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俺の小説の書き方 感情を作る

冒険物語の王道は、主人公が苦難を超えて大成する、といったものから、絢爛な生活を追われ、凋落した末に復権を遂げる、あるいは国を苦しめる魔王を倒すために様々な仲間の助力を得て成し遂げる、など、まあ物語とは緩急というか山谷があってこそ楽しいものだと言える。


ただ、俺はなかなか王道にはまれない性格をしているらしく、ファンタジーが書けない一因をになっていると思う。たとえば。


貧乏な主人公が苦難を超えても、周りがあまりにも努力しないので大成できない。

どれほど努力しても勝てない相手が居るから諦めさせる。

王族生活を追われた人物は元の身分を隠すのに精一杯で復権どころではない。

もともと持っているチート能力は開花することなく、普通の冒険者として過ごさせる。

魔物を断つ伝説の剣は存在しない。

そもそも、魔法も魔力もない

勇者が金銭でしか動かない。


おお、ファンタジー成り立たん。

そもそも、ファンタジーとは主人公を立てるための物語である(と思っているのだが)それがどうにもすっきりしない人物ではイカンではないかと。


よくある男性主人公像


熱い、もしくは普段冷静だが割と熱い

割と正義感ある、もしくは悪ぶっているが優しい

直情的、感傷的


要するに、若い。

というのは、おっさんになると


熱くない、冷めてる

正義感はない、そんなの持つだけ無駄

冷静 損得しか考えない


となるからである。


つまり俺はおっさんなのだ。冷静に考えたら世のため人のために働くなんざ、無駄としか思えんわけよ。

実際のところ誰でもそうだと思うんだが、若い時というのは自分と他人の垣根が曖昧でぼんやりしているから、世界と自分がつながっていると錯覚もする。だがそんなことは断じてない。


少なくとも人間は、自分に影響を及ぼす人間を付近に感じることはあっても、本質的にそれを自分と同等か近親と捉えることはない。これを大人になってからやっていると「お節介で空気が読めない奴」と揶揄される。

つまり返せば所詮は人間など一人であり、せいぜい他人とならないのは親族くらいのものであるということだ。


だから、友情というのも今ひとつ信用ならん感情で、実はかなりの割合で利害が絡んでいるか、共依存の関係にあるというだけで、そのバランスが崩れればたちまち敵となることも往々にある。

なぜ若者が友情を盾にするかというと。


たとえばわかりやすく言うとヤンキーなどは仲間を大切にする。

これは彼らが共依存の関係にあるからで、一定の幻想の中にいるからでもある。

大抵の個人はヤンキーになるまでの経緯があまり幸福ではないケースがあり、それに同調するものたちが集合し、大人や社会の体制に反発するというところから始まる。もしくは誰からも自身の存在を疎ましがられ社会に受け入れてもらえないがゆえに、表現手段として悪事の片棒を担ぐことで存在意義を示そうとしている集団行動である。

それゆえ、彼らは集団で行動する。

これは自分の存在意義を仲間同士で補強し合っているからで、単体になると何もできないのは当然なのである。

無論、ヤンキーにかかわらずとも、年齢が若いと単体で存在肯定や存在意義を認識できないため、仲間や友情を重視する傾向にはある。


仲間とは自分を受け入れてくれる集団、あるいは個人である


であるから、受け入れる余地がない、もしくは相反する私念や目的を持つ者は仲間にはなれない。

途中で変更があった場合も同じく、仲間内で内乱、離反、派閥化が起こるのはこういう現象による。

俺は今までこういった人間関係を自他ともに垣間見ているからこそ、「仲間だ! 友情だ!」とかいう文言には常に白ける。


まあ、本人がそれを信じたいならいいけど。


まとめると、各々の幻想が多く入り混じって、愛情とか友情とか人間愛のようなものが形成されていると言って間違いはない。漫画やアニメはこの辺を短絡化して分かりやすくしているだけのことだ。

感情には裏が必ずある。その感情が発生する源が必ずある。


だが、この感情の成り立ちを一から説明すると煩雑で冗長になるため、多くの映像媒体ではこの部分を省く傾向にある。


まあ、感情が先立つというのは先述したように、近親者以外ではなかなか起こりえないし、起きたところで多分に個々人の私欲や私念が入り込んだ衝動的行動である。


「誰かが行かないと助からないよ」

「くそっ! 俺が行く!」

「ダメだよ! 君まで死ぬぞ!」

「だからといってほおって置けるか!」


といったシチュエーションで、仲間を助けるために主人公は走るとすると、実に主人公然とした勇ましい行動と思えるだろう。

しかし、これを当然と受け止めてはいけない。主人公だって死のリスクを勘案しているはずだ。必ず仲間の死と自分の死を天秤にかけている。そりゃあ、主人公が不死身に近いチート能力者なら言うことないが、そもそもそれは反則技である。


少し例を書き出してみよう。


主人公は死にかけの仲間に異性的好意を寄せている

主人公は残っている仲間にデキる自分を見せたがっている

主人公は残っている仲間に対し不甲斐なさを感じ憤っている

主人公は死にかけの仲間を見捨てる気分の悪さを感じたくない

主人公は死にかけの仲間を助けるのは当たり前と思っている

主人公は死にかけの主人公が持つ○○を密かに奪おうとしている

主人公は死にかけの仲間を当然助けられると思っている


etc


このように、小説はその源を書かなければ薄っぺらい感情で進行する物語になる。感情というものは「曖昧な動機」と同義であるからこそ感情への考察と説明は丁寧に行わなければいけない。


つまり、SFでも「なんだかわからない力が作用して推進力が増した」などと書かれて納得する者はいないのと同じで、解るだろう、当然だろうというルーティンで感情を利用して登場人物を動かしてはいけない。


人の感情もエネルギーゆえ、そのエネルギーを発生させる元では様々な化学反応があるものである。まあ、だからこそ、人は人が持ち得ないその純粋無垢な気持ちを体感したくて物語を書くのだろうなぁ、とも思う。





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