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センチな君は戦地へ向かう エピローグ

 北岸竹田島紛争(通俗名 北岸戦争)は同年九月十四日をもって終戦。日ごろより想定されていた朝華教国の強襲揚陸作戦に対する国防軍の近代兵器を駆使した迎撃作戦により水際防衛に成功、教国勢力は我が国の国土に足を踏み入れることなく戦力を消耗し、要塞化された竹田島への撤退を余儀なくされ、まもなく終戦協定が結ばれた。


 竹田島の領有権に関して国際司法裁判所は教国の主張を退け、国際世論は歴史の捏造と情報操作を繰り返す教国の姿勢を厳しく批判した。


 この事件後国内保守派は国軍の強化、同盟国との連携をより密なものとすることを求める声が強まりを見せたが、現矢部政権は周辺国家の不安を煽るなどの懸念から今後の課題として据え置くとし、国防軍は改めて「健全な独立国家における自主的な軍事抑止力の保有継続の必要性」を証明したにとどまった。


 戦争が終わってからマスメディアを始め周囲ではひとしきり自国の無事を喜び、戦争の恐ろしさについての記事やニュースが話題になり、外交への関心が高まっていった。


 実際のところ戦争といってもほとんどが海上での迎撃戦で、敵の上陸は許さなかったわけだから、当然北岸からはるかに離れたこの南辺の町に何か戦傷があったかといえば皆無だった。


 なのにこれほどまでにみんなが盛り上がるのは何処かおかしな気もする。中には高校進学をやめて国防軍に入るというやつまで現れた。あるいは看護師の資格をとるために看護学校に行くという者も。あの戦争が僕らにもたらしたものは何だったのだろう。


 空っぽの器のように情報をただ注ぎ込まれるだけの毎日とは、少しだけ変わったことは良かったのかもしれないとは思うけど。


 事実、この就職難のさなか、自分で使ったこともない健康食品の飛び込み営業よりも安定した給料と、喉元を切りつけられるタクシードライバーよりも安全で、薄給で老人のために延々とこき使われる介護ヘルパーよりも自尊心が保てる国防軍の兵士は人気の職業になった。


 だけど、僕にはあれから既に三年が経とうとしているにもかかわらず、これといって先に望む何かを見出すことが出来ないままだ。単純に目標が見つかったやつがうらやましい。


 そんなある日、相変わらずビールを飲みながら戦争関連の番組を見て父はこんなことを言った。父は若いころ、海外の戦争をニュースや新聞で見て戦場ジャーナリストに憧れたのだそうだ。その告白は今のお堅い役職からすると相当意外だった。


 今から約三十三年前、合衆国による途上国内戦の紛争介入から泥沼化し五年間もの間混迷を極めた大規模な近代戦があった。それは今でもテレビのドキュメンタリー等で語られることは多いし、映画化されることも少なくないから、世代ではない僕らでもビジュアル的にはリアルな絵として想起できる。


 その戦争の記録が多くの鮮明なフィルムで残された背景には、当時マスメディアというビジネスが確立し、その意義が重要視され始め第三の視点として機能することが迎合されたことによる。


 戦場報道という現象はこれまでの“戦争は国家間の紛争”といった視点から“人類全体が危惧すべき問題”というスタンスを間接的ではあったが生み出すことになり、世界中の人々がよりリアルに戦争という事実を受け取り、多くの都市で平和運動や反戦運動が巻き起こった。結局世論に抗しきれなくなった合衆国政府が戦局からの撤退を余儀なくされ、終戦に向かったという人類史上稀に見る美談を作り上げた。


「戦地を駆け巡り死に物狂いでシャッターを切りまくり、そいつを世界に発信するんだ。世界が俺の目を通して現実を事実を真実を垣間見る、そこにはちょこっと都合の悪いものも写っていたりするもんだが、なあに事実は事実、権力に屈してはジャーナリストは失格、そんなアナーキーな美学ってのがあったのさ」


 僕はそれに対しては判らない事もなかった、男にとってはそれが何であれ、冒険心というか、真実を追い求めることに美学を持ちたがるのは確かだ。


「今は諦め顔で淡々と戦争ってもんが始まっては終わる、別に俺は血なまぐさい戦場を見たいわけじゃないが、市民は普通の生活を限りなく犠牲にせずに空のかなたのほうで戦争っていう外交が行われているだけのように捉えている。現に俺たちは危惧こそすれど毎日の晩酌を欠かすこともなく、酒席であれこれ言っている間に戦争は終結している。戦場ジャーナリストが語るまでもないほどの迅速さでな。戦争行為が単なる手段だってことに気が付いちまったからだろうな」


