俺の小説の書き方 描写を作る 背景編 1
さて、続き。
描写について。
これ、苦手なんだ。だから一人称しか書けなかった。
というのも、一人称の場合、視点が主人公(語り手)の感覚にゆだねられるものだから、主人公が感じたことを書けばよかった。だから、知らないことは知らない、なんとなくそう思った、そもそも見ていない、何も感じない、という場合でもスルーできる訳で、無知な主人公なら一遍通りの反応で済むというお手軽さがある。
ただ、それが面白いかというのは別にして。
逆に、無知な主人公(子供など)の場合、感覚的に受け取ったものを言葉に表す場合、難しい熟語や言い回しは書けない。変に大人びた例え話もできない。それだけに読者へのアプローチが平べったいものになる。
そこでどうしても主人公は思慮深い聡明な人間になってしまいがち。アホキャラが書けない。
そんなわけで、いったん一人称は封印して三人称で頑張ってみようと思ったんである。
難しい。
あれ? でも、十年ほど前に生まれて初めて書いた小説って三人称で書いてる。
しかも、三人称複数視点で。器用なことしてるなぁ。
描写についての話だって。
まあ、言うまでもなく小説は描写がないと成り立たない。描写がないと読んでいる方は真っ黒な背景で、全身タイツの人がパントマイムしているような状態を思い浮かべるしかなくなる。
だから、地面があるとか、天井があるとか、壁色は何色だとか、全身タイツじゃなくてTシャツを着てるとか。そういうことをいちいち書かなきゃならん。面倒だ。
これは絵を描くような感覚と同じで、結局書きこめば書き込むほどリアルになってゆくというのに似ている。
漫画絵でも、単純な線で構成される絵の作品と、写実的な線画で構成される作品があるのだけど、そこをどこまでこだわるのかという事が、描写の密度になってくる。そして、作品の質に関わる。(質の高低ではなく)
これをどこまで書きこむかというのは作家次第なんだろうが、実は書かなくてもいいこともあるということを人は自然と判別しているもので、たとえば。
教室という背景のシーンがあるとして、普通の人は教室と聞いて「学校の教室か塾の教室」を思い浮かべる。何も教室の描写を
「人類は文化文明と技術と知識の普遍的な継承のために教育機関という組織をつくり、それにより運営される学校という施設に青少年期の人間を生徒として通わせることを是としている。彼らが納まるべき、ブロック別あるいはランク別に隔てられた空間をそれぞれ教室と称し、それは簡素な個人用の机と椅子が人数分同じ方向に向き、その向かう先には、教鞭を振るう教師と呼ばれる成人の人間がおり、教壇と呼ばれる一段高い位置に立つ事を許されている。教師は生徒にカリキュラムの消化を促す存在であるのと同じく、ここ教室という空間もまた、生徒がそれ以外の行為に目を向けることがないように、平素で合理的な飾り気のない建材で床と壁と天井が当たり前のように囲われている」
のように、描写する必要はない。
これは教室が特別なものではなく、普通名詞として誰もが想像する教室像が大差ないものだからといえる。ところがこれが、ただの教室ではなく「特別指導教室」になった場合、普通の教室との差異を示さなければなくなる。
先の「世界観を作る」でも触れたが、誰も知らない創造されたものに対しては説明が必要だと書いたが、創造されたものでなくとも説明や伏線や状況や状態が知れなければわけのわからない文章が出来上がる。
「朝、目が覚めると高次郎は刀に跨り学校へ向かう」
とした場合、どうしてカタナに跨ることが出来るのだろうか、ケツが割れるんじゃないのかとか思ってしまうだろう。
この場合、カタナとは日本のスズキという自動二輪メーカーのGSX1100Sカタナというバイクのことを指していると理解できる人間は少数派であり、大抵はモノやヒトを斬るカタナのことを思い浮かべるわけである。
そして状況説明や伏線というのは、例えば書籍のタイトルが「サムライハイウェイ」とか「首都高を斬れ」だったならなんとなく走り屋系の小説なのかなと予想が付く。しかし「辻斬り高次郎」では同じ「道」をタイトルに入れていても時代小説になってしまう。
本文においては、わざわざカタナとは? の説明を入れずとも、
「高次郎は高校一年の冬休みと春休みにバイトしてためた金で大型二輪免許を取得し、二年になったこの夏のバイトで稼いだ金を引っつかんで近所のバイク屋に向かった。そう、店主のかつての愛車であった彼女を迎えに行くためにだ。店主は一年前に高次郎に、こう言っていた“夏の終わりまでに俺が出した全ての条件を揃えてきたらコイツを譲ってやる”と。」
まあ、こういう切り口なら、カタナとはバイクであることはなんとなーく想像付くと思う。どっちにしても高校生が跨るものなんてそれほど種類があるわけでもないし。
「スズキのバイクで排気量が1100ccあって云々・・・」という説明然とした記述は大体面倒なときに使うことが多い。
特に思い入れが著者自身にもないか、登場人物らからしても既定事実であるがゆえに意識するほどのことはないが、読者にとっては想像が付かないものであり、だからといって無視も出来ないから説明する、といった程度のことで、おそらくここをくどくどと説明すると冗長になる傾向があり、興味がない人はかなり苦痛になる。
それだけに、形や色や雰囲気、匂いや音、視覚的にだけでなく五感に響くような描写は飽きられないために技を磨く必要はあるなと、常々思うのである。
その表現方法が無限とも思えるほどあるが故に、バランス感覚は必要だなと、いつもながら推敲か改稿かわからなくなるほどの作業に月単位でかかってしまう。
というわけで、きりがないのでまた次回