俺の小説の書き方 本を作る 2
前回は本の厚みと文字数、および一般的な作品と言うものがどの程度の「文量」で書かれているのかを書き記してみた。
今回は、ページ、文字数と一話ごとの割合を考察してみる。今回はいずれも長編小説だが、構成という点では三者三様で実に面白い。読んでいた時は全く意識していなかった。
今回も文字数やページ数はおおよそなので、まともに計算はしていない。
『理由』宮部みゆき著
39文字×18行×676ページ ページ702文字 全474552文字 全21話
プロローグ約7ページ 4914文字
一話 45ページ 31590文字
二話 34ページ 23868文字
三話 14ページ 9828文字
ドキュメンタリータッチで一話ごとに登場人物の身辺や状況が神視点で綴られてゆく流れで、事件の全容が明らかになってゆくサスペンス作品。
本作品では、すべての記述が「情報」であるから、一話ごとのページもバラバラで、その時その人物が持つ必要な情報を記述してゆくという形を取っている。したがって序章や盛り上がりなどの要素はあまり感じられないかもしれない。そこに重きはおいていないと言っていいだろう。
『ダイイングアイ』東野圭吾著
40文字×17行×408ページ ページ680文字 全277440文字 全43話+プロローグ、エピローグ
プロローグ約9ページ 6120文字
一話 7ページ 4760文字
二話 10ページ 6800文字
一人の主人公が手探りで状況の解明と共に事件を暴いてゆく、三人称一元視点のミステリー作品。
三人称一元視点の典型的な書き方で、プロローグとエピローグもついて、平均一話につき、10ページという解りやすい構成。いわゆる起承転結というものが見えやすい作品。
『ホワイトアウト』真保裕一著
41文字×18行×628ページ ページ738文字 全463464文字 全5話+エピローグ
一話 35ページ 21980文字
二話 7ページ 4396文字
三話 9ページ 6642文字
四話 10ページ 7380文字
五話 560ページ 413280文字 (58話)
エピローグ 8ページ 5904文字
目次上では五話構成に見えるが、実際はプロローグが四つに分けられており、本編560ページ、58話をプロローグで示された四場面(四人)を渡り歩きながら三人称視点で描かれるアクションサスペンスドラマ。
主要な登場人物の視点が一話ごとに変わる。要は主人公視点、悪役視点、ヒロイン視点、という感じでドラマ進行させている。読者は映画を見ているような視点で読み進められるため、話が非常にわかりやすい。
なろうで書く場合は『ダイイングアイ』が最も適したスタイルであろうかと思われるが、本当のところ、作品の意図によってはどのような文字数であれ制限されるものではなく、読者側としても長いから短いからという判断基準で作品の良し悪しを測れないという事は覚えておいた方がいいだろう。
無論WEB上で読むという前提で、それを郷に従う方式で無理やり一話5000文字を構成するのもアリだが、作家はあえてそこに縛られる意味はないと思われるし、縛られればワンパターンなことしかできなくなる恐れがある。
小説は本来ブラウザで横書きで読む物ではないし、まして段落ごとに空行を入れる物でもない。
だから、やはり基本は縦書きで章構成、一話構成も話の内容や、物語のボリュームによって決定されるものであるべきで、そうでなければWEB上でしか通用しない作品になってしまう。
俺は思うのだが、読者は読みやすいから読んでいるというのと、面白いから読んでいるというのはまるで意味が違ってくるのではないだろうか。
一ページ目を開いたときに読みにくい(文量が多いなど)でブラウザバックされるのは作家の責任ではないだろう。(無論、横書きである以上その暗黙の作法に準拠して空行を入れはするが、段落ではなく句点ごとに空行を入れて文章を分解してしまうのはいかがなものかとは思う)
別にベストセラー作家が、とか芥川や直木賞が、とか文壇が、とかそういう事を言いたいのではなく、単純に無駄な段落だらけで下側スッカスカのページにしてしまうと、紙面がもったいない。
それを「読みやすいから」「読んでもらえるようにしたいから」というのでは作家の創作意思として曲がって居るように思えるのだが。
事実、面白い作品はどれほどの「文量」であれ、難解な記述や説明があれど、それを読み進めよう、理解しようと読者側が努力を怠らない。
作家も、読者を裏切るまいと努力して、より伝わるように、言い方は悪いがクドクドと設定説明や状況描写を書き連ねることに邁進している。序盤が冗長であるというのはどんな作品でも同じで、まず世界を説明しなければ話にならないからである。
作家は真面目に自身の作品世界に向き合うからこそ、後の展開を楽しませるようにも出来る。
読者は作品世界を理解しようとして読み進めるからこそ、後の展開を楽しむことが出来る。
読み始めの最初から面白い小説なんてのはまあ、ないだろう。
これをアニメやドラマや映画などの映像媒体と同じように、物語を綴る手段の一つとして同列に並べるのは少し違う。ドラマやアニメの一分で終わるシーンを小説では10ページを要する場合もあるためだ。
映像作品の場合は、絵なのだから、見れば一瞬でわかる。小説は下手をすれば千文字くらい読まなければならない。
千文字読んでやっと状況掴めた、が小説であり、一瞬静止画を見せられただけで理解できるのが映像作品である。これはもう媒体の違いなので比べるほうがおかしいのだが、そもそも読むという行為をある程度以上楽しめなければ、小説原作がアニメ化したならそっち見りゃいいや、で終わってしまう。
当然だろう。
本来娯楽作品として小説は生まれたのだが、当時に映画もアニメもなかったから、文字で表現したという感覚のほうが正しいと思う。先に映像技術の方が早く成立していれば(ありえないが)この流れは変わっただろう。
無論、演劇という分野も一種の映像作品であるのだが、やはり原初の演劇が見たままわかりやすいものであったということはなく、何らかの脚本を読んだ状況下でなければ情景は想像しにくいものだっただろう。それこそ小説を自動で読み上げるソフトと状況は変わらないかもしれない。
そういった中で、漫画というのは実にすごい媒体なのだが、長くなるので今回は割愛する。
少し脱線したが、最後にこれは大事なことなので前回に引き続き、もう一度書かせてもらう。
序盤というのは想像するよりも長いと考えるべきで、ある意味作品を読むためのオリエンテーションだとしても良いだろうと思う。無論掌編や短編などにはそれなりの長さの序盤があるだけで、結局物語の創作という基本に鑑みても、各話の文量や、構成は全体の大きさがどの程度なのか、どの程度の濃さなのか、という事で決定されるべきものであるという結論に尽きる。