 さも、自分がジャーナリストだったかのような口ぶりだが、東西の勢力図が確立してから以降戦争は起こることなく平和な世の中が続き、父は普通の商社に就職し、いつしかそんな夢も忘れていたという。


 血なまぐさい戦場。


 今でもあの記憶が事実だったのかあやしいほど、僕の脳には薄くしか印刷されていない。開戦から三日後にあたる夕刻、なぜか僕は何一つ持たず北岸の山鍋市という街の駅前に立っているところを保護されたのだ。


 当時記憶にない眉の怪我を見て両親は心配し、僕に精密検査を受けるように促した。僕は咄嗟に、白昼夢のような薄いあいまいな記憶をここで話してはよけいに怪しまれると考えて黙ってそれに従った。


 医者からはストレスによる一時的な記憶障害だと診断されるにとどまり、僕は程なくしていつもののどかな受験生活に開放された。


 事実三日間ほどの間、どこで何をしていたのかという記憶が一部を除いてすっぽりと抜け落ちていた、覚えているのは北岸で見た血なまぐさい戦闘の様子だけ。


 あとになって当時の新聞や過去の報道を紐解いて僕の記憶に残る体験との符合を試みたが、ただただ徒労に終わった。


 もちろん僕がなぜそこにいたのかという理由はわからないし、証明するものも何もない。客観的な証拠を示せないということは、つまりそれは夢を見ていたと同義だと人はいう。


 無論それ以来何の異常もなく、体もぴんぴんしている。何事もなく高校受験にも合格し、今に至るのだから頭にも異常はなかったと言ってもいいだろう。


 三年もたった今ではあのことは夢だと思えるようになった。あるいは、こちらのほうが突飛だが、敵に本土上陸された竹田島紛争というケースのパラレルワールドに迷い込んだのだと。


 公式な記録では民間人死亡者は避難時などの混乱のなかで報告されたケースがほとんどで、その内は喧嘩による傷害致死が六件、老人の心臓発作が五件や交通事故が十件といったところ。


 まあ平時なら大きな規模の事件として取り上げられるだろうけど、戦闘による国防軍兵士の殉職者ですら三十名そこそこという、何処かの誰かが言っていた「スマートな武力的外交」と揶揄したくなるのもわかる。


 本当に、血なまぐさい戦闘はなかったのだから。一つの町が焼け野原になり多くの人死にが出た前世紀的な白兵戦闘という僕が体験したことが事実ならもっと大きな問題になっているはずだった、中学を卒業して安全確実な国防軍に入った奴らだって尻尾を巻いて逃げてるはずだ。


 それから僕は夢というか目標のようなものが定まらないまま、普通科の公立高校に入ってのうのうと高校生活を続けてきた。


 何か変わったことがあるとすれば十六歳の誕生日にすぐにバイクの免許を取りに行ったことくらいか。親はやはり反対したが祖父にそのことを話すとすごく喜んで、自分の乗っていたバイクを僕に譲ってくれた。ただし夏休み一杯を祖父の家で過ごすという条件付きで。つまりは住み込みの漁師のアルバイトだ。


 だから高校一年生の夏休みは南洋の離島につめっぱなしで、新学期が始まったときには僕は誰よりも黒く、誰よりも逞しくなって、誰よりも成績が落ちていた。


 島では、時に漁を手伝いながら、時に海を眺めながら、何日も何度も祖父と話をし、いろいろと解った事がある。戦争があった後だから特にそんな話をすることが多かった。


 戦争の真実、その時代に身をゆだねるしかない人々の姿、狂気なる熱病、悲壮、現実に体験したものにしかわからない事実、現在教え伝えられていることとの相違。


 社会科の教科書には載っていない言葉が次々とつむぎだされた。永らく戦傷の癒えぬこの国にとって六十年前の軍属の言葉に僕は改めて触れ、考えさせられた。


 話したくないこともあっただろう、しかし祖父は全てを僕に託すかのように、自分の先が長くないことを悟っていたかのように、全てを僕に伝えた。祖父が軍属だった時代の話は父もほとんど知らない、いや、話したくなかったのだと言っていた。


 だが、自分の孫がどういう形であれ再び戦争に触れなければならなくなった事実に、自らの責務を感じたのだそうだ。「人間は結局何年、何十年経っても変わらないが、何百年か経てば変わるかもしれんな」そう寂しくつぶやいて眠った祖父が小さく見えた。


 祖父が頑なに島を離れることを拒んだのは、解りやすい言葉で言うならば「組織に再び組み込まれることへの恐れ」からだった。自身の判断を見失い、自身を忘れ、社会の駒として、巨大な時計を動かすための歯車のひとつにはなりたくなかったからだと。


