坂東蛍子、衆目を集める
若葉が身を青く焦がし始めた春の週末の昼下がり。学生たちは時間割を睨み、訪れる解放の時を待って次の授業の準備をしている、そんな昼休み最中の話。
川内和馬は廊下の先に不自然な人の溜まりを見つけた。五、六人の生徒が、まるで異物に警戒する動物のように同じ一点を見つめて停止しているのだ。和馬はその視線の先にあるものの見当がつき、心なしか足音を潜め現場に近づいた。
少年の予想通り、皆の視線を集めていたのは坂東蛍子だった。彼女は廊下の一角で窓を開き、その窓縁に寄りかかるように肩を預けて目を閉じ、柔らかに微笑んでいた。
坂東蛍子という女子生徒は、一言で形容するなら「校内の憧れの的」だ。現代社会にて凡常を邁進する男子高校生にとっては、アイスの当たり棒とか、混浴温泉の立て看板ぐらいの魅力と引力を持ったドキドキの存在なのである。要するに、彼女が生徒たちの視線を集めるのはいつものことなのだ。
こんな風に立ち止まった学生たちは、各々が行使し得る最高の想像力で彼女が今何を思っているのかを考えるのが常である。例えば、手前にて大股を開く弓道部の三上良樹は、坂東蛍子の目を閉じ微笑む様を見て「春の訪れに耳を澄ませているのだな」と推理した。その奥でアルト・サックスを抱く根岸宗司は「心的存在と対話しているのだな」と解釈し、聖書を片手に持った日野ユリアは「世界の艱難を思って祈りを捧げているのだな」と理解した。彼らの結論に共通しているのは「坂東蛍子が自分の及びつかないような尊いことをしている」というものだ。その考えも分からないではない、と和馬は蛍子を見る。窓縁に寄って黒髪を風に揺らす坂東蛍子はそれほどまでに神々しく、踏み込み難い一線を感じる。
しかしながら、和馬は一同の考えのどれもが誤っているという確信を持っていた。所詮皆にはその程度の想像しかできないだろう、と鼻で笑ってさえいた。
では、皆の考えをここまできっぱり否定するこの少年はいったい何者なのだろうか。
川内和馬は至って普通の男子高校生である。中肉中背で、栗色の髪をツンツンと立たせており、上履きの踵は潰さない派だ。性格は温厚で、先日、とっておいたマーマレード・パンケーキを三歳になったばかりの弟に勝手に平らげられた時も怒りをぶちまけたりはしなかった(でもちょっとだけ不機嫌になって、自室でうじうじした)。
本題はここからだ。特筆事項と同じぐらい裏表もない和馬にも、実はたった一つだけ秘密があった。それは彼が坂東蛍子親衛隊隊長であるという秘密だ。
和馬がひと月前に設立した通称・坂東隊は、その名の通り蛍子の守護を任とする非営利組織だ。日々衆目の関心の的になる坂東蛍子が天災や人災に見舞われた時、身を挺して守ることを夢見る男たちの集いであり、裏の風紀集団とも言えるだろうし、もしかしたらだが、ストーカー集団とも言えるかもしれない。実に世話焼きと迷惑は紙一重であり、ボランティア活動の難しさをもその身で体現している示唆に富んだ組織なのだ。彼らは数カ月後の秋になると一通の手紙が原因で内部抗争を勃発させ、策謀渦巻く戦乱の多目的室で『乾拭き雑巾整理整頓事件』を起こすわけだが、とにかく今は事件性の欠片もない平凡な組織だ。
川内和馬はそんな集団のリーダーなのだ。彼が大衆の認識が誤っていると豪語する根拠も、即ちそこにある。
坂東蛍子は世間の評判通りの傑物であるが、その性格に関しては包み隠された一面がある。和馬はそのことをよく知っていた。現在進行形で窓縁に具現している穏やかな大和撫子が、人に愛されるためにはしたたかで打算的になれて、「だって好きになってもらう方が嬉しいじゃない」とそんな自分に胸を張れるような人物だということを、この親衛隊長は身を持って知っているのである。
今だってそうだ、と和馬は視線を蛍子に送る。目を閉じる蛍子は、確かに一見春の陽気に浸っているように見える。自然に寄り添い風に撫でられることが如何に心地よいかを体現した所作は、周囲の時間をゆったりとしたものに変え、春の存在に気がつかせてくれる。人々はそんな姿に光を見て、誇大な妄想に浸り、同時に自分の中に溜まった心のよどみを掘り起こされ、人間存在の矮小さに気付かされるのだ。
しかしその印象は的外れでもないものの、決して彼女の本質を捉えているものではない、と和馬は一人頷く。春に浸り、目を閉じ、耳を澄ませる。蛍子はアレをわざとやっているに違いないのだ。先述の通り、彼女は計算高い少女だ。皆が自分に何を求めているかよく理解していて、それを十全に実践している。理想の少女像として振る舞い、勉学でも運動でもトップを維持し、今も人々の心に春の息吹を届けている。あの微笑みは自尊心の充実が滲みでたものに他ならないだろう。
その完璧さと不自然のなさは、如何なる天才でも並の努力では到底実現し得ない。彼女は人に認めてほしいから、誰よりも努力しているのだ。それを知っているからこそ、和馬は彼女の本心をこの場の誰にも教えてあげないのだ。
(だって彼女の努力が知られたら、彼女に恋する男が増えてしまうじゃないか)
川内和馬はそんなことを考え、真実を独り占め出来ることに満足しながら廊下を後にした。
坂東蛍子、快眠の午後である。
【川内和馬前回登場回】
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