その2
公園で沙苗からメールを受け取って一月が経過していたある日、牧野は両の眼を擦りながらパソコンと向き合っていた。
すっかり馴染んだ椅子を軋ませながら時間を確認するとまだ昼にも達していない。
油断すれば落ちてくるまぶたを必死に押し上げつつ、今日も長い一日になりそうだと胸中で呟いた。
無事に無職を脱した牧野だったが、事務仕事の退屈さは喜ばしいものではなかった。
仕事量から見て事務員は一人で事足りているだろう。現在事務所内に事務員は牧野を含めて二人いる。
はっきり言って牧野の仕事はないに等しかった。
「眠たそうだね、花憐ちゃん」
眠気を助長させそうな甘ったるい声でそっと話しかけてきたのは、救いの女神であり、もう一人の事務員である結城沙苗その人だった。
甘いのは声だけでなく、手入れの行き届いた茶色がかった長髪が揺れ動くたびに鼻をくすぐるような香りが漂ってくる。
髪質を保つために労力を割く気にはなれない牧野は肩口よりも伸ばしたことは生涯においてなかった。
それだけで、なぜか沙苗に負けた感覚に襲われる。
全体的に繊麗だが、一部は男の欲情を誘うのに十分すぎるほどの肉付きを見せている。
どこか隙のある性格のせいもあり、セクハラを受けてしまうのも頷ける話だ。
「事務仕事ってあんまりしたことなくてね。座ってるとつい眠くなるわね」
「わかるよー。眠気覚ましにガム噛む?」
そういって沙苗は刺激の強いガムを一枚牧野に差し出した。
「ありがとう、いただくわ」
牧野がガムを受け取ったところで事務所内に電話の音が鳴り響いた。
牧野はデスクに置かれた電話機に手を伸ばそうとするも、沙苗がそれを制した。
パタパタと沙苗に割り当てられたデスクに戻り、さらに甘さを増した声で電話口へと出た。
「うぅ、もう朝か……」
電話の音に反応したのか、緩慢な動きでソファーから起き上がる男がいた。
「昼前です、東堂さん」
牧野は呆れ声で答える。それを聞いた東堂九十九は、そうかと一言つぶやいて再びソファーへと突っ伏した。
「朝になったら起こしてくれ」
「東堂さんは過眠症か何かで?」
隙さえあれば眠り続ける東堂に辟易とし、牧野は思わずつぶやいていた。
既に眠りに落ちている東堂の代わりに答えたのは所長である出村恭二だった。
「昨日も遅くまで動いてもらっていましたから。多めにみてあげてください」
柔和な笑みを湛えた出村はトレードマークの整った口ひげを撫でている。
小柄でやや太り気味な体型もあってか、エルキュール・ポワロを彷彿とさせる。
もっとも、ポワロのような高慢さを持ち合わせていないが。
「ボスー、お仕事のお電話です」
受話器を置いた沙苗が間延びした口調で出村へ告げた。
「おや、そうですか。では、こちらへ回してください」
沙苗が内線を繋ぐと出村のデスクの電話機が電子音を上げる。
落ち着いた動作で受話器を上げた出村は、メモを取りながら電話口の相手とやり取りを始めた。
終始物腰柔らかな対応の出村は、受話器を置いた後も変わることのない口調で牧野たちに話しかけた。
「牧野さん、申し訳ありませんが東堂くんを起こしてもらえますか。彼の出番のようです」
「わかりました」
牧野は今しがた寝直したばかりの東堂に近づいた。何か嫌がらせのような起こし方はないかなどと思案してしまった自分を恥じつつ、東堂の肩を揺さぶった。
「東堂さん、起きてください。仕事の時間ですよ」
妙な唸り声を上げるだけで、東堂に起きる気配はなかった。
「ああ、それとですね。牧野さん、あなたにも是非同行してもらいたいのですが」
「……私、ですか?」
出村の言葉を理解するのに時間がかかり、返事が遅れる。
雇い主であることも忘れ、牧野は苦々しい顔を出村に向けた。
「あの、私は事務員として雇われたはずですが」
「そうなんですが、まあ研修ということでどうでしょう。東堂くんの相棒は今入院中ですので、よろしくお願いします」
