俺の小説の書き方 話を作る 4
前回、テンプレはいかん、的な書き方をしたが、実際メデイアはテンプレ三昧である。
でなければ、制作自体が(創作ではなく)滞って仕方がないから、テンプレに当てはめる。
予定調和、お約束、というのは先にも書いたが、やはり一定の支持を受ける限りは、視聴者なり読者なりが求めて望んでいることにある。
物語の最もたるテンプレ様式は、童話や昔話を見ればわかる。
何百年と語り継がれ、読んだ者がだいたい同じような感覚と感想を抱くというのは、人間真理が関与しているからであると思うし、社会成熟度により改編もされながら、概ねの流れは変えていないことから、これは不変のものだなといいきっても差し支えはない。
水戸黄門は権力的にではあるが、確実に最強であり、絶対に負けはない。暴れん坊将軍も権力と武力で絶対に負けない。思えば俺TUEEE(最初から最強)は当たり前のようにあるのだ。
しかしながら一般庶民が彼らを許容できるのは、「徳川家」というバックグラウンドがあるからで、それを知らないものはいないからであり、同時に彼らは権力や武力を無駄にひけらかすようなことをしないところに、任侠道があると感じるからである。
人が自然とそのような行為をかっこいい、粋だと感じるのは、自慢しない奥ゆかしさがあるからで、日本人の美徳にも通じるところかも知れない。
先に創作は独創だという意味に近いことを書いたが、実際すべてのテンプレ構造を破棄してしまうと、おそらくは物語が成り立たなくなる。
だから正確には、現在創作されている物語も、某かの影響を受けたテンプレ構造の寄せ集めであり、それらは順列を組み替えて存在しているに過ぎない。
ただ、売れるパターンが既成化しても、昔は二三度繰り返しても受け入れられたが、今は二番煎じはほとんど通用しないと言って良いだろう。
ごまかしがきかない、と言ってしまえばそれまでだが、傍で鋭意創作している連中が居る中で、何ゆえに焼き直しのような作品を作るのか? と問われても仕方がない。
創作する人口は一昔前に比べるとバカみたいに増えてはいる。
小説家志望、漫画家志望、脚本家志望、まだ限られた天才が業界にいた頃は、それはそれは不遇で悲惨な業界で、そんな道に進むとか言うと親に泣かれるほどだったのだが、現在のように食うに困らず、といった世の中が完成すれば、好きなことをしたい、などと誰もが考えるようになる。
実際、世の中がそうなっているからではあるが、夢を本格的に追っても馬鹿にされなくなったということは大きい。
だからこそほかとは違うものをひり出そうとあらゆるテンプレが詰まった我々現代人は、頭を駆使して創作を続けるのだ。ハードルは年を追うごとに高まっている。次から次へと新作は生まれる。
人によっては、自分が書いた小説と酷似した作品がテレビドラマになった人もいるだろう。
しかし、キャラクタ設定や世界観までそっくりだったらどこかでパクられたと思うかもしれないが、他人が同じことを考えたとしても、そうそう頭に描く景色や人物像というのは同じにはならないから、展開が似ていたとしても、同じ作品とはみなせないとなるものの方が多い。
では、似過ぎていると、あなたの作品がテンプレだと断じられるのはなぜだろうか? と疑問に思うだろうか。
それは、あなたの頭の中にあるものを他の人も観ているからに過ぎない。
テンプレを外しているつもりであっても、バックグラウンドに既製の作品が横たわっている限りは、何をどう変えようと似てしまう。
テンプレとは料理で例えるなら、美味しい料理を食べた、自分もこのような料理を作りたい、でも全く同じなのは作れない、だから材料だけ合わせて見よう見まねで作ってみました、オリジナルほど美味しくなかったです。
ということなのである。
そこから脱するには、様々な料理を食べて料理の本質を知ることにある。何故美味しかったのか、○○と○○の組み合わせが良かったからだ。だからそれを応用すれば別の食材でも作れるかも知れない、いや、これとこれを足したほうが美味しいだろう、オリジナルとは似ても似つかないがそこそこ美味しいものができました。
同じように料理を作っても、これほどの違いがある。要するに、どれだけ多くのレシピ(テンプレ)を持っているかが料理する(作品を書く)人間の才能に関わってくると言っても過言ではない。
同系統のドラマ作品や漫画作品やアニメ作品ばかりを視聴すると、間違いなくこの傾向は現出する。視覚から得た二次元情報が脳に残留し、景色や人物像を思い浮かべるときに、それらから得た情報を足がかりにして文字に起こすからだ。
おそらくではあるが、ファンタジー系のラノベ作家の多くは、脳内で再生される画像はアニメだと思う。
文学系なら感銘を受けた映画作品、大衆小説ならドラマなどになるだろう。
だが、少し考えてみて欲しい。モデルになる風景は三次元の現実世界にリアルにそこにあるということを。人の顔も話し方も千差万別、行動も動きも同じ人など一人もいない。
描きたい風景が見当たらなければ探すことをおすすめする。自分の脳内にあるものよりもいいものが見つかるかも知れない。
自身が普段触れている日常こそリアルなドラマで、次に何が起きるかわからないという出来事の連続なのである。だからこそ、若い人は引きこもっていても何も書けない。情報蓄積がないのだから、自ら収集しにゆかなければならない。
年をとった人とて同じである。人生経験の蓄積はあれど、時流に乗れずに寒いギャグを書いてしまわないよう、アンテナは伸ばして受信状態を確保しておくべきだ。
小説を書く人は、その作品ジャンルにかかわらず、何事にも好き嫌いなく冷静な目で普遍的に捉える訓練が必要だろう。極論すれば親の死ですら冷静に受け止めて思惟を巡らせるくらいの行為を必要とされる。親の死に目など一生に一度の経験だから、これは実に貴重である。
とは言えど、私も知らないことは多いし、一人では核心まで触れられないことも多い。だから間近に詳しい人や本職さんが居れば、迷わず訊く。ピンポイントであっても、素人が考えないような思いや考え方に感銘を受けることは多々ある。逆にこちらが誤解していることも多々ある。
ま、そういうことで、俺は安易にテンプレにはまらないようにはしている。
敢えて言うなら、“お前の作品はテンプラだ”と呼ばれるようにはなりたいものである。




