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俺の小説の書き方 会話を作る 1

小説にはだいたい人物は欠かせない。それに大体セリフがある。


セリフがないと無言劇になる。行動を記述した描写のみで登場人物の心情や、会話を表現しなくてはならなくなる。そういう小説もあるし、変でもないし、演出として大アリである。


でも、たいていは、登場人物に対して感情移入をしたいのは作者も読者も同じくで、人のなりを文章だけで推し量るのに非常に便利なツールがセリフというものだ。


ただ、少し間違うととんでもなく誤解されることもある。


男性と女性のセリフは現代ではさほどに差異はない。これは方言にかかわらず。だからあえて男性が言っているのか女性が言っているのかを明記しておかねばわからないことはある。

よく、複数人が会話に参画しているシーンで


「~」のセリフが連続するシーンがあるが、明確にされなければ本当に混乱を来す。だから、


「~」と○○は言った。 


なる記述が必要になる。しかしながらこれを連続させるとテンポが悪い。実際の会話というよりも説明文か脚本を読んでいるかのような気分になる。


この弊害を避けるために“口調の変化”というものを多用することはあるが、こちらも実は危うい橋で、ファンタジー作品などはやりやすくても、現代ものは難しい。

「~だにゃ」とセリフの末尾に「にゃ」がつくという猫耳キャラなら納得もいくが、現代ものでこれをやると、この人物は“変な人”にしか映らない。そういう場なら構わないが、あまりないだろう。


「ごわす」も「ざます」も俺は聞いたことがない。

「がんす」は聞いたことあるが「フンガー」はない。


多くセリフは関東弁、あるいは標準語で話されることが多い。

昨今では関西の芸人が多く東京進出しているため、関西弁もメジャーな言語として浸透はしている。

そのため、関西出身でもない俳優(あるいは声優)が下手な関西弁を使用してダメ出しを食らうリスクが増大し、ネイティブを起用することが奨励されている。


これは小説においても同様で、実際にある方言などで間違った用法をすると一瞬でダメ出しになる。

関西弁といっても幅が広く、およそ関ヶ原以西、岡山あたりまでを関西弁圏としたとしても、かなり変化に富んでいる。大阪ですら北中南部で相当違いがあり、南部出身者の喋りはかなりきつい。対して北部は京都の影響を受けるためか、おっとりとした感じになる。


これも関西や大阪に限った事ではないが、地域により本当に細かく分かれていることだろうし、特定の土地、町などを舞台にする場合は、かなり気をつけなければすぐにボロが出る。

そういうことを気にしたくないという人は、あえてどこの地域であっても“標準語”でセリフを記述することもある。ここだけは風土を無視するということだ。


言葉だけは、一週間くらい現地人と行動をともにしなければ習得できない。逆に言えば、博多弁辞書があったとしても、その用法を理解するよりも直接話すほうが手っ取り早いし、正確なのである。

博多弁といえば有名なのが“ばってん”だが、このばってんの意味は「だが、だけれど」ぐらいの接続詞の意味だが、九州人はかなり多用する。


定形通り接続詞としてだけ使うならそれでも良いが、実際の話し言葉はそうではないことが多いから困る。関西でこれに似た言葉が「やけど」「そやけど」「せやから」であり、こちらも前後の文脈を無視して挿入されることは少なくはない。


関西人だからではない、これはどこでも気のおけないもの同士の会話なら起こり得る。


つまるところ、生の話し言葉というのは論理的ではないことが多く、雰囲気で話しているということが多い。それが正確に伝わるのは生の人間同士の会話だからであると言うしかない。

なれば、小説における話し言葉は正確でなくてはならないという結論にも至るのだが、自然ではなくなるという弊害もまた生む。


前記「閑話休題」でも述べたが、理路整然としたセリフは理解しやすいが不自然さもまた生み出しやすいということだ。

また、方言を多用すると読みづらくなる、という意見もあるが、俺はこだわるべき点ではないかと思う。

方言というのは明文化されにくい(文字になりにくい)ためだ。

大抵文書類というものは標準語で書かれるため、通常の作家ではない人が文章をしたためる機会があったとしてもビジネスの場か手紙くらいのものだろう。それらのどちらにしても方言というものを盛り込むことはまずしない。

なれば、方言が文字として現れるのは最早物語の中しかないと言えるのではないだろうか?


ある意味で、地方の作家が自身の土地の言葉を使えるのは一つの武器とも言える。これはその土地の知識と同じであり、風土はひとつの武器なのである。実はこれは誰しも持っているものなのだが。


それから読者への配慮についてだが。

逆を返すと、読者はそういった方言表現、風土表現というものを読み解くこともまた楽しまなければいけない。我々はアナウンサーではないのだから、表現の幅を制限してまで子供や無知蒙昧な輩に気を配る必要はない(無論、ルビを振るなどの配慮は必要だ)

小説とは、その時代時代の生に近い言葉を紡ぐ媒体である。

だからこそ、平滑化するとそれはいつの時代にどこで書かれたものなのかがわからなくなる。

そんな事はどうでもいい、と言う者もいるかもしれないが、俺からすれば方言や風土を無視して楽して読書をしたいという頭の構造の方がどうでもいいものである。判からなければ調べろってこった。


なぜ、人は頭が悪くなるのか、ということを考えたことがあるだろうか?


それは、選択肢が増えたからである。選択に上下、高低、という差異が生まれたからである。

ほっておけば人は楽な方へと傾く。つまり努力をせずとも良くなるということなのだ。

これを小説に当てはめるとどういうことになるのかはお分かりだろう。



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