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君の手

作者: 神田瑞希

『寂しいとね、手がぴりぴりするの』



 僕は駅のホームで大船行きの電車を待っていた。曇り空で辺りの景色は灰色がかっていて、昼過ぎにしては薄暗い。上りも下りも電車は行ってしまったばかりで、ホームには僕とほんの数人がいるだけだった。それぞれが分厚い上着を羽織っている。今晩は冷えるらしい。現時点で手や足先が冷えてきて次の電車が待ちきれない寒さだ。ガラ空きのベンチに腰を下ろすと、肌に冷たさが伝わってくる。

 一時間半とあと少し。磯子に着くまでにそれ以上はかかるだろう。



『いいの、どうせわからないでしょう』



 女というのはどうしてこんなにも面倒なのだろう。真昼に彼女から電話があった。声の調子から情緒不安定な状態なのが窺えた。僕の頭に真っ暗な部屋でひとり携帯を握る彼女の姿が浮かぶ。カーテンを閉め切って、ベッドの上にぐったりと横になっていて目はどこを見ているのか分からない。呼びかけると目の動きだけで僕を捉える。薄明かりの中で、死んでいるような目が深い闇のような色に見えた。前に会いに行ったときに目に焼きついた光景そのものだ。怖かった。放っておけば彼女は本当に死んでしまいそうだった。

 電話越しに彼女が発する言葉は支離滅裂だった。ただ、「寂しい」とか「消えたい」とか「わたしにはもう会わない方がいい」とかそういうことを繰り返すばかりで、こちらの話は全然聞いちゃいない。

 こうなると彼女は理屈ではどうにもならないのは重々承知していた。直接なだめに行って、何時間も歩み寄るようにして普段通りの思考を取り戻させるしかない。少なくとも今のところは他の手段は分からない。

 月に何度か彼女はおかしくなって電話をよこす。僕がなだめに行く。都内に住んでいる僕と、僕の地元でもある磯子に住む彼女はそんな関係を半年続けていた。

 会いに行くたびに僕は泣きたい気分になる。どんなに優しく接しようとも彼女には何も届かないのだ。正気を取り戻した彼女が『悪夢のようだった』と言うのを聞いたことがある。悪夢の中では何も聞こえないのだろうか。彼女が壊れたように同じ言葉を繰り返すのに、僕は適当に相槌を打つしかない。



『………………』



 息が白い、電車はまだか。

 どうしたところで時間は早く進まないし、電車のスピードだって変わらない。

 ホームには徐々に人が増えてきて、間もなく電車が到着するのを知らせるアナウンスが流れた。


 電車が到着するとドアが開いた。

 降りてくる乗客はいなくて、僕は電車の上へと踏み出す。その瞬間、床がぐんにゃりと柔らかく沈むのを感じた。「うわあ」と反射的に声が出る。助けを求めようと車内を見渡すが、誰もいない。大きな黒い影がいくつか漂っているだけなのだ。目も顔も腕も足もない、ただ長細く伸びた影。窓の外は真っ暗になっていて、三日月といくつかの明るい星が見えた。

 右足が膝まで沈んでいた。手すりにつかまってひっこ抜こうとするも、体はゆっくりと飲み込まれていく。柔らかいのだ、床が。床が柔らかい。助けて。

 ぷしゅー、という音と共にドアが閉まった。



 僕は君に向って進んでいるのだろうか?

 君の手の震えを止められるだろうか?

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