6話
今日はリンゼイの弟、サイラスの結婚式だった。夏のはじまりを感じさせる風は式場を彩る花の香をまとって爽やかに吹き抜け、初々しい二人を祝福していた。
リンゼイと共にレオも出席していたが、式が終わると早々に王宮に戻ってしまった。身内の晴れの日であるのに、王宮に戻らなくてはならない事情をリンゼイには明かされなかった。
「どうしても抜けられない。すまない」
レオは本当に申し訳なさそうにそう言った。
弟のサイラスとその花嫁にもしっかり挨拶をしていたし、リンゼイの父母にも声をかけていた。途中で抜けるというレオはこの日最大限できることをしていたとリンゼイも思う。
それでも、新郎の姉として披露パーティーはひとりで来客に対応し、夫のことを聞かれれば王宮にて忙しくしている、ということをなんてことないように話さなくてはならなかった。
それはサイラスを含めた実家の家族に対してもそうだ。レオの記憶欠落の件は知らせていないため、弱音を吐くということはできないまま一日が終わった。
元々幼馴染同士ということもあり、結婚したからと言って特に二人の事を心配することもなかった父母に余計なことを言いたくはなかった。
はりつけた笑顔が自分でも不自然な気がするほど無理していて、今はもう表情すら作れないほど顔が強張っている。
そんなリンゼイをサラが心配するのは当然で、今日は何かとリンゼイの世話をしていた。
「奥様、早々に休まれた方がいいかと。顔色が良くありません。控室に参りましょう」
「レオがいないのだから、私が挨拶しなくちゃならないのよ?パーティーなんてもう少しで終わるから大丈夫」
「でしたら少しドレスを緩めた方がよろしいかと思います」
「……今、中座できるわけないでしょう?」
普段よりやけに言い募るサラにリンゼイはうんざりとし始めていた。
「……大丈夫よサラ。帰ったら、しばらく予定がないからゆっくりできるし」
それでもサラは機会をうかがっては休息を促した。しかし、リンゼイにとってはそれすらも煩わしく感じてしまい、なんとか言い訳してサラを下がらせた。
ようやくひとりベッドに倒れ込んで深く息を吐く。
時はすでに深夜となっていた。
たしかにこのところレオの記憶欠落のせいでだいぶ疲弊しているのは確かだ。
そして疲弊しているのは心そのもので、誰にも言えずにいる自分がひどくかわいそうになってしまっていた。
今日一日、弟夫婦の幸せそうな笑顔を見て自分がみじめになってしまったのだ。去年は確かにあんなふうに笑っていたはずなのに、たった一年でこれほど距離を感じるようになっている。
この一年、何も間違っていたとは思えなかったし、何かできたとも思えない。
どうしてレオは自分に触れなくなったのか、リンゼイには見当がつかない。だからそれを聞くこともできない。
そうしているうちに記憶を失くした夫。
かなり重大なことなのに、まるで変わりない生活をしていることにリンゼイは苦笑いだ。さすがに今日は弟夫婦と自分の置かれてる状況の落差にただ泣けてしまった。
幸せな家庭というものを夢見ていた。
それをレオと共に築いて行けるものだと思っていた。
しかしそれはただ自分が夢見ていただけだと、レオがそう思っていたわけではなかったのだとリンゼイは考えてしまう。
(……ひとり夜に考えるのはよくないわ)
近いうちにイライザ様に会って少しおしゃべりをして気を晴らそう――リンゼイは落胆した気持ちを慰めるように自分の体を丸めて眠った。
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「……最近、リンゼイはどうしている?」
「イライザ様のお宅におりますが」
「モントワール公爵家?ここにいないのか?」
「はい、一昨日からお出かけになり、しばらく泊まると使いが来ました」
「しばらくって……、おい、一昨日?僕は聞いてないぞ」
「……申し訳ありません。旦那様が戻られてからでよいと奥様に言われておりましたので……」
執事が申し訳なさそうに言う。
確かにこのところ忙しかった。帰って来たのは実に三日ぶりである。それは、いよいよアレシア姫が次期王となる王太女となることが決まったからだ。
姉のエティ姫は人の上に立つには頼りなく、男子がいない王族では数年前から内々に話し合われてきたことだった。
