5話
国王主催の舞踏会を終えた次の日、喧騒が去った王宮は日常の静けさを取り戻していた。まだ片付けなどはあるが、それでも来訪者がいない分、建国祭が終わったと言う安堵の空気に包まれていた。
レオの記憶欠落に関してリンゼイに報告に行った王宮薬師であるジュードは、王宮の東側にある自分の研究室兼薬処方の窓口である部屋で文献を読んでいる。
元々は言い伝えにあるような古い治療法の再現ができないものか、と興味本位で始めたことだったが、今やそれはライフワークと言えるほど没頭していた。
今日は建国祭に伝わる言い伝えなど、年中行事をまとめたものを読んでいる。書かれたのは今から二百年近く前のもので、王宮で所蔵している図書の中ではまだそれほど古いほうではない。だが、そこには今とは全く違う様子が書かれていた。
「へぇ、建国祭には精霊に感謝する、なんて儀式があったのか」
それは王宮からは遠く離れた村々に伝わっていたものらしい。村によってやり方は違うが、森の入り口に焚火を中心とした祭壇のようなものを作り、編んだり織ったりした籠や布、衣服など村人たち自身が作ったものを一晩供え精霊の加護を授けてもらう。そして朝それぞれが持ち帰って一年間大事に使う、というものだった。
大事に使った後、それらは感謝の意をこめて次の年の建国祭の祭壇の火にくべるのだった。
考えてみれば、この国ができる前は戦乱が続いていたと言う。それをこの国を建てた初代王が精霊の力を借りて平定したと言われている。だとすれば、建国祭とは精霊に感謝する日と言う方が正しいのかもしれなかった。
しかし、今ではそのような儀式を見かけることはまずない。王宮で準備される祭壇は精霊に、ではなくまさにこの国の礎を作った初代王のためである。それも王族しか入れない部屋であるため、ジュードは祭壇が準備されているときに開け放たれたドアから少しのぞき見する程度だ。
王都で生活しているとみることのないこうした古の習慣は興味をそそられる。もしかして、本当に精霊というものが存在しているのかもしれない、そう思いたいのだった。
「若い衛視が片付けの際に足を挫いた。痛み止めを出してやってくれ」
王宮の老医師がノックもせずに研究室へと入ってくると若い衛視を研究室の椅子に座らせた。それはゆったりとした長椅子とテーブルがあり、治療のために患者が座ったり、お茶を飲んだりしているところだ。
「だからフラン先生、ノックくらいして下さいよ」
「おぬしは薬を調合してるか文献読むくらいしかしておらんじゃろ」
「そうですけど、単純にびっくりしますから。それで、痛み止めですか」
若い衛視にジュードは痛みの具合と場所を聞き、それに見合った痛み止めを数種類出した。
「煎じて飲むタイプだと詰所にいるとき飲みにくいか……塗り薬だとちょっとべたつく。飲み薬は……結構苦いよ。どれがいい?」
「……効き目がいちばんあるもので……」
「じゃあ飲み薬だね。この粉薬、食後に水で飲んでね。間違ってもお酒と一緒には飲まないように」
「え、だめなんですか」
「痛みが引くまでの二、三日くらい我慢しよう。この薬、酒と一緒に飲むと効果テキメンすぎて剣で斬られたりしても気づかないからね」
「それは便利じゃないですか!」
「まったく阿保だね。斬られたことに気づかないと血が足りなくなって死んでしまうからね。痛みが分からないと危険を顧みなくなるから駄目だよ」
若い衛視は薬を受け取ると、痛みがないというのは便利でもないと知って残念そうに戻って行った。
「それで、フラン先生、うちの秘蔵のお茶を勝手に飲まないでください。試験中のものもあるんですよ」
「もし調合に失敗しておったら死ぬなら老人の方が都合がいいじゃろ」
フラン医師は勝手知ったる様子で棚から茶葉を取り出し、ティーポットにうつしてお湯を入れる。立ち上る香りがとても爽やかで、フラン医師は大きく深呼吸していた。
「ほう、これは気分が晴れる」
「さわやかで軽い口当たりでしょう?でもこれ、熱湯ですとどうも……」
いつの間にかカップに入っていた薄いブラウンだったお茶の色がすうっと抜けてしまい、ただのお湯のようになってしまった。
「なんじゃこれは。妙ちくりんじゃな」
「たぶん、高温では安定しないようでして。でもこの茶葉ですと水出しも難しいので、これはお蔵入りかもしれません」
「ぬるめじゃだめなのか」
「この茶葉は三種類の植物からできているのですが、そのうち一種類だけがぬるめの温度では毒が抽出されてしまうのですよ」
「ほうほう。それではその一種類を取り除けば済む、というわけにはいかんのじゃな」
「おっしゃる通りです。それを取り除くと期待される効果が半分以下かと」
「よいよい。何度も試すとよい。しかし、色が抜けているのに味がするから不思議なものじゃ」
本来、こうしたブレンドティーをジュードが作る必要はない。薬ではないからだ。
