俺の小説の書き方 描写を作る 人物編
このコラム、特に方針があるわけではないので思いつきで書いてる。だからあまり期待しないで欲しい。
描写といえばやはり人物描写。
よく、一人称では自分自身(主人公)のことが描写できないという問題があると言われるが、俺はあんまりそこは気にしたことがない。そもそも、一人称とは読者もまたそこに組み入れるシステムなので、ある意味主人公描写があると一人称の魅力というものが削がれるのではないかと思う。
それでも主人公描写をしたい場合は鏡などを小道具に使うとやりやすく、あとは服のサイズだとか、他人との身長比較だとか、他人との会話の中でいくらでも外観を語らせることは出来る。
結局描写というのは、求める答えに対しての問いかけのようなもので、「今主人公はどういう状況にあるのか?」という答えが欲しいがために「状況説明の上に主人公を置く」という作業をしている。
もっといえば、答はいずれなり単純な「素数」であるにもかかわらず、どれだけ巧妙な方程式で導くか、あるいは難解な公式を用いて答を導くか、という数式を解く作業に似ている。
単純に小説など簡略化すれば十行でも終えられるものを、何百ページも使って語るのは、そこに描写があるからである。
描写とは理由であり、いい訳でもある
今回は人物の描写の話。
一人称なら、書き始めは手っ取り早く主人公の名前を自分で語らせることも多い。たとえば、
「僕の名前は高松康夫、高校三年生。受験勉強の傍ら携帯電話の着信を待って数時間、期待などしてはいないが、勉強のほうがどうにもはかどらないのは困ったことだ」
このようにさらっと流すと手間が省ける。容姿はわからないが男であり、携帯を所持し、受験生で、おそらくは大学を目指している極々ありふれているような学生である。しかし彼には勉強の進捗よりも電話の着信のほうに気を取られている。もちろんそれとて受験勉強が彼にとってさほどにウェイトの高いものではないからとも言えるし、ウェイトが高いのにどうにも気になって仕方がないともいえる。
これをもう少し補足して「時間の要素」を挿入してみると。
「僕の名前は高松康夫、高校三年生。受験勉強の傍ら、正午過ぎに約束した携帯の着信を待って数時間。期待などしてはいなかったが、試験も間近に迫ったこの時期に、勉強のほうがどうにもはかどらないのは困ったことだ」
時間とその時間の約束という文言を入れることにより、なんとなく康夫と「誰か」という人物が浮かび上がる。そして試験が間近であるという文言を入れることで、おそらくは季節が「秋か冬」で、高校生が特殊な理由なしに「昼間」から電話の着信を待つという行為がなされるのなら、おそらく「日曜日か祝日か冬休み」と推測できる。
こうすることで、読者はもとより著者は、「なぜ高松康夫はそうしてまで電話を待っているのか、相手は誰なのか」を説明しなくてはならなくなる。
もしかしたら、彼女からかもしれないし、携帯電話会社のコールセンターからかもしれない。前者であれば「彼女からの連絡」が重要な意味になってくるし、後者ならば「修理に出した端末の状態」が気になるのかもしれない。
このように、さらに次の説明を求められる。ここをどこまでウダウダと引っ張るかは作品次第だろうけど、一人称ってのはこういったメタ視の連続であるなと思う。
でぇ、一人称だろうが三人称だろうが、人物を書くときに、書く側というのはある程度容姿や雰囲気のようなものを頭に描きながら書いているはずなんだが、いかんせんそれが言葉になっていないことがよくある。
ありふれた情景でありふれた状況だからあえて書かなくてもいいかという心の緩みがでるけっかなのだろうけど、やっぱり書かなくてはいけない。誤解されたくなければ――つまり、読者に妄想主人公像を捏造されたくなければ、著者はきっちり抑えておかねばならない。
よくあるのが、ノベライズが映像化される際に、主人公のイメージが違う、声のイメージが違う、そういうしぐさはしないと思っていた、などなど、かつての読者は自身の中で描いていた「妄想主人公像」を全力でぶつけてきて、あげく「実写化は駄作」などと評されることが往々にしてある。これは監督の中の妄想主人公像と多く(一部?)の読者の妄想像が合致しなかったために起こる悲劇で、誰も悪いわけではない。
ただ、あえて誰が悪いのかというと、原作を書いた著者が、主人公の描写をちゃんと押さえなかったことにある。
例えば、作中にほくろの位置が何処だとか、乳首の宝ひげが生えている、というのは何らかの機会に挿入できるので心配は要らないが、身長体重髪型服装などは、物語の最初からイメージングにかかわってくるので面倒でも書き込むほうがいいかもしれない。個人の外観を表す記述はさほどに多くはないし、なんなら実在する俳優や歴史上の人物になぞらえてもいい。
あと、書き分けについてだが、こちらも似たような人物ばかりを出すと台詞回しに困るばかりか、個性を生かした演出が出来なくなる。これも見た目の容姿の違いを記述することが多いが、性格的なものも書き加えておかなければ行動原理が定まらない。
ライトノベルなどはイラストが挿入されていることが多く、それらがかなりイメージを補完している部分はあるのだが、アニメーションが前提にあるためか人物描写がかなりテンプレート化しており、分かりやすい人物設定ではあるが、反面つまらなくも感じる。これは書く側にも問題があり、著者の頭が「漫画アニメ脳」になっていると、テンプレから抜け出すのが難しくなる。「連ドラ脳」も同じようなことがいえる。
蛇足だが、あまりアニメやドラマを見すぎると「創作脳」が萎縮してしまうと俺は思っている。やはり見るならニュース報道番組で、犯人や被害者の心情、業界や政界の「裏」の目論見を推察するのは非常にいいトレーニングになる。
個性を先鋭化させることで物語が作りやすく進行もさせやすいのは分かるが、いわゆる「お約束」がきらいな俺は意図なくしてテンプレートで人物を作らない。むしろ演出として外したくなる。
それと、やはり、読者側に人物像をかなりの割合で預けてしまっていることには憤りを感じる。
だからといって、「めがね君は博士キャラ」というテンプレがあるなら、あえて「熱血めがね君」にしてみるだとかして無駄に混乱をあおるのもひとつだが、なぜ、「博士キャラのめがね君」ではなく「熱血めがね君」になったのか? という内訳を示さなくてはならなくなる世間ってのは窮屈なものだなと思うわけで、なんらか物語的意図がなければ徒労に終わる。
それならば、一般人のイメージに沿うように人物描写をすることもまた、著者の使命ではあるのかなぁなんて思うわけで、まあその方が楽だけど。
オリジナリティを追求したければ、いろんな人物を観察すべきかな、と。奇特な人物を発見したときは、その心の深淵に触れてみたくなります。