センチな君は戦地へ向かう 皆川譲二によるレポート
『竹田島紛争 皆川譲二によるレポート』
竹田島問題
国民は自国が領有権を主張する竹田島を隣国に占拠される現状に、口で批判はするものの状況打破へのきな臭い行動、つまり紛争を望むことはなく、話し合いで解決する国際司法裁判所への提言を求めた。
だが、国際世論とはこの平和な国が望むほど寛容で優しいものではなく、実質支配もまた実績であるという見方をする傾向も否めない。つまりは何十年間もの間、その不当に占拠される危機を放置してきた側にもそれなりのスタンスを示さなければ、いくら歴史的な認識を持ち出しても説得力が薄いというわけだ。
ちなみに、類似のケースに北方領土の問題があるが、これは先の大戦下、終戦の折になし崩し的に軍事占領さ れた経緯から、終戦講和直後から当該国との折衝が行われている。完全に“放置”してきた竹田島とはケースが異なる。
高度経済成長を経て、冷戦を経て、世界の勢力図が書き換えられる中、もはや世界大戦と言う言葉は死語となりつつあるといった幻想はあくまでこの国の人間のみの盲目的希望であった。
先進国でありながら自国のビジョンを持たず、自らで道を切り開くことをしない国民性を国際的に非難されることもしばしばであったが、なにより世界一平和な国は同時に他国の追随を許さないほどの経済大国であることが、竹田島の一件を含む国が抱えるフラストレーションを見て見ぬふりに追い込む結果となった。
これらを打開するきっかけを作ったのが幸田政権であった。
17年 9月 幸田政権
世界はそれほど平和ではない、そう宣言したのは当時外務大臣を務めた幸田幸郎であった。
幸田が内閣総理大臣に就任し、その発言は時折周辺国家への圧力とも取れる摩擦を起こしたが、平和に安寧した国民が遠くない外的な危機に警鐘を鳴らす幸田首相の弁を現実的なものと捉えた。
逆に反戦平和を叫ぶ勢力を国家転覆をもくろむ左翼勢力の尖兵と批判する動きになることは、半ば仕組まれたものだったにせよ、主導力ある力強い政権はおおむね歓迎され、戦後最も高い支持率を記録した内閣といえた。
かくして幸田政権下、隣国の不穏な動きに対しての即時対応を図るため防衛隊の権限拡大という名の下に防衛庁改め防衛省、国防隊改め国防軍とすることに国民投票の結果、憲法が改正された。
当時の世論の風潮としてはやむをえないものであったとしても、依然反対論者は絶えるものではなく、実質は防性軍隊の域を超えないものと制約の多くが付け加えられた。
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20年 9月 矢部政権
何かと右よりな保守言論が目立った幸田政権はやがて任期満了、この時官房長官を務めた矢部輝夫が内閣を継承し矢部内閣が発足する。
無論矢部が幸田の後を継ぐものとして政権与党は続投されたが、幸田政権時代に進めた改革の負担増のしわ寄せが民間レベルにまで達するにつれ、更なる軍国化への道を危ぶむ声が盛り上がりつつあったことは事実だった。
そういった背景の下持ち上がったのが竹田島問題である。
過去に国内外に未曾有の大惨事を引き起こした大戦を経験したこの国が、再び戦禍に包まれることへの想像力の乏しさは悪い意味で発現した。
仮に竹田島の隣国勢力を武力でもって排除するとして、紛争になったとき防衛隊時代には不可能であった被害を未然に防ぐ攻性戦略を望む声と、あくまで波風を最小限に抑える講和条約の平和的締結を希求するため従来どおりの防衛行動に留める防性戦略にこだわるべきという意見が党内でも世論でも真っ二つに割れ、あわや矢部内閣は崩壊の危機に瀕していた。
逆にいえばこの問題は政権維持のカギを握っていたといっても過言ではなった。議論は膠着しながらもあらゆる戦略プランが沸き起こり、隣国の動きと共に紛争の現実化も避けられないとの見解に達するまでそう多くの時間を要しなかった。
そこで矢部政権は一つの賭けへと出ることになる。
21年 7月 竹田島紛争危機
それは孤立させた北岸市のみを戦域化することで、その他の地域の国民生活へのあらゆる影響を抑え、被害の拡大を未然に防ぎ、情報統制の効率化を含め、実質市域一帯を犠牲にするともいえる作戦であった。
表向きは戦後予想される左派組織を中心とした世論の批判を避ける為、戦域からの民間移送と敵部隊の上陸阻止を第一の任務とする防性戦略として立案された。
