俺の小説の書き方 話を作る 2
今回はプロット的な話。
前回、物語は長大な冗談と先に述べたが、嘘も百回言えば真になると言われるように、冗談も緻密に懇切丁寧に事の詳細を述べてゆけば誰もそれが冗談だとは思わなくなるのと同じであるが、最終的にそれだけ積み上げたものを最後は転じて結することができなければ、ものすごい不完全燃焼感に襲われ、オチを期待していた大阪人は激怒する。
物語に引き込むために文章力や表現力は言わずもがな、展開の仕方はかなり重要で、話さなくてもいいことは余計に話さない。大事なところは強調するといったことを念頭に置かなければ、やはり飽きられる。
そのかなり大事な部分であるのが「起承」で、物語の八十パーセントはまあ、この部分だろうと思う。
概念的に物語は積み上げてゆく作業のように思えるが、実は創作側からすれば「積み上げた積み木を崩れないように差し引いてゆく」ことだと思うのである。 なぜなら、「物語にすべてを書き込むことは不可能だから」である。
ちょうど積み木玩具の「ジェンガ」を思い浮かべてもらえるとわかりやすい。
最初は小さな無数の小片の積み木をタワー状に積み上げているところからスタートするのだが、この積み木の小片を互いに一片ずつタワーから引き抜いてゆく。この作業の中で誤ってタワーを全壊させてしまったらそのものが負けということになるのだが、熟達者同士の勝負の場では、絶妙なバランスで保った虫食いのタワーが屹立する光景を見ることができる。
あと一ミリでも触れれば一瞬で崩壊というのがこのゲームの醍醐味なのだが、展開が進めば進むほど抜き取れる積み木は減ってゆく。ましてや最下段の積み木を抜き取ることは最も崩壊リスクが高い。
つまりタワーを構成する積み木をどれだけ減らせるか、そしてなおかつ一片一片の積み木が持つポジションにどれほどの重要性を持たせるか、という作業が必要なのではないかと思う。
この喩えにおいては「描写」や「表現」などというものは積み木の色や積まれた角度を表す程度のことであるから、ここでは気にしなくてもいい。
プロットはかなり重要、というかないと話にならん。
前にも書いたが、俺はプロットを組まない。だから書ききれない。当たり前。
最低でも着地地点を決めていなければ、跳躍力を決定する踏み込みの力加減も設定できないし、助走の距離も計れない。
そういう理屈なので、終わり方ぐらいは・・・というより終わり方だけ決めてもいいくらい大事。目的のないものは生まれ得ない。
しかし、ひとつだけ言いたい。
物語が発生して、登場人物が現れて、そいつらが発言するたびに性格が形成されてゆき行動原理が決定されて、物語を進めてゆく。
人に読ませるものとして、エンターテイメントとしては不良品だが、実は現実の人生などというものは、これそのもので、我々は物語の中の登場人物で、何らかの物語を日々綴っている。着地地点もわからないまま。
そういう我々が目的のある、到達地点のある、結果が出る、カタルシスを物語に求めたがるのは、無意識的な希求によるものかなと。
人生は自分の物語、人類の歴史は神の物語、ならば神は何らかの物語の中にいるのだろうか? というパラドクスが生じる。
小説における著作者は神である。故に最低でも路頭に迷わない程度には物語を書いて欲しいと、登場人物は思うかもしれない。




