俺の小説の書き方 話を作る 5
詳しくは後記すると言いつつ、放置していた。
さて、小説は読む対象により取られ方が違うのかという点を少し書こう。
たとえば、現在フジテレビ系列で放映されている異色の月9ドラマといえば「信長協奏曲」(原作:石井あゆみ)であるが、簡単にあらすじを示すと、
タイムスリップした高校生が織田信長に成り代わり戦国時代を生き抜いてゆく
という、ありがちな題材の作品なのだが、俺は面白いと思っている。
主人公は現代のおバカな高校生で、その感覚のまま戦国時代のあり方に苦悶葛藤を抱えながら、それでもと、人間の普遍的な行動原理に基づいて歴史を意図せずなぞってゆくという書き方は実に面白い。
実在の戦国武将や家臣を登場させてはいるが、それぞれは現実と乖離しない程度にキャラクター化されておりそれらの思考や行動、言動がいかなる発着点かというあたりを創作で埋め合わせている(いわば、教科書には書かれていない部分)あたりは秀逸だと思う。
しかしながら、この作品。
実は戦国時代の歴史を最低限知っていなければ面白くない。そもそも「織田信長って誰?」な状態だともはやファンタジーにもならない。
逆に、歴史を深く知っている人ほど、この作品は面白いと感じる。
であるから、評価としては二分しているというのが現実だそうだ。面白くないといっている人間は事実「明智光秀」すら知らないのだからそりゃ面白くもないだろう。
では本題だ。
物書きの技術というのは、第三者にもわかりやすいように、伝わりやすいように「書く技術」でありそれを為せる者が小説家なのである。という前提はある。
しかし、それを読み解くことができる者が読者と言えるのである。
すこし頭を固くして読んでもらいたい。前記「話を作る 4」でも触れたがもう少し突っ込んでみよう。
読書という行為において、三つの触媒があると仮定する。
第一の触媒とは作品そのもの、作者が表現する言語文書そのものである。
第二の触媒とは読者の読書能力、つまり言語読解能力、各種の知識と認識能力を指す。
そして、第三の触媒とは外部の既成媒体や他者創作による別の作品や参考にすべき既成物件を指す。
と簡単に規定してみよう。
本における読書という行為はこの三つの触媒を経由して成立していると考えてもいいとは思うが、第一、第二はすっと理解ができるだろうが、第三の既成媒体による触媒というのは、わかりにくいかも知れない。
この第三触媒は想像力を補完する役目を担うといっても良いだろう。またその想像力の相乗効果として、外部媒体を利用することもできる。
分かりやすく説明すると、少々乱暴だが、外部媒体を使用、利用しての作品作りの代表格として二次創作やテンプレート創作があるといっていい。
あるいはジャンル、カテゴリーという概念も第三触媒で、作者や読者が「どの世界に属しているか」という指針に沿って創作をすることで、ある程度の表現方法を短絡することができるというものである。つまり、第三触媒を間接的に共有しているということである。
これがいわゆる冒頭で話した、「織田信長を知っているか」「日本の戦国時代を知っているか」ということを指す。通常このあたりは「常識として知っているだろう」という指針があり、それゆえに一般にも支持される作品となり得る。
では、少し潜って一般部門に上がらないサブカルにおける作品はどうなのかというと。
同じく、例えるなら、(かなり俗っぽいところから切り込むが)ガンダムを知らない世代やカテゴリーの人間にガンダムを一から説明するのは骨の折れる作業である。であるからそのような人たちは「モビルスーツ」という概念すらなく、いくら全高18メートルの人型汎用兵器と説明されたとて想像を絶するものだけに、頭に思い浮かべることすら不可能である。
ならば、ガンダムは知らないが「マジンガー」は判るという人がいたとしよう。
ガンダムを説明する際に、マジンガーはわかるというのであれば、「モビルスーツとはマジンガーのようなもの」と形容することで一気にモビルスーツという概念が具現化する。
現代人が「巨大ロボ」と聞いて「それはどんな物体だ?」と首をかしげることがないのは、先の第三触媒が効いているからである。
無論ながら現在はこの触媒がさらに細分化されて、カテゴリーもジャンルも放散しているのはご存知のように、元ネタを知っている人にしかわからない話、というものには事欠かない。
二次創作作品とはそれの最もたるものであることはわかるだろう。
では、テンプレ作品はどうなのかというと、二次ではないが、「その作品の世界観やルール」といったもののカテゴリーに読者が属していなければ、まるでなんのことを話しているのか、どんな状況を説明しているのかわからなくなる可能性を秘めている。
つまり第三触媒の発動を惹起させる記述が特になければ、永久に理解されない作品となるということだ。
ここで、第一触媒たる作者の言語文章表現能力が問われる。
(無論、読者層を絞っているからくどくどと既成の設定やプロットをなぞる必要はないという作者もいるだろうが、書物としては不完全であるということは肝にとどめたほうがいい)
字も読めないガキ相手に小説を書くものはいないだろうが、読者層を絞るという行為は本来書物である限り、ルビを振る、ト書きで説明を加える、難解な熟語を使用しないといった、第二触媒を意識してのものであるべきで、第三触媒で絞っても偏った読者層が増長するだけで、全体的に馴れ合うため、書物としての完成度が上がらないから、いつまでもサブカル的な位置づけから脱却できない。
これが各種の娯楽媒体とそれらをこよなく愛する人々が受けている残念な扱いというものなのだ。
悪く言えば自ら殻に篭っているという風に言える。
俺なら読者の層を絞るような真似はしない。字が読めない奴は相手にしないが、それなりの大人の読書に耐えられる読み物とすることを目指す。だから第一触媒の立場として第三触媒を普遍的なものに置き換えて、第三触媒を不要な物にする努力をできる限りする。
この考え方は、人物の描写や風景、感情もしかり、各種の設定など「作者の独りよがり表現」に陥ることを極力防いでくれる。または「作者が傾倒する既成媒体への相似」を防ぐ役目にもなる。
そこから生まれる表現というものには無限の可能性があり、興味深い結果を生み出してくれる。
テンプレを使わないということは、数学で言えば、公式を使わないで問題を解くということに近い。
結果は同じだとしても、プロセスに面白さが生まれる素地がある。
まあ、今回は余りにも抽象的でわかりにくい話だったかもしれないが、もっとうまく説明しろと言われると本が一冊書けそうなので、このあたりで牽制にとどめておく。




