どこかで進まないと」
彼女はまだ、顔を上げない。
「君を見て、俺もそう思えたから」
少し経って、今度はつま先に力を込めたのがわかった。ザっと地面を蹴る音から、前を向こうとするわずかな決意が伝わってきた。
俺も体を翻して、駅に歩を進めた。