しかしその裏で一つの都市を灰燼としても要塞島本隊と対峙し凌駕しうる戦力を投入しなければ国防軍の存在意義が損なわれる恐れがあるという、誠に滑稽な話だがこの機に要塞島奪還は是が非でも達成すべき責務とされた。
戦争下において、ありえない話だが、この戦闘に敗北する条件はないという楽観的な政府見解の元での戦略である。これが、当初から予測しうる侵攻に対する対策の根拠であり、結果ありきの戦略構想の正体である。
当然ながら、現実はそう上手くいくものではない。
21年 8月 竹田島紛争勃発
約十万人の市民、百パーセントの安全な避難移送を目指したとはいえ、こぼれる穴はどこかに空いている。政府筋の楽観的な戦術構想にゲリラ部隊という奇襲は想定されていなかった。
そのため樫尾町を中心とした地域では開戦前からすでに侵攻が始まっており、地域の住民や施設は蹂躙され、相当数の犠牲を出していた。戦争に一定のルールがありそれを破る事がタブーであるなど戦勝国の理論であり、最初から勝てる見込みのない弱小無法国家にとって宣戦布告など都合のいい目くらましでしかない。
そのゲリラをテロと断罪するか狡猾な戦術として捉えるか、それはもはや戦時下において何を正義とし悪とするかという呑気な検証でしかない。
ここからは順を追って時系列的に表記する。
8月 10日 開戦初日
午前二時、予測外の攻撃に沿岸を警戒していた国防軍の少数部隊は壊滅に追いやられることになる。宣戦が布告されたのはこれより五時間も後のことである。
樫尾町に上陸を果たした隣国のゲリラは地域住民を襲撃、施設の占拠、通信網の破壊などを主に行い、事実上町は一時占拠された。
大きな町ではなかったにせよ拘束された民間人は三百人近く死傷者は百人前後という曖昧な数値ながら、戦闘配備もままならない国防軍の足並みを大きく乱すことになった。
国防軍の本隊が原発がある隣町の若宮町に集結しながら、樫尾町の陥落を許す結果となったことは“市民生活に優しい武力的外交”という政府が考える戦略プランの崩落と戦後世論に大きく影響を与える可能性が懸念された。
そこで急遽持ち出されたのが樫尾町民及び樫尾町の奪還作戦である。この奪還作戦については報道陣の介入を一切許さず、報道管制が敷かれた。それが開戦直後に何も知らない国民がみた北岸市の「動きなし、異常なし」という報道の正体である。
報道では北岸市は避難民で溢れ返ってはいたが、鉄道により順次中州の外への都市へと滞りなく移送は行われて、約半数以上の市民の避難は完了していた。
8月 11日
若宮町を警戒する国防軍本隊司令部はマスコミに悟られないために、この樫尾町奪還作戦を秘密裏に立案し部隊編成を行う必要があった。その為正規の部隊は動かすことが出来ず予備役召集された兵員を投入することになった。
これが後に大きな非難を浴びることになるのだが、当初の司令部も政府もより保身的な判断に身を任せている現状で、上陸部隊の規模からして樫尾町の奪還は時間の問題だと考えられていた。
結果的には十三日の午後時点で樫尾町奪還は完了したのだが、被害の規模は予想よりはるかに大きかった。なにより敵部隊がゲリラ戦を展開し民間人が半ば人質のような形でそこここに集められ拘束されている状態では航空支援も得られず、ミサイル攻撃による敵拠点の破壊もままならず、旧態然の白兵戦闘にならざるを得なかった。
そのため戦闘地域は近代戦にあるまじき凄惨な光景が繰り広げられた。
その見えない血なまぐさい戦闘の表側、メディアを通じて報道される国防本隊の華々しい近代化戦闘は教国の軍事技術をはるかに凌ぎ、圧倒的な防衛力を国内外共に示す結果となった。
それを盾に、文字通り敵部隊の一歩の上陸も許さなかった、と後の司令部は会見で話している。しかし、一部で樫尾町側とは別動の事前に潜入していた煽動部隊が存在したのではないかとの疑惑を追及されたこともあり、北岸市でも単発的な小競り合いがあったことは、未確認ではあると断りを入れながら、一部それを認める発言をしている。
21年 9月
北海岸竹田島紛争(通俗名 北岸戦争)は同年九月十四日をもって終戦。日ごろより想定されていた隣国の奇襲攻撃に対する国防軍の水際防衛が功を奏し、近代兵器を駆使した迎撃作戦により教国は事実上、要塞化された竹田島からの撤退を余儀なくされ、終戦協定が結ばれた。
竹田島の領有権に関して国際司法裁判所は隣国の主張を退け、国際世論は歴史の捏造と情報操作を繰り返す教国の姿勢を厳しく批判した。
