俺の小説の書き方 プロットを作る 3 構成編
久しぶりである。久しぶり過ぎて今まで何を書いたのか忘れつつあるが、最近小説の書き方そのものを語る場合、もはや系統立てて一元的に論じることが出来なくなってきたと思う次第。
そんなわけでタイトルは従来通りだが、内容に関しては他項と重複する箇所も出てくるとは思うが、緩く読んでほしいと思う。
さて、今回はプロットである。三回目である。
物語は旅行である。俺はそう思う。
プロットとは旅行計画としてもいいだろう。いつ、どこへ行くか、いつまで、だれと?
無論これらが計画通りにすべて進めば万事問題はないのだが、いったこともない場所に行こうとしているのだから当然イレギュラーにはぶち当たる。だからその分の余裕をも考えるのも計画である。
時刻表通りに乗り継ぎが完璧にゆくわけではない。道に迷うこともあれば、途中でトイレに行きたくなることもある、だから誰でも余裕をもって計画を立てる。
従ってプロットづくりは関所となる部分「関門」をまず設定することになる。
少し例えの話を書いてみたい。
例えば、突然「奈良に行って大仏をみたくなった」理由は「見たことがないから」だから「死ぬまでに実物を見たい」と。
これで頭とケツが決まる。つまり物語の空間軸的な目的。詳しくはまた別の項で説明するが、物語を紡ぐ場合、作者が「なぜ物語を書きたいと思ったのか」という点が第一義となる。それがなければ何も始まらない。逆に言えば一つ決まれば後は「決められる」。
ではこれを物語とするためには、奈良までの旅路の地空間軸を埋めなくてはいけない。
普通の人は切羽詰まって奈良に行くことなどしない。というか必要性がない、だから「死ぬまでに実物をみたかった」という理由をつける。
それでも「死ぬまでに一度は」などと思う人は少ないかもしれないので、切羽詰まった状況を考える。
主人公はホスピスに入院するがん患者。余命は三か月と告知されている。身よりはなく妻にも先立たれた。
さて、どうだろう。
余命三か月の末期がん患者が旅に出る、ということを考えただけでもこれは物語として面白い。
まず病院からいかにして抜け出すか、から始まり、とにかくただ歩くだけにも困難なのに、途中で置き引きに遭い全財産を失う。失意の中、親切な人の車に乗せてもらい目的地へと向かう途中、人との交流が生まれ感涙する。老人はやがて……
で、ここで、なぜ老人は全財産を持って歩くようなことをしたのか?
人との交流に感激するなどというのは、老人自身の過去体験に何があったのか?
なぜ大仏に拘るのか? なぜ一度見たいと思ったのか? 何かを確かめたかったのか?
プロットにおける関所とは問題(設問)で、そこに解答を添える。
そうすることで物語が熟成してゆく。
ここで大切なことを書いておかなければならないだろう。
何度かこのコラムでも繰り返しているが、「小説家になろう」においては実に顕著ではある「キャラクター性や状況性をもってして説明を省略する」傾向がある。
これは悪いことではないが、良いとも言い切れない。
というのは実は物語性を自ら狭めているのである。いわゆるテンプレート、それを扱うと物語進行がスピーディーで実にスマートになる反面、(説明をしなければならないが)説明をしないでもよくなるという弊害が生まれる。
しかし、主人公はもとより、登場人物は、作者が思っているほど(百分の一といってもいいくらい)読者にはイメージすら掴めないと踏んでおいてもいい。それは外見だけではなく、口調や性格も含めて何もわからない透明人間なのだと。
セリフは人物像を著す最良の手段ではあるが、セリフは所詮表面である。
セリフというものは、その人物が現在に至るまでに培ってきた表出する人間性の一部でしかない。我々はそのセリフの部分を聴いてある程度その人物のなりを想像する。自分の中にある情報資材を使ってある程度疑似再現ができるのである。
では作者がこれに、読者の疑似再現した像に人物表現を頼っていいものかと考えられないだろうか。
作者の口、つまり地の文のセクションでこの人物について語るべきことはないだろうか、ということを勘案しなくてはならないのではないだろうか。
いずれなりテンプレートと遜色のない人物像が浮かんだとしても、だ。
登場人物のセリフのやり取りでなんとなく人のなりが見えてくるのも小説の魅力ではあるが、登場人物が考えていることを地の分で客観的に説明することで、人そのものを表現するというのもまた小説ではあると思う。
そのくらい一人の人という存在を著すのは困難なことで、煩雑であると俺は思う。
故、小説上で主人公を語るには相応の時間がかかる。
生身で一人の人間を理解するのに多大な労力を要するように、小説においてもそれはじっくりと語られるべきなのだ。
しかし、それでは面白くない。
したがってその方法論として物語がある。
物語の中に用意された設問に主人公が応えてゆくことで、地の文で形而学的な説明をせずとも、読者の属する一般社会に照らして「たとえ話」で著すことができるということだ。
そのための設問がある。
プロットはそのれらの設問を都合よく、適当な位置に配置する作業といってもいい。
これらの段階を踏んだ先のケツ、つまり物語の終焉にはその人物がまるで生きてそこにいるかのように描かれてこそ小説とは言えまいか。
これは別に主人公や登場人物に限ってのことではない。架空の科学技術にしても、モンスターにしても、異世界にしても同じである。
作者は自分の言葉で人を、世界を語って、騙ってゆかねばならないのである。
そのために最も効率のいい流れは何なのか、ということをプロット上で突き詰めなくてはいけないだろう。




