俺の小説の書き方 閑話休題 小説を書くこと読まれること
さてさて、気づけば俺がここ「小説家になろう」で活動を始めてから三年が経った。
早いものだ。直近二年は小説ばかり書いていた。それにしても飽きないものだなと思うが。
こういった投稿型サイトに参加すると自ずと他人の目が気にはなる。
自分ひとりで好き勝手に書いているときには気づかないこともある。評価や批評があまりもらえている方ではないので、全体としてはまだまだなんだろうと思うが、ありがたい話である。
特に、ほかの作家の方の考えや作品が読めるというのは実にありがたい。
なろう界の小説群は読んでいるうちにいろいろな事を考える。
新しい視点や表現方法、語彙にしても知識にしても、はっきり言うとこんなものをタダで読ませてもらっているのは申し訳ないというか、好きか嫌いかは別にして、大変な苦労の末に出来上がったものであることは想像足りる。
そう、作品を作るということは大変なのである。
ただ、だからといって誰もがそれを読んでくれるわけではない。
自作にしてもそうだが、一年も二年もかけて構想しても、好みに合わない、わからない、面白くないと言われることは多分にある。作者としては「とにかく読んでくれ、もうちょっと読みすすめてくれ」というのが切なる思いなのだが、無碍にブクマは解除される。
このケースならまだましである。そもそも箸にも棒にも引っかからないケースがほとんどで、ワンクリックすらしてもらえない。なろうの残酷なところは作者がリアルにアクセス数を垣間見れるところに有り、今日の一日の成果がわかってしまうところにある。この結果の捉え方を違うと筆を折るというようなことにもなりかねない。
ご存知のように春からジャンルの改変が行われたが、これがどのように作用したのかは今もってよくわからない。あまりにジャンルを細分化すると、複合要素が絡む作品の場合どっちつかずにもなるということもあり、有名無実になる恐れもある。
今回の大きな動きは『異世界転生物』だけが独立したことだが、つまるところそれほどに巨大なマーケットだったということを示しており、ある意味ジャンル的には超メジャーで、これからはどれほどの話が生まれるのだろうかという興味はある。もしくは衰退する可能性も大いにある。
なろう主催の小説大賞の総評に「異世界というタイトルが並んでいることにムッとされた方もいるでしょう」といった旨の記述があったが、まあこれは「また受賞作が異世界転生ばかりじゃないか」、という声に対するエクスキューズだろう。
読めばわかるが、要するに異世界ファンタジーモノでないと商業ラインに乗せるのははなはだ難しく、読者に媚びなければ作家なんてできないよ、ということを書いている。もう、ごもっともすぎて反論の余地もない。
ま、それはともかく
ジャンル細分化は探す側からすればかなり探しやすくなることは確かで、ピンポイントに近い好みの作品が選べる可能性はある。これは読者にとっても作者にとっても良い話だろう。
あらすじもあらかじめ読んでもらえる工夫は必要だが、なろうをはじめとしてほとんどのWEB小説サイトの作品には表紙がない。無論描く人も載せる場所もないのだから仕方がないのだが、読むか読まないか以前に手に取るかどうかを決めているのはやはりタイトルを含む表紙といってもいいだろう。
したがってひと目でその作品がどの傾向を持つものなのかがわかってしまう。
小説に限らず、多くの読者は表紙を見て本を手に取るからだ。
文学作品には延べて挿絵は設定されていない。表紙も幾何学文様だったりすることが多い。この場合は明らかにタイトルで勝負しているのだが、ラノベと一般文芸書はある意味で、出版社側が読者を選別しているともとれる。
第一関門として表紙は読者を限定するともいえるわけだ。
我々は、なろう小説の種類を表紙を見て選んでいない、あるいは並べられている本棚を見て選んでいない。目下判断基準がすぐに限定できない。
作家には得手不得手があるように、それを鑑賞したり扱ったりする側にも得手不得手がある。文字で書かれているものだから小説は誰にでも読めるというものでもない。
したがって、読み方のノリが違うとそのハードルを越えるのに多大な労力を要する場合がある。
従って、表紙のないWEB小説におけるタイトルは非常に重要なのだ。