不服とはいえ相手は事務所の所長だ。
断るわけにはいかない。牧野は不承不承ながら出村の指示に従った。
牧野は窓の外に広がるどんよりとした曇り空同様の重たい気持ちを引きづりながら、東堂と共に事務所を後にした。
交通費は経費として計上することができるようで、牧野は事務所前でタクシーを拾い、依頼人のもとへと向かった。
タクシーのラジオからは淡々とした口調のアナウンサーが抑揚なく読むニュース番組が流れている。
気が滅入ってしまいそうな連続殺人事件の情報はさらに不快感を増し、逆にささくれだった気持ちを落ち着けてくれそうな双子のパンダが生まれたという話も、まるで不幸な出来事かと勘違いしてしまいそうなトーンだ。
いつしか雨が降り出し、窓に打ち付けられた雨粒が後方へと流れていく様を牧野はぼんやりと眺めた。
そういえば、あの日も朝から雨が降っていたな。
雨は嫌いだ。どうしたって思いだしてしまう。
記憶の波が溢れ出すのを止めたのは東堂の大きな大きな欠伸だった。
「……まだ寝足りないんですか」
「可能なら一日中寝ていたいものだ」
短髪に無精髭を蓄え、くたびれたスーツを着込んだ東堂の見かけは、本来ならばワイルドだの渋いだのと評価されそうだが、その気だるげというより無気力な表情がすべてを台無しにしていた。
このくらいふてぶてしいくらいでなければ民捜は務まらないのかと牧野は考えた。
牧野を拾ってくれたのは出村民間捜査事務所という。
近年になり施工された民間捜査官制度に則った個人事務所だ。
主に警察の仕事を下請けするのが役目であるが、牧野には今ひとつ縁遠いものだった。
刑事だったとはいえ、牧野の所属していた部署は民間に委託できるような仕事ではなかったためか関わりあいになった記憶は皆無だ。
実際のところ、一ヶ月働いておきながら実情の掴めていないのが正直なところだ。
そのようなことを思案しながら車に揺られ、辿り着いた先はありふれた住宅街だった。
一軒家よりもアパートやマンションが多いようだ。
タクシーを降りた牧野は雨が降るといけないからと出村に渡された傘を差し、東堂の支払いが終わるのを待った。
詳しい依頼内容も聞かされていなかった牧野は、目的地を眼下に置きつつ東堂へと尋ねた。
「タクシーで聞くのもどうかと思って遠慮していたんですが、今回の依頼ってどういった内容で」
心底面倒くさそうな顔を向けた東堂は、欠伸を噛み殺しながら告げた。
「サポートロイドが盗まれたそうだ。それを取り返すのが仕事だ」
「サポートロイド?」
「なんだ知らないのか。サポートロイドっていうのは」
「いえ、それは知っています」
サポートロイドとは自立型の人工知能を搭載した機械人形のことだ。
人々の生活を補助する役割を持っている。
いかにもとといった機械然としたものもあれば、人や動物に酷似した姿のものまでバリエーションは豊かだ。
人や動物に見た目が近づけば近づくほど高級なものになる。
また、動力源はパンドラを変換させたエネルギーだが、その変換機が小型になればなるほど値段があがる。
もっとも安価なものはドラム缶やボールのようにシンプルな形状で、変換機を搭載しておらず充電式で動くタイプのものだ。
当然、性能は下の下である。
「盗まれるなんてことあるんですね。一体ごとにシリアルコードとGPSが搭載されていて、盗難防止は厳重だと記憶していますが」
「それでも盗むやつは盗むし、手段だって山のようにあるだろうな」
ほら行くぞと東堂は水たまりも気にせず歩を進めていく。
牧野は靴が濡れないよう水たまりを回避しつつ東堂を追った。
背後を振り返りもせず歩いて行く東堂に追いつくのはヒールでも履いていれば苦労したのかもしれないが、幸いなことにヒールなど持ち合わせいない牧野には容易いことだった。
雨は勢いを強め、住宅街から人気を奪い去った。
傘を叩く雨音だけが耳に纏わりついていた。