王の末弟であるイライザの夫、モントワール公爵は未だ三十代なれど本人が「王族を支えるために公爵家に入った」と固辞したのだ。王自ら何度も打診はしたが、その決意は堅かった。王にしてみれば、未だ十五になろうかという娘に国の未来を託すというのも父親としては決断できるはずもない。
それならば三十になったばかりの末弟の方がよほど頼りにもなるのは事実だった。しかし、公爵は自分が表に立つことを最後まで固辞した。その代わり、姫の後ろ盾として仕えたいと申し出たのだった。
それではむしろ姫を操ろうとする野心があるのではないか。まだ十五という少女の思想を変えることはそれほど難しいことではないはず。
王は問い質すため、私的居室に弟であるモントワール公爵を招いた。
立ち合い人として宰相、ボワンヌ伯爵夫人、そしてレオが護衛として呼ばれ、人払いがされた。
王の率直な言い方にモントワール公爵は淀みなく答えた。
「……私は、おそらく、子供ができません。妻のイライザと結婚以来、三年経ちますがその兆候は未だなく……。原因は、たぶん五年ほど前に患った高熱かと。ですから、私が王に就くという可能性は、そう遠くないうちに後継者問題が再燃することを意味します」
モントワール公爵は深く頭を垂れたまま王に理由を告げた。それはここにいる誰も予想していなかったものだった。五年ほど前、当時はまだ公爵家に入っておらず、王宮にいた公爵は確かに高熱を患った。しかしすでに成人であった公爵がそれほど床についていたという印象はない。数日寝込んでいた、という程度でまさかそのような影響があるとは誰も思っていなかった。
王は思いがけない弟の言葉に言葉を失った。
「……奥方は、それを知っておるのか」
「うすうす感づいているようです。公爵家に養子に入る直前の出来事でしたので。……妻にはそろそろしっかりと話し、これからのことを話し合うつもりです」
レオは部屋の隅でこのやりとりをずっと聞いていた。公爵に子供ができない可能性を最初に指摘したのは当時診察したフラン医師らしい。それからフラン医師がこれまで公爵の相談にのっていたことも明かされた。
「フランはそのようなこと、王であるわしに全く報告を上げてきておらんぞ……」
「医師としては、最上です。個人的な事情を誰にも明かさない、ということが証明されたのです。信頼できるのですね」
ボワンヌ伯爵が静かにそう付け加えると、王も確かに、と納得したようだった。
「私であれば、後に姫の夫となる者の教育係として、最適かと思いますが」
この言葉に王はアレシア姫を後継者とする決断をした。王子であった頃にしっかりと教育を受けている上に王宮の事情をよく知り、公爵家に入って後は芸術家のパトロンをしながらかなり人脈を広げている。これから紛糾するであろうアレシア姫の縁談ではそれらが大いに役立つことは確かだった。
「……野心があるのでは、といらぬ疑いをかけたことを謝罪する。何より、言いにくかったであろう。皆、この場でのこと、今後一切口にしてはならぬ」
これがサイラスの結婚式の前日だった。
それからは内々に姫の侍女や女中の選定、肩書が変わるために衣装なども新調しなくてはならなくなったし、部屋もふさわしい場所に移らなくてはならない。これまでは家庭教師で済んでいたが、いよいよ学者や識者を雇い、お后教育ならぬ王太女教育が始まる。それはこの国の文化や歴史だけでなく、他国との関係や歴史、貿易や経済などその分野は多岐に渡る。
それらを取りまとめて指示するのはボワンヌ伯爵夫人だ。レオはレオで王太女付になることはなく、アレシア姫付きの騎士という職は近く解かれる。しかし、今度は姫に付く近衛兵の人選や引継ぎもしなくてはならない。やることが山ほどあった。
何より、王位継承となると国一大事であり、公表されるまでは機密情報だ。今日の朝正式に決まるまでは情報漏洩がないように細心の注意をもって話合われてきた。
アレシア姫の王太女公表まであと三日、まだまだ気は抜けないのだった。
そんな中でリンゼイのことは気になってもそれ以上のことはできなかった。ぴりぴりしていて邸に帰っても神経が高ぶっており、ぐっすりは眠れていない。
思い出せない負い目もあって、リンゼイに気安く接することはできなかったのだ。それがまさか、邸にすらいないということに驚きとともに自分の至らなさに怒りが湧き上がる。
「明日、朝いちばんに公爵家に使いを出してくれ。リンゼイに戻るように、と」
王太女公表がされればひとつの区切りだ。レオはその時のために今は仕事に集中することにした。