第二話
「1年0組」の引き戸の前で、男は一瞬立ち止まった。現世では遺産という名称がお似合いの木造建築校舎は教室も例外ではなく、どこかノスタルジーを感じさせる風貌であった。そしてその教室を目の前にして、男は自身の小学校時代を思い出していた。全ての始まりとなった父の死、それに伴う転校、預けられた親戚の家や学校による凄惨な日常・・・・・・そのどれもが今では、男にとっては過去の辛い記憶と言うよりも、明日を生きる糧となっていた。最もそれは生前の話ではあるのだが。
意を決して、とまでは行かずとも、呼吸をひとつ打った後に、勢いよく引き戸を引いた。
教室の中で整然と座していた人間が一斉にこちらを見た。ざっと見たところ、自分と同い年ぐらいの人も居れば、明らかな年上や若干年下の人、さらにはどう見ても小学生と思われる子供まで多種多様なクラスであるようだ。男女比は丁度半々ぐらいで、それはバランスが取れているように思える。
「ど・・・・・・どうもこんちは・・・・・・」思わず男は挨拶をしたが、返事はない。それは別段、おかしなことではないが、妙な決まり悪さを感じてしまい、早々に席に着こうとした。
「ん?俺の席どこや?」
そう言えば名前もまだ思い出せてないのに分かるわけが、と若干焦りを覚え、とりあえず一番右端の昔懐かしい形状の空いている席に座ろうとした時、
「ねえ、ちょっと待って」何処かで聞いたような声が聞こえ、男は周囲の視線が多少気になりつつも聞こえた方向へ振り向いた。
「・・・あんたか。同じクラスやってんな」
「うふふ。長い付き合いになりそうね。よろしく。さっきは一期一会だと思ったから敬語だったけど、もうタメ口で良いかな?」
「まあええけど・・・・・・」
一番左端の席から近づいてきたその女のたおやかな微笑は継続されていた。男は差し出された手を心なしか力を抜いて握る。この女の善悪を決めるのは早計であるが、少なくともこの女に馬鹿にしたような発言は禁句であり、可能なら関西弁も抑えるべきかと考えてしまうぐらいには危険だと判断した結果の所作だった。
「それで席なんだけど」女は男の思惑をよそに話し始める「どうも机の中に入っている物で判別できるみたいよ」
「どういうことや?」
「例えば私ならこれ」差し出された左手には、ペンのようなものが握られている。
「これはペンか?」
「中学生の英語みたいな日本語ね」くすくすと笑い声を漏らす「正しいけど、正式名称はGペンって言って、漫画を書くときなんかに使うもので慣れればこれ一本で漫画が書けてしまう優れものなの。元々は英字を書くためのペンだったんだけどね」
何処か自慢げに、女はペン回しをしながら説明した。
「あんた、漫画家やったんか?」
「そうだったわ・・・・・・『だった』というのが口惜しいけど」
「それはそうやな・・・・・・」男は途端に自分の席が気になり、右端以外の空席を探した。
「しかしあんたの席を除けば空席はあそこしかないみたいやけど」
「そうみたいね」
男は空席に近づき中を弄ると、小さな金属製らしき物に指が当たり、掴んで取り出した。
「これは!」
机の中から取り出した物は、「R」と刻印されたメタリックのオイルライターだった。男はで蓋を開け着火しようとしたが、オイルは入っていないようで、火花が散るのみ。開閉時の「カチッ」という音が自身の耳の中で反響するのを感じる。
「ライターね・・・・・・それは何か思い入れのある品なのかしら?」
「まあそんなとこやな・・・」
男は懐かしむように何度も親指で開閉を繰り返し、「R」の刻印を指でなぞった。そう言えばあいつらは首尾よくやれているのだろうか。「日本再誕」という舞台公演初日を迎えるまで俺はあえなく降板してしまったが、俺に出来ることはもうない、後はあいつらに任せるしかないと何処に向けていいか分からない祈りを捧げながらライターを弄ぶ。
