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2話

「奥様!奥様!起きておいでですか!?」


 朝からけたたましい声にリンゼイは自分が寝坊したのかと思って飛び起きた。


「サラ?どうしたの?」


 リンゼイの声を聞いてから侍女のサラが寝室へと入ってきた。

 その様子はいつもの落ち着きなどまるでなく、まさに血相を変えて起き上がったリンゼイに縋るようにはってきた。


「だ、旦那様が……」

「……レオがどうかしたの?何もなければいつも通り王宮で……」

「は、はやくいらして下さい。ただいま執事が足止めしていますので急ぎ旦那様にお会い下さい」


 サラは寝間着のリンゼイ普段着のドレスに手早く身支度を済ませると、リンゼイを食堂へとせかす。

 いったい何があるのか何も分からないままリンゼイはされるがままになっていた。


「奥様をお連れしました!」


 食堂には使用人たちがいつもより集まっている。中心には夫であるレオがいて、隣には執事が困ったようにリンゼイを見つめていた。

 レオの前にリンゼイが座る。

 

「おはようございます、レオ様」

「……きみが、僕の妻……?」


 リンゼイはレオが何を言っているのか分からない。妻でなければなんだというのだろう。まじまじとリンゼイの顔を見つめるレオの表情はどこか違和感があった。

 硬い表情のまま、大きくため息をつくと、伏し目のままレオは言う。

 

「いつ、きみと僕は結婚したのだろうか……すまないが、全く覚えがない」


 一瞬、リンゼイは息が止まったかと思った。

 覚えがない。

 意味が分からない。けれど、リンゼイは言われたことに素直に答える。

 

「ちょうど、一年ほどまえに式を挙げました……えっと……本当に?覚えがない?」

「今朝仕事で王宮に出ようとしたら執事からきみの今日の予定を聞かされて。はて、『奥様』とは誰だったか、と。一年前……ということは、この邸で一年きみと僕は暮らしている……?そういうことに?」

「はい、そうなります……ね」

「しかし、僕は今朝自分の部屋で目覚めた。結婚しているのになぜ夫婦の寝室……いや、ここで言うことではないか」


 リンゼイは独り寝のことを言われて唇を噛む。いつだって、ベッドに入ってこないのはレオのほうなのに、責められたような気分になってしまった。

 

「……」


 沈黙が落ちる。本当に記憶がない、というよりはリンゼイのことだけ抜け落ちているようだった。仕事の内容や、使用人たちの名前、自分のこと、生活の細々したことは忘れているわけではないようだった。


「すまない、王宮での仕事は急ぎ済ませて来る。夕食までには戻るようにするから、きみは待っていて欲しい。もし本当に僕の記憶がおかしいなら、王宮仕えも支障をきたすだろうから騎士長と相談してこなくてはならないし」

「わかりました……どうか、お気をつけて……」


 リンゼイは力なくそう答えた。



 使用人たちに仕事に戻るようリンゼイは言い渡して、サラに食事は部屋でとる、と告げた。とてもじゃないが自分だけが邸の主に忘れ去られているらしい状況で食堂にはいられない。


(忘れてしまいたいほど、私のことが煩わしかったのかな……)


 サラに運ばせた食事は喉を通らず、リンゼイはぼんやりと外を見るばかりだ。

 執事によれば、昨夜は帰宅の後、いつものように一日の報告をして下がったという。その時は特に変わった様子もなく、いつもと同じように奥様の様子を聞かれましたのでお伝えしました、と言う。だとすると、部屋でひとりになってから何かあった、ということになる。その頃リンゼイはすでに深い眠りだったのだろう、夫婦の隣の寝室にある夫の部屋の物音などを聞いた覚えは全くない。


「奥様、結婚誓約書とか、出してみてはどうでしょうか」

「……?」

「旦那様もご自分の署名を見れば思い出すかと……」

「ここまでの話をまとめると、どうやらレオは私の事を忘れてしまったらしい。そして、そのきっかけはレオが執事を下がらせてひとりになってからの時間らしい、ということ以外は分からない、ということね。朝はどんな様子だったの?」

「予定通りの起床、支度をされ、本日の奥様の予定などを執事が報告したところ、妻とは誰か、と言い出したと聞いています」

「夜は今まで通り、朝になったら忘れていた、と……。深酒をしていたとか、そういうのは?頭をぶつけて記憶がかけたりすると聞いたことがあるけど、昼間に王宮で怪我するようなことがなかったのかしら……。それとも夜寝る前に何かあったのかしら」


 リンゼイはどうにか気持ちを奮い立たせてこの状況を整理している。

 それを察してサラは執事にいくつか確認しに行ったが、酒を飲んだ様子もなければ、怪我をしたような様子もないとのことだった。


「全くの謎ね……」


 リンゼイは深いため息をついた。

 いつしか太陽は傾き、部屋が茜色になっている。随分長く考え込んでしまった、とリンゼイは椅子から立ち上がり、肌寒さに一枚羽織ろうとした時だった。


「旦那様が戻られるそうです」


 サラが朝よりかは幾分ましな表情で伝えてきた。しかし、こんな早い帰宅はこの一年、なかったことである。


「え?はやくない?」

「王宮の侍医と薬師も来られると」

「……やっぱり王宮で何かあったのかな……」


 リンゼイが応接間に行くと、ソファには老人とレオが座っており、もうひとり一人四十路ほどの男もいた。レオが王宮の侍医だと言う老医師ともうひとりを薬師だとリンゼイに紹介した。


「奥様が心配なさっていることから報告します。まず、王宮で怪我などをした、ということはありません。報告が上がってないだけの可能性もありましたので、念のため診察しましたが外傷はどこにもありませんでした」


