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3話


 

 レオの記憶がなくなってから二日、人の噂が何より好きなタロワナ伯爵夫人主催の茶会にリンゼイは出席している。

 念のため、レオの記憶欠落が外部に漏れてないかを確認しておきたかったためだ。王宮内では内密に処理している、とは侍医の言葉だが、それが本当かどうかを確かめておきたかったのである。

 もちろん大っぴらに言われることはないだろうが、こっそりと王宮での噂や出来事を告げられることもある。これまではレオの働きぶりを少しでも知りたくて参加していたが、今回は情報収集という目的になった。

 リンゼイの性格としては十数人が集まる茶会はなるべく避けたいところだが、このタロワナ伯爵夫人だけは違う。それは王宮内の噂話を広く網羅していることもあり、それを聞きたい野次馬のような貴婦人たちがまるで蜜に吸い寄せられた蝶のように集まるからだ。タロワナ伯爵夫人は噂好きというだけでいいとしても、集まってくる顔ぶれが無視できるものではなかった。

 

「こちらはアレシア姫、侍女のボワンヌ伯爵夫人です」


 夫であるレオが付く姫の侍女――王宮に勤めてすでに二十年になる古株で、その影響力は未知数、らしい。王や王妃にすら意見することもあるとても思い切りのある女性とリンゼイは聞いている。きっちりと結った髪がその厳しさを表しているように見える。今は姫様付となってはいるが、実際の身の回りの世話は別の侍女がしているらしい。なんでも女官長の相談役として王宮に残っているそうで、そのあたりも周りからの信頼が大きいことがうかがえる。

 まさかそんな人がこうして茶会に来るとは思っておらず、リンゼイは思わず気を引き締めた。

 

「そろそろ姫様に縁談の話題がおありなんでしょうか」

「いくつかお話をいただいているのは確かでございます」


 甲高い歓声があがる。

 実質王宮の女官トップが来ているということで、表立っては語られない王宮の内部事情の情報がないかと誰もが期待を寄せている。それも姫の縁談となればその機密性もあいまって集まった貴婦人たちが目を輝かせて次の話を待っている。

 

「でも、まだエティ姫様の方が決まってらっしゃらないですね」

「お隣の王太子に輿入れするというお話もありましたわね」

「でも、男子がおられないから婿入りを考えてらっしゃるのかしら」


 そうだとしても、王位はお婿さんではなくて王女さまだから、どうなのかしら……と皆言いたい放題だ。ボワンヌ伯爵夫人はそれを聞いているだけで特に言葉は発しない。その静かさにはある種の不気味さすらあった。

 確かに今、この国の王族に男子はいない。

 王位継承権は18歳のエティ姫、14歳のアレシア姫にある。この国では王女でも王位を継げるため問題にはならないが、結婚となると事情は変わってくる。

 

「むしろ独身の女王となるのもありかもしれませんわね」


 いつだって後継者というのは頭の痛い問題だ。

 アレシア姫は今十四歳、今度の建国祭が貴族たちに対する初の公式お披露目となる。これまでも内輪のパーティーなどは出ていたが、いよいよ来年十五歳、ということもあって縁組合戦の火蓋が切って落とされる瞬間でもある。

 この縁組でそれぞれの貴族の立ち位置が微妙に動く。政争から遠い場所にいる本邸の義父、実家のスカラット家はさほど影響はないにしても、現在王宮で働いているレオにとっては大問題だ。

 記憶の欠落がばれていないか、と出席してみたが、思わぬ方向の情報を入手するかもしれない。こんなことがあるから、気は進まなくともこのタロワナ伯爵夫人の茶会だけはリンゼイにとって優先順位が高いのだ。少しでも情報があれば、またレオの仕事ぶりを聞くことができれば、と思ってわざわざ出席しているのである。


「レオ=シュラインテ様の奥方様はいらっしゃいますか」


 静かに紅茶を飲んでいたボワンヌ伯爵夫人の声が突然響く。

 リンゼイは驚いてカップを持つ手が動かなくなってしまった。呼吸を整えてからゆっくりカップを置くと、固い声で言う。

 

「私ですが……」

「お初にお目にかかります。アレシア姫様は大変活発なのですが、未だ少女気質が抜けきらず……レオ様には大変なご負担になっているかと思います。私の方からも感謝と謝罪を申し上げたく」

