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第六話

 「先生、今日はこの辺であがります」

 「あっ、おつかれー。また明日ね」

 私は書きかけの原稿を見ながら、大きく伸びをした。傍らに置いていた携帯が振動を始める。

 都内のそれなりに有名な美大を卒業後、自作の少女漫画「愛がなくなれば」を応募したところ大賞を受賞し、一躍期待の新鋭漫画家としてデビューできた。そして私は日々仕事に追われながらも充実した生活を送っていた。

 ただ私にとって、こと恋愛という概念は大きなトラウマを想起させるものでしかなかった。中高と女子校に通い、そのせいで共学の大学では免疫が全くと言っていいほど身に付いておらず、少しでも構ってくれたり優しくされたりするとすぐに惚れ、そしてその度に自分を使い古されていった。何度男をもう信用しないと思っただろうか。しかし、恋愛に強い憧憬の念と生来の寂しがり屋が祟り、なかなか過ちを繰り返すことを止められやしなかった。

 「愛がなくなれば」は、漸く大学卒業後に情愛による心の隙間埋めから脱却できた彼女が、自らの理想的な恋愛とその破滅について描いているものである。それができたのも退廃的だった大学生活と、

 「ノゾミ?仕事終わった?これから会えへんかな?」

 携帯を揺らした主である―の存在だった。

 ―は、関西出身の同じ美大を卒業した同級生で、私とは入学当初からの付き合いであり、様々な相談をしたりされたり、時には一晩中飲み明かすほどの仲だった。そんな―とは色欲沙汰は何故かなかったから、私はこの男だけは私を身体じゃなくて意思を持った人間として見てくれている、そう感じていた。

 そうして卒業後、私達はなし崩し的に付き合うようになった。どちらかが情熱的な告白をしたわけでもない、ただ少しだけ階段を上がったとか、その程度のことだけども、それが一番幸せな形なんだと思っていた。

 「うん、じゃあ家に来て」

 そして私はその夜、―からプロポーズをされた。とても嬉しかった。そして自分がしてきてしまった過ちに今一度悔やみ、―の厚い胸板で一頻泣いた。―は、穏やかに頭を撫で続けてくれた。

 だけどそれは、言ってみれば半分冗談のようなの誓いだった。次の日の朝、―がシャワーを浴びている最中に、何の気なしに彼の携帯を見てしまった。それ自体は悪いことだとは分かってた。でも、これから一緒に暮らしていく人だもの、それぐらいはしたって問題ないはずと思って、メールボックスを開いた。

 そこには、「○○○」と名付けられたフォルダがあったわ。女の名前だった。私の名前ではなかった。それ以前に、私のフォルダはなかったから。で、私は開いて中に保存してあったメールを全部読んだ。

 「ちょっと・・・・・・―!これ何!」

 呆けた顔で脱衣場からリビングに帰ってきた愛しい人に向かって、私は思い切り食って掛かった。

 「えっ・・・・・・いや、それは、あれや、ただの友達というか、仲間というかさ・・・・・・」

 「は?嘘はやめてよ!ただの友達に『好きだよ』とか『会えなくて寂しい』とか送ったり送られたりするわけないでしょ!」

 私は非力を承知しながら、彼の厚い胸板を殴った。昨晩、私が嬉し涙で濡らしたその胸板を、今度は慟哭を交えながら。

 彼はやめろやめてくれと言いながら、私の攻撃を防御していたが、遂に我慢の限界が来たのか腕を掴んで、

 「いい加減にしろや。お前こそ人の携帯勝手に見るとか、マジありえへんわ!」

 「それはそうかもしれないけど、私達結婚する仲だよ?言われた身としては、何の気なしでも気になるものじゃないそういうのって!」

 「うるさい女やな全く・・・・・・ああそうだ、そいつはただの遊び相手。はいこれで納得やろ?お前みたいに重たくて面倒くさい女の相手するには、こんな感じで息抜きしないとしんどいねん」

 「じ、じゃあ、昨日のプロポーズは?」私はもう涙でぐしゃぐしゃだった。

 「は?ああ・・・・・・気分が良かったから何か言っちゃっただけ。でもそんな気ないし。お前なんかと結婚しても自分の人生が台無しになるだけや」

 彼は完全に開き直った。そしてさも面倒くさそうに着替えを済ませると、話半分なのに荷物を持って出て行こうとしたので、私は必死で引きとめようとした。だけど、やっぱり男の力には適わない。いつでもそうだ。私が嫌がった時の抵抗力なんて、男の前からすれば鈴虫程度の反撃力しかないんだ多分。物理的な力も、心に訴えかけるための言葉も。