 老医師は見た目に反して非常に言葉はっきりと自信を持ってリンゼイに言う。老人と言っても医師とは思えないような屈強な体つきをしている。老人と言えるのはその白髪と深く刻まれた皺のせいであり、背筋もピンとしており、書物に埋もれて研究をしているようには見えなかった。


「そして先ほどレオ様のお部屋を調べましたが、何か薬を盛られた、ということも考えられないでしょう」


 そう言うのは薬師だという男だった。細身で柔らかい銀髪を後ろで一つに結んでいるが、老医師と比べると顔色も青白く、健康そうには見えない。傍らには大きな白い犬と、小さな鳥籠に可愛らしい小鳥がいる。

 そしてその男から思いがけない可能性を言われ、リンゼイは背筋が凍ってしまった。


「く、薬……?」

「幻覚薬といいますか、あまりよくないことに使う薬の中には記憶を混濁させるようなものもあります。朝レオ様から報告があがったと同時に王宮内を一斉捜索しましたがそういったことはありませんでした。念のため、先ほどこちらのお邸の方も厨房や薬箱等調べましたが何もありませんでした」

「この犬と、小鳥が薬を調べるんですか?」

「この種はどちらも嗅覚がすこぶるよいので、個人的に捜索のために仕込んでおいたのです」

「そうなると……僕はどうしてしまったんだろうか」

「一時的な記憶の欠落、というものなら、ないこともない。しばらく様子をみるしかないだろう」


 老医師が言い切れば、そこに納得するしかなかった。ただ、王宮内でもこのことは内密にされており、知っているのはこの二人とレオの上司にあたるダーシー騎士長だけだと言う。リンゼイにも口外しないようにと老医師が行った。


「奥様、もしレオがどうしようもなかったら、私がお助けしますよ」


 薬師の男がやけに気安くリンゼイに話しかけた。


「おい」

「だって、レオ、奥様はあのスカラット家じゃないか。私は薬草を探したりもするのですが、古い文献から昔の治療法を再現するということもやってましてね、精霊たちに治療してもらうっていうのもあるじゃないですか」

「あの……それはちょっと……私にはもう分からないことでして……」

「分からないのは仕方ないです。治療法自体が千年以上昔のものですから、神話や伝説と言ってもよいでしょう。しかし、その逸話に出て来る精霊使いの長の血筋がスカラット家なのですから、薬師としては一度お会いしてみたかったのです」


 リンゼイはかあっと顔が熱くなった。

 確かに、リンゼイの実家スカラット家はかつて精霊使いの長がいた。しかしそれは昔の話だ。建国の際、精霊使いとして王に貢献したことで爵位を頂き、祭祀やら祈祷などを家業として王に仕えていた。しかし少しずつ医学や薬学が体系だっていくと、精霊使いというものはただの名誉職のようなものになっていた。

 実際、リンゼイの父は領地経営をする一般貴族と何ら変わりない。名前だけが残っているような状況だ。おだてられても恥ずかしいだけである。

 それにリンゼイのことを忘れてしまい、他人行儀になってしまったレオに対して、リンゼイはどんな風に距離をとったらいいのか分からない。

 夫婦としての距離か、それとも思い出すまではある程度他人でいた方がいいのか……。リンゼイは逡巡するも答えは出ない。

 ただ分かる事は、きっとレオは自室のベッドで寝起きし、リンゼイも今のままということであれば多分このまま変わらないのだろう、ということだった。







 王宮ではレオの仕事に影響はない、ということで使用人たちにも今まで通りということにしてもらうことになった。

 レオの中で分からないのはリンゼイの事だけであり、他は何ら影響がないのである。そういうわけで、今はこれまで使っていなかった夫婦の居室にて二人ソファに並んで座って今後のことを話していた。


「えっと、僕はきみと夫婦……というわけで……その夜はどうしていたのだろう。今朝起きたときは自分のベッドだったので」


 気まずそうにレオが聞く。


「……結婚して一年……もしや、きみは子を宿していたりするから別で寝ていたのか?」


 リンゼイはかあっと頬が熱くなった。

 そもそもそういった行為をしばらくしていない。一緒に寝てなどいないのだ。しかし、それも忘れてしまった夫にリンゼイは泣きたくなってしまう。

 けれど嘘をついても仕方のないことで、リンゼイは正直に言うことにした。


「私とレオは……もうずいぶんベッドを共にはしておりません……」

「でも、夫婦なんだろう?なぜ?」

「そんなの、私は知らないわ。レオが、夫婦の寝室に来ないのだから」


 思わず、言葉に力がこもる。ずっと言えずにいたことをこの状況で言うことに少しばかり罪悪感はあっても、黙ってはいられなかった。


「……すまない、記憶がないとは言え、きみに言わせていいことじゃないな……」


 リンゼイはうつむいたままだった。

 

「僕は、きみを思い出したいと思っている。少し面倒をかけると思うけど、待っていて欲しい」


 リンゼイは曖昧に笑って見せた。

 レオの本心など分からない。それは夫である責任感でしかないのではないか。

 リンゼイはぐっと言葉をのみ込む。おそらくこれは、言ってはいけない言葉だ。今は記憶がどうこうよりも、憔悴しきった男を休ませる方が大切だと感じた。


「無理して私と寝ることはないです。今は記憶もないようだし、どうか自室にて過ごして下さい。私も自室で過ごすようにします。何かあれば、また話しましょう。今はお疲れのようですし、しばらくは無理をしないようにして」


 リンゼイはそう言うと執事を呼び、それらを伝えてレオを部屋へと送った。


「サラ、私の部屋のベッド、寝られるようにしてくれるかしら」


 仮眠用としていたあのベッドをこんな形で就寝用にするとは、リンゼイも苦笑いするしかなかった。




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