 自身の軍属時代を英雄美談としていた祖父だったが、自由奔放で快活なその言葉の裏には、ひた隠しにした深い後悔があることに気付かされた。だから僕には戦闘機の操縦士ではなく、整備士と語り続けていたのだ。


 誰も戦争なんてやりたくてやったんじゃない。誰も行きたくて行ったんじゃない。やらなくて済むならそれに越したことはなかったのだと。


 家族と村を守りたい、その為にはこの国を守らなければいけないのだと、けしてそれを強制されたわけではない、そうすることしか出来なかったのだ。戦った相手国の兵士に対して悪いことをした、そしてその家族にも不憫な思いをさせた、しかしそれはお互い様なのだと。どちらが得をして損をしたという話ではない。


 最後に祖父はこんなたとえ話をしてくれた。


 魚は川の流れに流されて生きているのではない、常に微力ながら流れに抗いながら安住の地を生涯をかけて形成し、子孫を残す。


 人も魚も、生れ落ちた瞬間から流されないように自己を保つ為に生きている。それのほとんどが苦痛に満ちていても、大抵は生きるささやかな喜びのためだと認められるだろう。だが、川が干上がってしまえばそんなものは全て吹き飛んでしまう。


 流れが変わったら抗う方向が変わる、だからわしは池に住む事にしたのさ。それは放棄だ、逃避だと言われても仕方がないがね。


 戦争に参加し経験した祖父と、戦争を事件として捉えた父と、戦争を歴史だと教えられた僕と。木田家に関わらずこの国のほとんど全ての家系がこのような認識の元で戦争と向き合ってきただろう。しかしそれは既に共通の認識を得られないことが確定しているばかりか、風化した古代遺跡から出土する不可解な物体の推察をする慣習に近かった。


 今や戦争を知る者は日々順を追って鬼籍に入ってゆく。残るのは事件という情報と、歴史という記録だけで、感情のような曖昧模糊としたものを残す技術を人類は携えていない。


 そして今年の夏休みに入ったばかりのある日、祖父の訃報が届いた。二月くらいから体調が悪いとは聞いていたのだが、漁から戻った港で脳卒中で倒れたのだそうだ。


 なにぶん気軽に立ち寄れる距離ではないので、また夏に顔を出せればいいと呑気に考えていたことを深く後悔した。


 僕は両親と共に急遽南洋の島に向かうこととなり、葬儀の準備や祖父の遺品整理や掃除、その他雑用に奔走した。


 木田のおやっさんには世話になったのだからこれくらいのことはどうということはないと、夜を徹して地元の漁師仲間や、僕の島の友人たちが手伝ってくれた。


 結局いまわの際まで祖父は島を出ることなく、生涯を過ごした土地が一望できる丘上の墓地に永眠した。町内の人々が絶え間なく訪れ、焼香を済ませ、頭を垂れて帰っていった。慎ましやかな静かな葬儀だった。


 祖父は葬儀にかかる費用を別にし、家や土地を含むすべての財産を父にではなく、北岸戦争後に設立された国際戦災救援基金への寄付を望むという遺書を残していた。


 失意の中の帰省となったことは残念でならなかったが、島の人々が「また何時でも遊びに来い、お前たちは島の人間なのだから」と言ってくれたことは何より嬉しかった。






 祖父の葬儀を終え、一週間後南辺に戻ったばかりの僕の携帯のメールサーバーは、彼女からの鬱憤でパンパンに膨れ上がっていた。


 離島に行っていたためずっと携帯は圏外で、通信が出来なかったためだ。


 どこへ行っている、何をしている、何故連絡をよこさない、等々言葉は違えど同じ意味のメールが三十通ほど、最初は怒りに任せた読むのもつらい内容のメールばかりだったが、日を追うごとにそれらは気弱な文章になっていた。彼女には悪いことをした。


 島から帰った翌日、僕は祖父にもらったバイクに乗って彼女との待ち合わせの場所に向かっていた。時間にはうるさいんだ、彼女。自分は遅れても何もいわないくせに。


 駐輪場に勢いよく滑り込み、スタンドをかけて飛び降りる。少し遅れて焦っていた。


「明日の土曜日、映画に行きたいから付き合って、十時にいつもの場所に集合ね、OK?」彼女の電話の強引な誘い口調は機嫌が良いときのものだ。解っていながらも何処かでそれに甘えて負い目を作りたくないというか、彼女に頭を下げたくはないという思いが強い。 