 そのまま玄関先でへたり込んでいたら、やかましい携帯の着信音が鳴り、彼かもと淡い期待を持って出たら仕事場からで、先生どうされたのですか、早く来てくださいとかアシスタントの・・・・・・ああこの人の名前も思い出せない・・・・・・が嗾けてくるから、とりあえず鋒鋩の体という情景描写がお誂え向きの格好で仕事場に向かったわ。まあでも仕事には身が入らない。携帯を開くたびに彼にメールを複数送り、着信を何件か残したら最終的には300通以上と150件ぐらいになったのかな。途中で拒否された時は流石にその場で絶叫しそうになったけどさ。もう我慢の限界が来て、夕方には切り上げて彼の家の前で待ってたんだけど朝になっても帰ってこなかった。恐らくというか絶対、あの女の家に逃げ込んでるんだと思った。なんなの?あのプロポーズは嘘?虚言?はったり?世迷言?まやかし?私がどれだけその一言に感動したか、嬉しかったか。人の気も知らないで。

 身も心もボロボロになっていた私にはもう彼しかいなかったの。彼以外はもう無理だった。

 だから私、彼を殺して、私も一緒に死ぬことにした。そうすれば、他の女に彼を盗られることもないし、彼への私を騙した復讐も完遂するから、自分でも最良の方法だと自負していたわ。もっとも、出版社には取材に行くからと言ってとりあえず1週間連載を休むことにして、アシスタントの皆にもきちんと連絡するぐらいの冷静さは保持していたから、私は発狂してなかったはずよ。努めて常識的な振る舞いをしたもの。それで作戦としては、私からのメールや電話をすっぱり止めて、ひたすら彼のマンション付近で張り込むことにした。だけど彼、余程警戒心の権化だったのか、6日経っても一度も姿を現さなかった。流石に焦りを感じた私は、張り込み場所を彼の会社の最寄り駅に変更したの。朝方は人が多くて見つからなかったんだけど、日も落ちた19時頃、彼はその姿を見せたわ。何もなかったかのような笑顔を、腕を組んで歩く女に優しく注ぎながら。

 「―。探したわよ・・・・・・」

 「ノ、ノゾミ・・・・・・」

「誰この女?」私が居るべき場所にしたり顔で居る女が明らかな嫌悪感をぶつけてくる。

「いや・・・・・・ちょっとだけあっちで待ってくれへんかな・・・・・・」彼は動揺を抑えきれないのか、震えた声で女を駅の改札辺りに行くよう促していた。女は渋々ながら早くしてよねとか言って歩いていった。私は、この時ついつい背後から殺してやろうかと思ったけど、こいつなんか殺したところで然したる意味はないから寸前で我慢した。

 「―さあ、私に言ったいろんな言葉、覚えている?」

 「え?それってどういう言葉・・・・・・」

 「『好き』とか『愛している』とか『ずっと一緒にいるよ』とか・・・・・・」私は大きく息を吸い込んで、「『結婚しよう』とかよ!」

 私は叫んで、鞄から出刃包丁を取り出した。普通のスーパーで買ったものだから、砥石でしっかりと研いでおいた。おかげで、光を潤沢に反射する美しい凶器になっていたのよ。

 ただそこから私にとって誤算がいくつか出てきた。まず彼が尻尾を巻いて逃走を始めたこと。普通さ、「止めるんだ!」なんかの言葉と一緒に私を制止して、泣き崩れる私の抱き抱えて「ごめん、俺が悪かった」の一言ぐらいくれたりするじゃない?それが王道かつ一番幸せな終幕なの。逃げるにしてもさ、改札付近にいるあの女に「逃げろ!」と一声かけるのが男ってもんじゃないかなあ?全くここまで肝っ玉の小さい男だとは思ってなかった。だけど、これから結婚する男のことが一つでも多く知れた分ちょっと嬉しかったかな。その結婚って言うのは、死んでからするつもりだったけどね。

 そして愛の鬼ごっこが始まった。たくさんの人々の脇を、時にすり抜け、時にぶつかりながら。

 彼は鈍足だった。きっと足が縺れて上手く走れないのと、日頃の運動不足が祟ったと思う。そしてビル街に差し掛かって、私の手はもう一息というところまでに近づいた。愛しいあの背中にもう一息。スニーカー履いてて良かったわ。

 でも確かに私は聞いたの。「危ない!」という外野の声を。何が危ないのだろう、それは美しく光る出刃包丁を持って、涙でぐしゃぐしゃになった顔を装備した私の姿のことかしら?と考えるまでの時間はあったわ。だけどそこで私の思考は停止しちゃった。頭上から鉄骨が落ちてきたから。鉄骨って重さ何キロぐらいあるの?単体だけでもかなり重たいはずだけど、それに落下のエネルギーなんかが加わったらそれはもう即死よね。悔しいのはその鉄骨が首の辺りに当たる感じの斜めに落ちてきたものだから、当たったの私だけなのよね。彼を道連れにできなかったの。首の骨が体内で粉砕する音は感じ取れた。もうそれは筆舌に尽くしがたい、絶望的な旋律だったわ。


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