ここで面白かったのが太宰治氏の『人間失格』の文庫本表紙を『デスノート』の作画で名を馳せた小畑健氏が手掛けたところ、一ヶ月半で七万五千部というあり得ない大ヒットとなった。
無論、広い層で誰もが知る作品名に、近年中に大ヒットした漫画の作画がついていれば、耳目を集めるのは当然だ。書店で見かけても思わず手に取ってしまうし、なんならこの機会に読んでみようか、などとも思う。(もしかしたら、若い人は漫画か、新作ラノベだと思って手にとった可能性もあるが)
俺も手に取ってしまった。
これはこれで「アリ」なんじゃないかと、思った。
賛否はあるだろうが、否定派は幾何学模様の表紙の方を買えばいいだけのことだと。
漫画の世界は群雄割拠、書店で漫画本コーナーが占める割合を考えてもひと昔とは違う。
ビジュアルに慣れたともいえる。受け入れる器が形成されたとも。
小説とて、もとはといえば娯楽作品である。なにも堅い、小難しいことが書かれているのが小説と言う訳ではない。表現手段が文字だけか、絵と吹き出しと効果音かの違いである、と言ってしまってもいい。
ストーリー漫画は物語の新しい表現技術というだけなのだ。
今から4600年も前の太古の読物の『ギルガメッシュ叙事詩』なども冒険物語である。
もちろん文字だけだが、人びとはこれを娯楽作品として読んだ。(書かれたからには読者は一定数いたという事である。識字率がどうだったのかはわからないが)
そこには作者、読者の、想像や妄想や希望が今と同じようにあっただろう。
少し脱線してしまったが、作者と読者のカテゴライズの一致というのは実に大事だなと思う。
王道の異世界ファンタジーと未来科学SF、これらの作品を表紙なしで判別するのは割と難しい。書籍化すると装丁にもこだわるから、出版社によっては幾何学模様になる。そういった場合の判断材料は作家の名前、帯、あらすじがあるならそれを参考にするくらいしかない。
無論本を買おうとする人はある程度下調べがあるので、買ってみたら全然好みではない、読んだことないカテゴリーだった、などということは少ないはずだ。だがここ「なろう」では起こり得る。
したがってカテゴリーとタイトルとあらすじは非常に重要なものになる。
やたら長いタイトルは少し前に流行り、今は落ち着きつつもあるが、まあラノベの特徴とも取れるからある意味文化になったなという感はある。
コミカルな内容はやはりタイトルもコミカルにしておくに越したことはない。
シリアスな内容ならば、一見謎の言葉でもいい。
一般書籍でもなろうでもやはりファーストインパクトはタイトルでしかなく、あらすじは表紙である。
つまるところ、こういった投稿型サイトの作品は口コミや宣伝、あるいは人間関係上でしか手に取ってみてもらえることは希である。
人をひきつけるタイトルは作者の意図と相反するかも知れない。
人を引き留め、もうワンクリックしてもらうにはあらすじを多少大げさに書く事もやむを得ないかも知れない。
導入部は細心の注意を払って書くべきかも知れない。
読者は失うものが何もない。例えあなたの作品を読まなくてもほぼ失うものはない。だが得もしていない。
ならば、自己演出は自分の魂が許す限り努力するべきかもしれない。
だが読む側に自分が回ってみようではないか。
一人の人間が「面白い物語を作りたい」と願って練り上げたストーリーは万人にとっても「面白い」可能性が高いのではないかと。
ジャンルにこだわり固執する読者も多いだろう。だがそれでは勿体ない。
家族や知り合い以外の人とは話をしない、関わらない、という人間関係よりも、知らない人とでも一期一会の出会いであっても話をしてみる、新しい出会いを求めてみる、こういった自分への働きかけができるほうが、人生はより楽しく幅が膨らむ。
自分の好きな食べ物だけではなく、嫌いだと思っていたものも味わってみる。新しい美味しさに気付くかもしれない。
他の人が好きだと言っているのなら、その面白さに興味を持ってみる。
作家は必ずしも万人に好かれるために創作をしているわけではないが、嫌われるために創作をしているわけではない。
その部分だけを勘案してみても、読むに値する、と俺は思う。
そしてその作品の面白さは、読んだ人にしかわからない。
どんな小説作品であっても、作家が心血を注ぎ努力して書き上げた作品である。読んだ人は必ず得るものがある。
だから、それだけでも得をしているのだと思う。