しかし、王宮で薬師として仕えていると王族以外の女官や騎士、メイドに下男など様々な人がジュードに助けを求めて来る。老医師であるフラン医師よりも人懐こく、親しみやすいからだろう。しかし貴重な薬を無償や格安で出すわけにもいかず、比較的手に入りやすい民間の薬の正しい使い方を教えたり、こうして仕事の合間に自ら調合したブレンドティーで気分転換してもらったりしているのだった。
「よく眠れるお茶や、喉や鼻がすっきりするものはまあ簡単でしたが、気分を爽快にするものっていうのは難しいです」
「茶ごときで人の心持ちなどかわらんよ」
「……そりゃ、そうでしょうけども」
「茶一杯で気分が上がったらそれはヤバイお薬じゃからなあ」
「王宮仕えは神経すり減るようなところも多いでしょう?まあここでお茶でも飲んで少しばかり気分が変わればいいかと思ってるところです」
そうジュードが言うとフラン医師はずずっと茶を飲み切った。ティーポットのお茶はやはり無色透明になっている。
「そう言えば、フラン医師は結構田舎のご出身でしたか?」
「南のはずれの村じゃな。馬車で王都から五日はかかるかのう」
「そちらでは建国祭はどのように祝っていたんです?」
「建国祭?」
「ええ。私は生まれも育ちもこの王都なんですよ。先ほど文献を読んでいたら、祭壇をこしらえたりするとか」
「はて……そのようなものあったかのう。ここと同じく、歌って踊って祝ったと思うが……何しろ何十年前じゃからあまり記憶は……あ、あった」
「あったのですか!」
「わしの村では森まで遠かったのでな、村はずれの空き地に祭壇を作っておった気がするが……あまり供えられてはなかったのう。古いしきたりをやめられない老人がすることじゃったな。わしは十五で村を出たが、祭壇を見た記憶はもっと幼かったように思うのう」
「フラン医師の記憶でもそのくらい祭壇がすたれていたのですか……。この二百年前の文献にはあるのですが」
「相変わらず、古い話を調べておるのか」
「まあそうですね。移り変わっていくのを見つけると、そこに人の歴史を感じますし」
ジュードは文献を開き、フラン医師に説明する。
先ほど読んでいた祭壇に作ったものを供え、それを次の建国祭で火に入れるということを話した。精霊の加護という価値観は今王都にはないと言っていい。老医師の記憶でさえ、もう精霊はおとぎ話の中にしかいないのだ。
「ここにも興味深いものがあるんですよ。建国祭の時、飾るリースに使う植物は松を中心に、食べられる木の実で、とあります」
「ほうほう」
「今ではそんなもの誰も守っていません。というか私も今日まで知りませんでしたね。好きな植物で好きなように飾り付けますでしょう?色とりどりの花に立派に茂る葉、富める者はそれこそ貴石なんかもちりばめたりして。昔は精霊たちへの目印だったようです。この家にどうぞお越しください、加護をください、というような。リースの木の実はその後、食べることでやはり精霊の加護を得る、ということのようです。だから、食べられる木の実もこうして一覧になっているんですよ」
森の木の実には季節ごとにさまざまなものがある。その中には人に対して危険なものもある。
おそらくそれらの知識はずっと人から人へと受け継がれてきたのだろう。しかし、この本には詳細にそのことが書いてある。後書きにあたる部分には、若い者たちへの知識の引継ぎがうまくいかなくなってきておりこの本を記した、と著者の言葉があった。
「これは細かいのう……熟すと食べられないが、その前であれば干してからなら食べることができる……これは酒につけておくのか。
いろいろと加工しないとならないのだな。確かに、すぐに食べられるものは森の動物たちとの取り合いじゃし」
「そうなんですよ。だから先ほど私がブレンドティーで困っていたでしょう?もしかしたらこういうところにヒントがあるかと思いまして。こうして文献を漁っているといろいろと繋がることがるので、やめどきがわかりません」
ふたりは色のないお茶を飲みながら、その文献のことを話し込んでいた。
建国祭から一週間ほど経つと、王宮のさまざまな調度品が夏のものに替えられた。アレシア姫のドレスはやや軽装に、レオの騎士服も生地が夏物になり、身軽になった心地がする。
「ねえ、どうしてレオは奥方と結婚したの?ちょっと聞いたけれど、どちらの家の隆盛につながるようなご縁ではないわよね?」
「それを聞きますか」
「幼馴染というだけで王である父が貴族の結婚を許すとは思えない」
レオは今日もアレシア姫に振り回されている。疲れ始めたところに妻とのなれそめを聞かれ、言葉を濁す。
なにより今は記憶がない。ただ、それは一部の人間しか知らないことだ。アレシア姫にもうまくごまかしつつ、今ある記憶をかき集めて話さなくてはならない。
「確かに、そうですね。でもだからこそ王宮が許可を下さったのだと」
「どういう意味?」
「数ある伯爵家の中でうちと妻の実家は、互いに領地が潤っているわけでも、特産品があるわけでもありません。ですが、良いこともあります」
「良いこと?」
