俺の小説の書き方 描写を作る 背景編2
背景編1を書いてほったらかしになってた。
背景ってのは時に書いていてすごくつまらなく感じることがある。
漫画なんかを描くとよくわかるのだが、やはり漫画は人物を中心に捉えることから始まりそこに背景を飾りとして入れてゆくことが多い。
添え物ゆえにおろそかになる。
例えば舞台がビル街だとしよう
どんなビル街で、どの程度のビルが建っているのか、という点を記述しなくてはいけない。たとえばマンハッタンは誰が見てもビル街で、そこに摩天楼などという修飾も付け加えることもできるが、まさか日本の地方都市にはこのような表現はふさわしくない、過度に尊大な印象か皮肉を受けるだろう。
まず、誤解を避けるために、街の規模を先に示しておけば、おのずとその街のビル街というものも想像がつく。ビル街がさして重要な意味を占めていないのであればこの程度でも構わない。
それから景色に対する視点の問題があるが、通常ビル街とは見上げるもので、ビル街そのものをすべて俯瞰して捉えられる状況にはない。ゆえにやはりビル街を説明する時は下からの情報になる。
蛇足だが、ビル街のある町並みを俯瞰するような場合、表現としては「ビル街」ではなく「ビル群」ではないかと。
「広大に広がる平野部の中心部から海沿いにかけて屹立する高層ビル群」という表現が正しいかと思われ、ビル街を使う際はその場所に立って仰ぐ印象かなと。
すると、おのずとビルのたもとに何があるのか、角にタバコ屋がある、自販機がある、ごみ箱がある、じめじめと湿っていて薄暗い、など、面白いことに、人間でもそうだが、足元を見ればその人の本質はおおよそ知れるとしたもので、靴が汚い、くたびれているという人はやはりオシャレには無頓着である(演出としている場合は別)逆を返せば足元さえ綺麗にしておけば、安物のスーツでも高級品に映る。
であるから、建物なり建造物なり、巨大メカなりの描写は、大体のボリュームさえ示せばあとは足もとの一部分を詳細に書きこむだけでもぐっとリアリティが出る。
ところが、自分でもこれをよくすっ飛ばしていることが多い。
いわゆる、ブルーバック現象で、背景がない状態で物語を進めていることが多い。
映画やドラマや漫画でも、絶対押さえているのはまず舞台となる建物や景色である。漫画の場合なら大抵は一コマ目、ドラマであっても最初のカットは景色である。小説には小説なりの文法があると言っても、特にそこに演出的意図がないのであれば、先に景色を書いておくべきだろうとは思う。
これを良く忘れる。
俺の思考回路は大抵、映像で脳内に再現してから文章に起こすので、いちいち意識していなければ、自分の頭の中で文章にないことまで勝手に補完してしまうことが多い。
自分の中では頭に描けているからなのだが、その想像力がかえって文章表現を阻害することもある。
気をつければいいだけのことだ、って言われても、意識外のことに気をつけるほど難しいものはない。
要するに、小説というのは《脳内イメージ》のための《壮大なる説明書》で、我々書き手というのは、読者に自分の脳内イメージを伝えるための手段として文字や言葉を媒体として利用しているのであり、それをもってしてどのような説明書ならばわかりやすく理解して間違いなく、「筆者が想像しているものと同じものを読者の頭の中に作り上げることができるか」ということをしている。
これが絵ならば一撃でイメージの共有ができるし、アニメーションなら声や音まで入る上に動くから、さらにイメージの齟齬は起きない(というよりみたまんま)
ただ、読者側での脳内補完の余地もまた小説ならではの要素であるかな、と思うところもあり。
ともすれば、詩文や音楽、聴覚、視覚など、感覚的にイメージを誘発するアート作品、あるいは抽象絵画などはプライマリー(一次的)な表現手段であり、アニメーションや実写映画などがファイナル(最終形)とするなら、小説や漫画やイラストはその中間に位置するセカンダリ(二次的)で、双方を繋ぐ役割を担っているのかもしれない。
あるいは、「攻殻機動隊 作:士郎正宗」の電脳世界のように、脳に直接アクセスできるような技術ができれば、視覚を媒介せずに実体験したのと同じようなリアリティを経験として得ることが出来るオーバードライブ(笑)かもしれない。
ま、そうなったら、マジで「こちら側に帰ってこない人」が続出するだろうけどね。