 もちろん、固定の電話を使って連絡はいくらでも取れただろう、それを一週間もほったらかした僕が明らかに悪い。


 邦画はあまり好みではない彼女だったが、今売れに売れている新人俳優『嶋田カヲル』主演の映画ということだけで彼のファンである彼女は僕を付き合わせる。なぜかチケット代は僕もちというのが腑に落ちないのだが、仕方がない、今日はおとなしく言うことを聞いておこう。


 待ち合わせ場所のアーケード内の噴水広場に着いた僕は、きょろきょろと辺りを見回すが彼女の姿はない。


 よかった、まだ来ていないようだ。今日は僕の勝ちだ、メシは彼女のおごりに決定。これは僕たちが付き合ってからずっとルールにしていることだ、互いにいつまで経っても遅刻癖が抜けない二人だったから。


 一年前に完成したショッピングモールはこの噴水広場を中心に放射状に施設や店舗が広がり伸びる。まあちょっとお洒落になった商店街といったところだ。


 この噴水前に映画館と並んで洒落た催事場があり、期間ごとに歴史物の展示や地域の特産物展やフリーマーケットや絵画展などをしている。どれもいつも大したものではないのだが、映画の待ち時間の暇つぶしにぶらつくにはちょうどいいので重宝している。


 今は写真展をやっているようだ、入場無料だし彼女が来るまで少し見てゆくか。それにしてもこんなへんぴなところでやるなんて、売れてない作家なんだろうな。


 とはいえ、この業界ではプロの作家でも名が通っていなければ個展を開いたところで大抵入場料なんて取れはしない。


 なによりお金を出して場所を借りてという自腹がほとんどで、立地のいいちょっと名の売れたギャラリーなんかで個展を開こうと思っても、自前の機材の維持だけでヒィヒィ言っているビンボウ作家の財力ではまず無理だ。


 入り口に簡素な受付を構え写真集を積み上げて座っている、この展示作品の作家と思われる男は色黒で見るからに品性のない無精ひげと、色あせたジーンズ、薄汚れたよれよれのTシャツを着ている。


 アマチュアなんだろう。男が軽く会釈したのが横目に映ったが、僕はその男と顔をあわせないように無視して入場する。


 作品はモノクローム中心のスナップ写真が中心だ。何の気なしにぶらぶらと覗くように眺める。


 古びた町並み、工場跡、瓦礫の山、少年と少女が手をつなぐ後姿、車のリアウィンドウをすかして見えるビル街、誰もいない街道、老若男女が入り混じった謎の雑踏、不自然に無数に並ぶ車列、崩れた建造物、それらにはどこか硝煙の匂いがする。


 後半は海外の紛争だろうか、テーマが見えない。


 この作家は何を訴えようとしているのか、個展のタイトルを見ておけばよかった。しかし、ありきたりなどこにでもあるような風景に見えて、どこか非日常で緊迫した鬼気迫る作品に、僕は引き込まれて奥へと歩みを進める。


 迷路のようにパーテーションが入り組んだ会場に点々と並べられた作品、その一番奥に彼女の後姿をみつけた。


 ノースリーブの白いワンピースに、いつも肩より少し長い髪を簡単にゴムで後ろにまとめているだけなのに、今日はきれいなポニーテールを結っている。一瞬見間違うところだった。


「ああっやられた! なんだ、きてたのかぁ、どうした? 今日は随分……」


 僕がそう声をかけた彼女の背中越しに、ひときわ大きな写真があった。荒々しい粒子の暗い背景になまめかしく浮かび上がる中心の人物を捕らえたもの。一瞬僕の心臓は止まった。




 瓦礫の中に横たわる少女の傍らに、一輪の花を携えて両膝をつきうなだれる少年。


 僕は。


 君に。


 花を。



 僕はこの少女と少年を知っている。


 僕は、その花の名を知っている。


 そしてあの受付の男も。




 突然大粒の涙が僕の視界を奪う、歪んだレンズの向こうで彼女が困惑しながらも僕を振り返り一瞬微笑んだ。


 僕はゆっくりと写真に歩み寄る。しかし呼吸が激しくなり苦しみのあまりその場に膝を着く。


「なんで……どうして……?」宙をむなしく漂う彼女の声が遠くなる。


 モノクロームの風景を染め上げる悲しみの渦が広がってゆく、僕の全ての感覚を遮断し破壊するかのように。


 両拳をきつく握った力は逃げ場を失い肩を震わせた。


 嗚咽をあげ、土砂降りの中をさまよう僕は彼女の柔らかな胸に抱き寄せられる。


 日に焼けた彼女の肩を伝ってとめどなく雫が流れる。


 彼女はやさしくそっと僕の頬をなでる。


 その手はいつもと同じように、かすかな花の香りがした。




「……きれいね、ありがとう」彼女は最期にこう言ったんだ。






 了



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