「良かったわね。きっと意味があるのよこれも。とりあえず私は先生か誰かそれらしき人が来るまで大人しく席に座っとく」女は長い黒髪を豊かに振りながら自席に戻っていった。
男はこのライターがここにある理由を考えつつ席に座り、自然と瞼を閉じた。
俺、仁川、そして幕僚長の桂の三人は黒光りが著しいワゴンに乗り込んだ。時刻は午前0時を少し過ぎた辺りやったか。
「―さん。いよいよですね・・・」
助手席に座った桂が後部座席の俺に話しかける。俺はタバコに火を付け、
「そやねえ。ほんまはこんな手荒な手段したくなかってんけどな・・・・・・まあ今更俺がそんなこと言うたらあかんな」
「そうだ。お前がリーダー、というよりも次代の『総理大臣』なのだから、あんな無能みたくなるのは困る」
仁川は模範的な運転手を演じていたわ。ここで万が一警察のネズミ捕りなどに見つかってしまっては元も子もない。特にトランクを開けられた暁には、全てが終わる。
「しかし、足掛け20年ほどですか・・・この積年の怨み、名状しがたいものだったんじゃないですか?」
「確かにそうや。親父は言ってみればあいつらに殺されたようなもんやからな。言うても俺は例えば先天的なサイコパスで、あいつらを一人残らず皆殺しにしたいとまでは思わんし、一応尊敬する人はマハトマ・ガンディーとかキング牧師とかや。あくまで無血開城がモットーやってこと、納得してるよな桂?」
吐き出した紫煙に交え、俺は今一度念を押した。
「ええ・・・・・・分かってますよ・・・・・・」桂は聞く人によっては、降伏ともおざなりとも取れる口調で返事をした。
この『日本再誕連合』は俺が選挙に落選した翌日から結成された組織で、当初は俺の仲間内のみ―通称「オリジナル・セブン」―だけやったけど、ネットや街頭での広報誌、さらにはビジネスや美容などと銘打っておいて、実際はこの連合のセミナーという形での勧誘など、文句の付けがたいホワイトゾーンから明らかなグレーゾーンまで様々な方法で人的強化を図ってみた。その中でも特に俺らは長引く不況や旧態依然の就職活動、そして若者冷遇が横行していることへ多かれ少なかれ不平不満を抱いているであろう人間が犇く各地の大学での広報活動や、若者支援に尽力していた既存のNPOと密接な対話を試みて賛同団体を増やすことに注力し、結果的に2年で構成員の総数は7人から5000人までに膨れ上がったわけ。当然マスメディアや警察は、連合の危険性を国民に訴えたが、あの地下鉄サリン事件を起こした団体でさえ破壊活動防止法による集団結社禁止措置が取られなかったこの国では、まだ勧誘に勤しんでいるだけだったこの連合が解散させられるわけもない。いやはや、存外仲間集めは上手くいったんや
ただ構成員が膨れ上がるにつれ、俺には頭を悩ます問題がいくつか出てきてしもうた。まずは秘密漏洩について。これだけの構成員がいると、末端までに計画の全てを教えてしまえばそれだけ漏洩のリスクは高くなるが、余りに少なすぎるのも様々な弊害が予想された。俺は熟考し、「オリジナル・セブン」のメンバーそれぞれに北海道、東北などの担当地区を制定し「支部」を作成、さらにその中でも「オリジナル・セブン」以外で計画の存在を知悉してよいのは各地区2人までとした。こうすることで漏洩のリスクを最小限に留めつつも、「オリジナル・セブン」の秘密保持に対する負担の軽減及び第三者の意見を取り入れることができるということで、この方式に落ち着いた。
もう一つの問題は思想の自由や。初期においては、俺の「無血主義」が広く一般化されてて、あくまで暴力的な手段を取ったとしても、誰も血を流さず、誰も死なず、可能な限り悲しみを少なくすることが第一であった。しかし、構成員が増えるにつれ、過激な思想―俺はこれを「必血主義」と呼んでたけど―が次第に目に付くようになっていった。具体的には、社会保障費や雇用の問題は、意識の有無に関わらずそれを正常化させまいとする人間達が元凶なのだから、数を減らせば解決するのではないか、即ちそれは主に老人の虐殺を第一とするというものや。これの扇動者とも言える第一人者が今助手席に座っている男、桂幕僚長だった。