この事件後国内保守派は国軍の強化、同盟国との連携をより密なものとすることを求める声が強まりを見せたが、現矢部政権は周辺国家の不安を煽るなどの懸念から今後の課題として据え置くとし、国防軍は改めて「健全な独立国家における自主的な軍事抑止力の保有継続の必要性」を証明したにとどまった。
21年 12月
ネット情報などに樫尾町の一部が隣国のゲリラ部隊に蹂躙され数十名の死傷者と建造物の破壊などが十数棟、橋や道路のライフライン、通信設備の断絶などを出した一都市の局地戦闘があったのだとされる疑惑が浮上し、マスコミがこれを大きく取り上げた。無論政府はこれを従来通り小競り合い程度とし公式な発表を避けた。
また、この情報を元にした一部の識者やネット上などの議論で、若宮町の原子力発電所の臨界事故誘発の危険性は、本隊のみを水際で食い止めることしか出来なかった国防軍の防衛力を疑問視する声が強く上がった。
その反面北岸の三角州に位置する北岸市の地形上、市民への被害は最小限に抑えられたと言う意見も多く語られた。
事実、全域は州ににかかる橋が落とされ、避難命令が発令され、陸の孤島状態となったことが功を奏して、残酷な数値であるが九十八パーセントの市民を無事避難させることに成功したという。
無論家や家族を失った人々にとってはそれでもやりきれない戦争だったであろうことは想像に難くない、国家間のいさかいに巻き込まれた一方的な被害者であるという立場から国を相手取った一部では訴訟がはじまっている。
さらに、若宮町原発の放射能漏れの危険性という理由から紛争から五ヶ月もの間北岸市は完全に封鎖され、市民、遺族はもちろんマスコミや報道関係者、すべての一般人の立ち入りが禁止され、国防軍の管理下におかれ復興は大きく遅れをとる事になった。
22年 3月
竹田島は正式に我が国に帰属する島嶼として国連の承認を得、国防軍の管理下に置かれた。隣国が敷設した要塞関連設備はそのほとんどが破棄されたが一部を接収し、国防軍北海哨戒基地として後に機能することになる。これに対し国内左派組織および周辺諸国が異を唱えたのは言うまでもない。
24年 9月
これは後に政府が公式に認めた戦闘記録であるが、敵勢力約五十五名を殲滅はしたが、それに対し樫尾町治安維持部隊(発表時にはこう記されている)八十五名のうち、殉職者五十名、行方不明者五名、負傷者二十五名という燦々たる戦果であり、事実上全滅と揶揄されても仕方のない戦闘であった。
これには樫尾町住民約四百名の安全を最優先に戦闘規模を最小限に留めようとした結果の歩兵装備に限る白兵戦闘が大きく影響しており、明らかに敵軍兵士との練度の差が出たといっても良い。
わずか五十名あまりの敵尖兵隊は自滅行為もいとわない特別攻撃隊であり、その行為により住民二十五名の尊い命も失われた。
一市街の戦闘で圧倒的な戦力差にもかかわらず多数の国民を戦闘の犠牲にしたことは戦略、戦術上の不備であり、現場に小隊を指揮する立場の士官クラスの者が不在で、かつ予備役兵員中心の分隊指揮に致命的な混乱があったことなど、司令部及び政府への責任追及は激しく行われた。
もっとも、この公式発表がなされたのは終戦より三年も後のことであり、指令幹部らの保身のため意図的に被害指数、死傷者数を改ざん、隠蔽した罪はまた別件としてこれより裁かれることになる。
24年 12月
私がこの樫尾町掃討戦と呼ぶ戦闘に直面したのは偶然以外の何物でもなかった。現地は完全に封鎖され、とても一般人が立ち入ることは許されない状況で侵入したことに違いはなく、それを不法行為として断罪される覚悟も私にはある。
しかしこの三年間政府が公式に認めるまでの間、記録した写真を発表する為に場を変え、名を変え、世に問うことは自身の責務として行ってきた。
その甲斐もあり多くの証言者と支持者に賛同を得、実名にて世界規模での個展を開き、記録を発表することが出来たことに対してはジャーナリスト冥利に尽きる、という言葉で締めくくりたい。
このもみ消すことが出来ない不都合な真実に音を上げ、政府がその責任を認めたのだと、多くの人は私の功績だと評価もするが、あくまで私はそのきっかけを作ったに過ぎず、政府を動かしたのは国民全ての望む正常な倫理であり、真実を求める真摯な心であったと考えたい。
私は私の心の赴くまま、自分が為せることにおいて為すべき事をしたまでだと。
この言葉を、この先の未来に希望という花の種を携えた全ての少年と少女に捧げたい。
24年12月28日 皆川 譲二




