俺の小説の書き方 とりあえず作る
処女作と言っていいのか、人には何等かそういうものがあるとは思う。作品というからには完成していなくてはいけない。
俺が最初に完成させることが出来た作品は原稿用紙三枚程度の掌編だった。これは当時流行っていたSNS内のコミュニティで発表したのが最初だったと思うが、“もしも明日日本で戦争が起きたら?”といった話で、いわば日本社会への皮肉を込めたショートショートのような作りのものだった。
この作品は実は『センチな君は戦地へ向かう』という駄洒落のタイトルから思いついたもので、実のところ何も考えずに書き始めた。冒頭はただ『戦争が始まった』という言葉だけでそこから想像を膨らませた。
正直に言うとこの時点でも小説の書き方そのものをまじめに勉強しようという気はさらさらなく、物語をどう終わらせることが出来るかという事にしか興味はなかった。
さて、本当に戦争が始まったとすれば世の中はどう動くだろうか? 実際の軍事情勢に鑑みてシミュレーションすればそれは架空戦争小説となり得るだろうが、そういうのではなく、ある一人の少年からそれを見るとどう映るのかと考えた。
少年とはすなわち俺を含む一般人であり、戦争という巨大な力の前にはどんな大人も少年と大差はなくなるのではないだろうか。
いくら日本が狭いといえど、全国が一斉に火の海になることなどない。まして主人公が運悪く“第一攻撃目標の都市”に住んでいるというのもご都合主義すぎる。だから目の前でいきなり爆発や銃弾が飛び交う光景は繰り広げられることはない。まず人々が戦争を知るのはメディアからだ。新聞やテレビ。
しかし報道は緩やかで宣戦布告がなされた国とは到底思えない。バラエティ番組すらしているという始末。確認できる限りでは戦闘地域に入った都市はない。当然被害もない。大人たちは政治的外交で戦争は回避できると高をくくりだす。
だが少年はあるきっかけから、目に見えない、報道には反映されない戦闘が行われていることを知る。
と、まあ、こういった話になるんだが、掌編ではこれをうやむやに終わらせて“戦争が起きていることを意図的に隠されている”不気味さだけを残したのだが、ついぞ続きが書きたくなった。
それが小説を書くきっかけ。
少年が自分だとしたらどうするだろうか。どう動くだろうか? それだけを考えて掌編の続きを書き始めた。まさにプロットなし。物語の登場人物が勝手に動いてしまい、そのままエンディングまで駆け抜けていったのはこの作品が最初で最後だろうと思う。
これほど気持ちの良い執筆感は後にも先にもなかっただろう。この体験が俺を小説執筆に駆り立てるのだが、なまじ自分でもうまく書けた気分がしていたため、実際数名に読んでもらったこともあり、かなり好評を得て、さらに悦に入ってしまったことは認める。俺は天才なんじゃないだろうかと。
しかし、そんな天才が一介の自動車整備工であろうはずはない。
悪かったのは、プロットなんぞ練らなくても小説は書ける、と誤解したことだ。いや、そういうのもあるかもしれないけど、今自分が直面している状況からして、行き当たりばったりで小説は完成しないということが証明できる。
一作目が完成してすぐに二作目を行き当たりばったりで書いた。若干詰まる感じがしたが、それでも書き終えた。それから何作か続けたが、行き詰まる頻度が高くなってくる。話が止まってしまうのだ。
それは表現的なものでもあり、矛盾でもあり、たびたび最初の項に戻って設定を変えなくてはいけないという無限ループに陥ることもしばしば。
学習能力のない俺はネタだけが沸き起こり、勢いで執筆開始、行き詰まり、執筆停止を繰り返して十数本もの未完作品をメモリーに残したままになっている。
これはある作品が執筆に行き詰まると、別の作品で気分転換しようという現実逃避がなす業であり、どこかで「これを書いてるうちにいいアイディアが浮かぶだろう」などと楽観しているせいでもある。
こういう堂々巡りを仕事の合間に続けて、四年が過ぎた。
そしてようやく気付いた。ちゃんと勉強しなければならない、と。そこで“プロット”という言葉を初めて覚えた。ああ、なるほどなぁ、と。