桂は俺の大学時代の後輩で、「オリジナル・セブン」の一人であり、結成当初はそのような素振りは一切見せていなかったのだが、いつからか「必血主義」を声高々に唱えるようになり、その支持者は3割~4割にまでになっていた。俺は何回も桂との会話を重ね、修正を試みたが桂の思想に変化は訪れず、結局計画寸前まで俺らは平行線のままやった。
「 桂・・・お前の考えは認められへんけど、もうここまで来たら直せとは言わんわ・・・。ただ今後は特に俺のやり方には従ってもらうで。お前の手腕には期待してるんや」
「その信頼、ありがたく頂いておきます」
男は桂の返事を聞き流しながら、窓枠に肘をかけた。車窓が映す夜の闇は、何か不吉な未来を投影しているようだった。
その時、誰かの携帯が細かな振動を発した。仁川はやりにくそうにズボンの左ポケットから携帯を取り出すと、「すみません」と言って路肩に停車し、耳に当てた。
「俺だ・・・・・・えっ?それは本当か?分かった!今換わる!」
その声は、何かのっぴきならない事が起きた様子以外に考えられへんぐらいの波長やった。桂は振り向くと、
「―、すまんが・・・・・・」
力強く突き出された携帯を、俺は黙って受け取った。
「なんや?」
「お初にお目に・・・・・・いやお耳ですか、私桂幕僚長の一等補佐をしております北浜です」
北浜と名乗った男は、文体は敬語やけど、その発音から男と同じく関西出身の人間のようやったわ。さながら仁侠映画に出演してたような雰囲気がしてたわ。
「ご苦労さんやな。で、何か俺に用か?」
「あのそれが・・・・・・」
「早よ言わんかい」苛立ちながら二本目のタバコに火を付ける。
「―さんがこれからに備え万が一のためにと匿っていたご家族の隠れ家と連絡が取れなくなりまして・・・・・・」
「は?どういうことやそれは!」男の苛立ちは怒りに肉薄した「警護を最低3人は常駐させてたはずやで!」
「ええ、それでうちの地区からも一人警護として派遣していたんですが、定時連絡もなく、他の警護員とも不通でして・・・・・・」北浜は狼狽したように話した。
「ほんまかいな・・・・・・」
俺はまだ点火して間もないタバコを揉み消すと、仁川に路肩に止めるよう指示した。
「―さん。何があったんですか?」
未だ状況がいまひとつ把握できていなかった桂に、仁川が掻い摘んだ説明をしてくれた。事態を理解した桂は、
「どうするんです?」
「俺が直接行って確かめてくるわ」脇に置いていたスーツのジャケットを引っ掴みながらそう言った。
「待て!心配な気持ちは分かるが、今このタイミングでお前に離脱されるわけには・・・」仁川は男の腕を掴んで引き止めようとした。
「お前の言うことは正論や」腕を掴まれたまま、男は言う「しかし、これは只事でない気がすんねん。すまんけど行かせてくれや」
「それなら俺が代わりに・・・・・・」仁川は右手でシートベルトを外した。
「お前が行ったら誰が陣頭指揮取るんや。それに桂、お前も行かせられへん。機械関係はお前の仕事やからな」男は掴まれた手を引き剥がした。
「トランクを開けてくれや」
俺は仁川に促したんやけど、鋭い眼光で睨みつけるのみで微動だにせえへん。刹那の膠着が車内を支配してた。
「・・・・・・開けましたよ。後のことは任せてください。必ず、成功させます」
睨み合いのその均衡を破ったのは桂だった。
「おい!お前・・・・・・」
「悪いな桂。確かここから北西2キロ地点に車庫があったな?バイクは置いているか?」
「ええ」
返事を聞くが早いか、俺は車を降りてトランクを開け、中からH&K P2000に、実弾とゴム弾の入ったマガジンを二つずつ取り出すと、つい先刻不吉さを醸し出しているように見えた闇へと疾走していったんや。