「そんな、夫の仕事ぶりを知ることができてこちらこそ嬉しく思いますボワンヌ伯爵夫人、どうぞ頭をお上げください」


 思わぬところから突然夫の話が飛んできた。もちろん、そういったことを聞くために顔を出してはいたのだが、こう全員が注目するような場面をリンゼイは想像していなかった。

 ボワンヌ伯爵夫人がわざわざレオの様子をこうして知らせて来るとは、もしや記憶欠落の件がこの夫人には知られているのだろうか、と考えてしまう。


「そういえばリンゼイ様とレオ様は幼馴染だとお聞きしております」


 タロワナ伯爵夫人が突然リンゼイに話を振ってきた。


「まあ、素敵なお話」

「レオ様は、あのダーシー騎士長様の弟子になるそうですよ。きっとすばらしい方なのでしょうね」

「確か、伯爵家の跡継ぎだけれど、その時が来るまでは王に仕えると申し出たと聞いていますわ」


 貴婦人たちはいったいどこまで知っているのだろう、とリンゼイは心で顔を引きつらせる。何しろ全部本当の話だ。ただ、レオ記憶の一部欠落については誰も知らないのか、それらしい話題は全く出ない。


(まあ、ほとんどはあのタロワナ伯爵夫人よね……王宮騎士の愛人がいるんだもの)


 タロワナ伯爵夫人は他にも貴婦人を騎士や王宮詰めの役人、王宮出入りの商人などとにかく顔が広い。噂好きな上におしゃべりで社交的となればこの貴族の社交界では無敵とも言えるのかもしれない。夫のタロワナ伯爵はずいぶん年上なようで、ここ数年は療養と言って別荘地で隠遁していると聞いている。自由にやりたい放題していると言える人だった。


 いつしか話題はある令嬢と恋仲であろう若者の話に移っており、リンゼイは夫が王宮で評価されているだろうことに安堵しつつ、記憶欠落につながるような話もなかったことに安堵した。

 ボワンヌ伯爵夫人もリンゼイに対してレオの働きぶりや姫の奔放な様子を伝えるのみだった。

 しかしリンゼイは人から伝え聞くレオのことをしか知らないような気がして、どこか寂しさもぬぐえない。

 「私の夫」の話を何てことなく話すだけなのに、茶会の話の中で自分だけ取り残されたような気分になってしまう。そんなことはない、と理性で否定してみても、現実にレオの姿を見ることが少なく、家庭内片思いという状態だ。最低限の業務連絡のようなやりとりだけで夫婦には程遠いのだ。

 

「奥様、このままでは風邪を召されてしまいます」

 

 邸に戻ってから長椅子でぼうっと座り続けるリンゼイの肩にサラがショールをかける。

 

「夫婦って、……何なんだろうね、サラ……」


 それを聞いたサラが目を伏せた。

 

「私は独身ですので、分かりかねます。ですが、以前のようにもう少し旦那様にお話されてはどうでしょうか。元々少なかったおふたりの会話が、記憶を失くしてから奥様は避けているように思われます」

「……でも、話すことないもの」

 

 そう言い切ったリンゼイにサラは憐れむように見つめる。

 夫婦らしいことは何もないのに、外ではそのように振る舞うことにリンゼイはただただ疲弊していた。



-◆-



「きみは、とても美しい字を書くのだな」


 今日は休日ということで珍しくレオとリンゼイは朝食を共にしていた。レオはいつもよりもラフな格好にまだ整えられていない髪を少し耳にかけている。対してリンゼイはしっかりと身支度をしてあった。少しゆっくりな朝食の最中、突然レオがそう言いだし、リンゼイは何のことだろうか、と考え込む。

 

「以前僕に送ってくれた手紙が出てきた。それを昨夜読んでいたんだ」

「て、手紙!?」


 思いがけないことにリンゼイはカトラリーを落としてしまうほどに動揺してしまった。手紙など、婚約期間中、それも国境警備するようなった頃だとするとかれこれ三年ほど前の話だ。もうどんなことを書いたか覚えてもおらず、ただただ恥かしさが募る。

 

「何か君とのことを思い出せないかと部屋を漁っていたら、手紙があったんだ。そうだ、結婚誓約書とかもあるのだろう。それも見たいな」

「……誓約書、ですか……」

「旦那様、こちらにあります」


 サラに言われたことを思い出す。自分の字を見たら思い出すのでは、という助言をリンゼイはさほど重要視していなかった。なのにすでに準備してあるうえにすぐに持ってきたことにリンゼイは驚く。

 するとサラは、リンゼイに耳打ちした。

 

「私ども使用人も奥様を思い出していただきたいので、いろいろと策を考えておりました。誓約書はそのひとつです」


 仕事の早い侍女に少し動揺しつつ、目の前で結婚誓約書を見る夫は不思議そうな顔をしていた。

 

「……本当に、僕の署名があるね。確かに僕は君と結婚しているのだな」

「……」

「いや、疑っていたわけではなくて……やはり本当に僕は君の記憶だけがないのだな……」

「レオ……」

「今日は久しぶりに休みなんだ。少し君につき合ってもらいたい」


 レオはテラスにお茶を用意させると、リンゼイに座るよう促した。

 若葉萌えるこの時期、風も心地よく、こうしてテラスで過ごす時間はとても心が和む。そういえば、結婚誓約書を見てリンゼイは思い出したのだが、昨日が結婚記念日だった。レオの記憶欠落ですっかり忘れてしまっていて、せめて言葉だけでも贈りたかったという小さな願望は潰えてしまった。