「はい、貴族社会では私と妻の結婚は毒にも薬にもならない、全く波紋を呼ばない縁談でした。それは王への野心がないことの証明にもなりました。私は伯爵家嫡男ですので、それはもう、あからさまな金目当てから後見人目的までいろいろと縁談は持ち込まれました。別に貴族の跡取り息子なんて他にもいますので、珍しいわけでもないのですが……。そういう輩は私の事を見てはおりませんしね。あとは利害関係を家庭に持ち込むことを私の両親はひどく嫌っておりまして、それもあったかと思います」
「……毒にも、薬にもならない縁談……」
「お分かりかと思いますが、今エティ姫様の縁談がまとまらない理由もここにあります。そして近い将来、姫様にも起こり得ることです」
現在十八歳のエティ姫はもう数年縁談がまとまる気配がない。それはこの国の王位を継ぐかどうか、という問題もはらんでおり、身分が釣り合えばいいというだけではすまないのだ。
王や宰相がかなり気を配って相手を吟味してるが、結局王位継承順位をはっきりさせないことにはどれも話を詰めるまでには至っていない。
「でも、シュイランテ伯爵、珍しいわね。利のない結婚なんて貴族には何のうまみもないのに」
「おそれながら姫様」
ボワンヌ伯爵夫人がレオとアレシア姫の会話に割って入ってきた。アレシア姫付きの侍女であるボワンヌ伯爵夫人は姫の前に紅茶を出す。先代の王妃付きメイドとして仕え、結婚しても暇をとることはなかった。以来三十年間王宮にいるボワンヌ伯爵夫人の言葉は誰もが必ず耳を傾ける。
「先日、タロワナ伯爵夫人の茶会で奥様のリンゼイ様にお会いしました」
「どんな方なの?」
「とても奥ゆかしく、思慮深い方かと思いました。あの茶会で人の噂を楽し気に話すでもなく、微笑んでやり過ごしておりました」
「……茶会?タロワナ伯爵夫人ってどんな方?」
「王宮の噂話に花を咲かせるというなんとも下世話な茶会です」
「でも、やり過ごすような茶会になぜ奥方がいらしたの?」
「貴族の夫人の義務でしょう。そういった噂話などから夫の仕事ぶりや自分の立ち位置を確認するのです。姫様も今後は王宮にて茶会を主催しなくてはなりませんよ」
「いやなことのひとつね。今更女性と仲良くって言われても、私は友達さえいないのに」
「毒にも薬にもならないというのは、決して悪いことではありません。良縁はまた悪縁とも表裏一体です。先代の王妃様はそれはそれは良き家柄の良きご令嬢であり、聡明であられました。ですが、その方の弟君の金銭感覚が問題でして……先代の王が大変苦労されていたのです」
「……何度も聞いたわ。それ。」
「そういった中でリンゼイ様はとても異質ですが、中立しておられます。これはなかなかできることではありません」
レオはボワンヌ伯爵夫人の言葉を聞いて、リンゼイが思った以上にうまく貴婦人たちの中で立ち回っていると知った。
中立、というのはレオの今の状況や立場からしても非常に重要なことだ。あまりうまく妻とコミュニケーションをとれていないと思っているレオからすればこれ以上ない有意義な話だった。要するに、リンゼイは妻としてきちんとやっていて、レオの立場もそれなりに理解しているということだとレオは思った。
そんなことを考えながら、縁談の話をしていたときの父親の言葉をレオはふと思い出した。
――貴族の縁談は利害関係がある。だからこそ、夫婦としてうまくやっていけるという部分も大いにある。レオが思う女性と結婚するのは構わないが、利害関係がないからこそ誠実でなければならない。
その時はピンとこなかった。
が、今になってそれはずしりとレオの心を重くする。利害関係があれば我慢できることもあるし、率直に言葉を交わすこともできるだろう。結婚を契約としてとらえれば、まさにその通りだ。
リンゼイに対して誠実であるか、と今問われたらレオは自信をなくしかけている。
記憶を失い、距離をおいている現状に、どこか結婚していることに怠けている部分があることは否定できない。レオは自らの行いに肩を落とすばかりだった。
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リンゼイは窓辺の椅子に腰かけて庭を見ていた。夕暮れの庭は少し翳りが濃くなり、夜のはじまりがゆっくりと広がり始めていた。
来月には弟のサイラスの結婚式があり、実家はその準備でてんてこまいらしいが、嫁に出たリンゼイにできることは特になく、お祝いの贈り物を選んだり、当日母の手伝いをする程度だ。
そんな中、このところレオの多忙はさらに深刻になっていた。
建国祭まで忙しい、というのは去年もそうであったため特に気にしていなかったが、今年はそれが終わってもなお続いているようで、執事によれば帰宅は深夜、または泊まりになることが今までよりずっと増えている、とのことだった。
ダーシーから聞かされた「姫の初恋」という言葉もずっと咀嚼できないままひっかかっている。
――もしアレシア姫が本気でレオをのぞんだら?