「僕は今、君の記憶が全くない。それは事実なんだ」

「……分かっているけど」

「あれからいろんな人に話を聞いたよ。もちろん、記憶がないとバレないようにね。するときみと僕は幼馴染でそれこそ十年以上前からの知り合いだと言う。僕の記憶は、妻であるきみだけでなく、その幼馴染の記憶さえなくなっているんだ。……本当に、きみのことだけすっぽりと抜けている」


 頭でわかっていたが、こうして本人に言われると心にくるものがある。自分だけがいない世界がレオにはあって、リンゼイだけが取り残されてしまっているのだ。あらためてそれを実感して思わず握った手に力がこもってしまった。


「君の弟であるサイラスのことは分かるんだ……スカラット伯爵夫妻も。……本当に、きみのことだけ僕は記憶を失ってしまったらしい」


 レオが記憶を欠落してから一週間経っている。その間にレオはできる限りのことをしていたが、リンゼイのことは全く思い出せないままだった。上司であるダーシー騎士長に聞いたり、使用人たちにもいくつか聞いた。自分の部屋を探し回って出てきたのは婚約期間の手紙くらいだった。それはまだ少女らしい無邪気な言葉が綴られていて、今のリンゼイとは少し印象が違う。

 

「……無理、しなくていいの。レオは今私にそうして話してくれるけれど、本当は緊張しているでしょ?」

「……それは」

「だって、レオからすれば私は全くの見知らぬ女。そんな女が妻だと言われ、周りはさっさと思い出せ、と言う。私より、たぶん大変よね」


 リンゼイは一口だけこくりと紅茶を飲んだ。

 爽やかな香りが鼻を抜けていく。

 ずっと思っていたことを口にして、少し気が緩むのが分かる。レオなりにいろいろ模索していることは使用人たちからも聞いている。王宮での仕事に影響はないものの、思い出すために、とダーシー騎士長に言われているようで、以前よりは帰りが早くなっていた。

 そうしてリンゼイとの接点を見つけようとしているレオに、リンゼイは疑問があったのだ。


「……考えていたの。私とレオは、たぶん、夫婦としてうまく行ってはなかった。少なくとも私はそう思っていた。だから、……だから、思い出そうとしなくてもいいと思っているの」

「……きみ、それは」

「リンゼイ、ともう呼んでくれないのだから、レオは私との間に距離を置いてるもの」


 レオははっとして目を見開く。

 確かに見知らぬ女を名で呼ぶのは躊躇いがあった。だからきみ、という曖昧な呼び方をしていたのは事実だった。それをリンゼイは察していたのだ。

 

「……レオからすれば、妻を思い出す義務があると思っているのかもしれない。でも、そんな義務はないから」


 これはリンゼイの本心だった。元々、初夜以降まともにベッドを共にすらしていない。

 幼馴染同士の結婚ということでリンゼイ自身にも妻という自覚が育つまで時間がかかったのは事実だ。けれど、夫婦らしいことがほとんどないまま一年を過ごしていく中で、きっとレオの中に負い目があるのでは、という可能性をリンゼイは感じていた。

 四年にも及ぶ婚約期間、手紙を交わしたことはあってもそこで愛を綴ったことはない。

 だとしたら、もうとっくにレオの中に自分はいないだろう、と考えていたのだった。


「じゃあ、きみは僕が思い出さなくてもいいと思ってるのかい?」

「そういう訳ではないけれど……思いつめて欲しくないから……」


 静かにそう言う妻という女の横顔を見て、レオはやるせなくなった。

 何故忘れてしまったのか。なぜこの妻のことだけ。なぜ。

 それでもさめざめと泣くこともなく、思い出せと言い募るでもなく、淡々としているこの妻という女にレオはどこか寂しささえ感じるのだった。もう少し、必死になったりはしないのだろうか、縋ったりはしないのか、と思う。

 しかし、結婚して一年、彼女が言うにはうまく行っていなかったという夫婦関係を思えば、妻の言うことも一理あるのは確かだった。

 貴族間の結婚であれば、夫婦として世間体だけ保っているような人も少なくはない。レオも最初は妻というこの女に対してある種の壁を作ったのは事実だ。

 しかし、実際は使用人たちが折に触れて妻だというリンゼイのことを話してくる。それを考慮すれば、うまく行ってない部分はあっても、使用人たちはそれなりに夫婦の仲違いをしているような状況をどうにかしたいということは伝わってきていた。

 その中で妻だけは異質だった。

 諦めきったような妻の言葉に物足りなさを感じても、元々そういう状況だったのか、記憶がなくなってからのことなのかレオには判断がつかない。

 晴れ渡った空に手入れの行き届いた庭は若葉に萌えて生き生きとしている。ふたりは無言で庭を眺めながら冷めた紅茶を飲むしかなかった。



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