十四歳という姫のことを考えると、その恋心は決して微笑ましいものではないとリンゼイは思っている。
それは、リンゼイ自身がレオに恋した年齢とあまり変わらないからだ。あの時のあの胸の高まりは確かに今も残っていて、忘れがたいものになっている。
悪い妄想がじわりと胸に広がるのを感じてリンゼイはあわててそれを打ち消そうとする。夜は考え込んでしまうからよくない。なるべく考えないようにするために、関係のない話をサラにし始めた。
「そういえば、子供の頃に聞いたおとぎ話で、悪い魔女に魔法をかけられて何もかも忘れてしまった女の子に精霊がひとつひとつ教える話あったよね」
「……『精霊の忘れもの』でしたね」
「そうそう。悪い魔法を解くことはできないかわりに、もう一度生活の仕方から勉強とか、いろんなことを精霊に教わるの」
「……精霊に魔法を解くような力はありませんから」
「女の子は精霊と暮らしながら大人になって……でも結婚するってなった時に精霊と別れなくちゃいけなくて」
リンゼイは思い出しながら少し悲しくなってくる。このあと、精霊は女の子の中にある自分の記憶を消すために、精霊の加護を込めた髪飾りを作る。そして、それを髪にとめたとき、女の子は精霊のことをきれいさっぱり忘れてしまうのだ。精霊も姿を消してしまい、もう二人が一緒にいることはなかった。女の子はその後結婚し、穏やかに暮らしていく。しかしその髪にある髪飾りは一体だれからもらったのかどうしても思い出せない――という話である。
女の子と精霊は仲の良い友達であり、親子であったはずなのに、記憶を消してさらに別れが来ることが子供心に信じられなかったことをリンゼイは思い出す。
「元の家族のことも自分のことも悪い魔法で分からない女の子にとって唯一自分を知る精霊を忘れなくちゃいけないって、おとぎ話としては悲しすぎるよね。どうしてこんな悲しい話が読み継がれているんだろう」
「おそらく、精霊と人間は違うものだからでしょう。ずっと一緒にいるということはできない、という。あとは、親しい人との別れは必ず来る、という教訓めいたものもあるのではないでしょうか」
「親しい人との別れなら忘れちゃう方が悲しいと思うけど……」
「忘れる、ということは何も悲しいことではありません。それだけ時が経ち、前に進んだ、という解釈も可能かと」
「……サラは、忘れられることが悲しくない?私は今レオに忘れられちゃって……結構つらいけれど」
レオがリンゼイのことだけを忘れてから一ヶ月以上経つ。目の前で戸惑うレオのことを見ていると、自分という存在がレオにとって負担になっているような気がしてしまうのだ。
おとぎ話の精霊のように姿を消すわけにもいかず、邸で伯爵家嫡男夫人という立場で最低限のことはしている。レオに記憶を取り戻してほしい、と本心では思っているものの、思い出したらきっと記憶欠落前の微妙な夫婦関係も思い出してしまう。そうなった時、レオがどうするのかリンゼイには見当もつかないのだ。
忘れられてつらい、というのは、もう一度あの孤立しているかのような夜が来るのではないか、という恐怖心だ。
顧みられない日々はまるで自分が透明で誰の目にも写っていないような錯覚さえ覚える。
それと比較したら気にされているだけ、今の方がいくぶんましかもしれない――リンゼイはそんな気がしてきていた。