第一話
同志たちに告げる。
君たちは犠牲者だ。
全ての尻拭いを課せられ、奴らがのうのうと逃げ切るのを傍観どころか幇助しなければならない。
しかしこのままでいいのか?
君たちの幸福は、奴らが蔓延るせいで享受できないのではないか?
歴史が言うように、倫理的にも社会的にも抹殺が不可能なのは百も承知だ。愚行は繰り返すべきではない。
ただ我らには、不当な不利益を解消する権利を当然携えている。
今すぐにでも行使すべき権利だ。
私は決めた。
ここに、まずは政治的手段を以って奴らに蜂起すると。
奴らは頭数だけは多い。
正攻法での勝算は限りなく低い。
しかし、私からすれば君たちはただ単に伏臥しているようにしか思えない。
そのまま、飼い慣らされた家畜のように漫然と命を磨耗させ、その錆付いたままの牙を使わぬまま死んで良いのか?
今こそ覚醒しろ!
奴らに平等とは何なのか、幸福とは何なのかを叩き込む必要がある!
このままでは、君たちに未来はない!
奴らのみ豊かな生活水準を維持したまま、その陳腐な人生を易々と終えていくことに私は激しい憤りを禁じえないのだ。
君たちとこの国の希望を叶えるためにも、奴らを絶対に野放しにはできない。
私を勝たせ、全ての同志たちに明日を!
「ここは・・・・・・?」
男は目覚めた。
背後には濁流のような滝と、一瞬広大な海原と見間違うかと言うほどの滝つぼがある。
激しい水の音が、男の意識を叩いたのだろう。
「くっ・・・・・・びしょ濡れやん・・・・・・。それにしてもなんやねんここ・・・・・・」
男は立ち上がり獣のような身震いをして水滴を払う。男が確認できる範囲に人はいない。それどころか、よく見ると滝つぼ自体は大きいように思えるのだが、それにしては両端の壁は非常に近いことに男は気付いた。まるで部屋の仕切りのようである。
壁に近づいて触ってみると、例えて言うなら洞窟のような自然物の感触を覚えた。どうやら人工物の可能性は低いだろう。
辺りは薄暗く、仄かに水辺から青白い灯りが漏れるのみであったから、男は慎重にその様子を伺ったが、深遠なる暗闇の方向へ足を向けることはどうしても躊躇われた。今の状況下で、あまり徘徊するのは得策ではないと男は判断したからだ。
立ちすくみ、これからどうするかと思案していたところに、当座の救世主と言えるかもしれない男がそっと肩を叩いた。
「!」
「おっと!」
振り向きざまに放った男の裏拳は、僅かに顔面を外れ空を切った。ただその拳は、返り血を幾度となく吸った臭いを纏っていた。
「あんた、誰や?」
「ちょっと、いきなり暴力はないんじゃないかあ?」
仰々しく両手を広げ、冗談めかした抗議の句を述べた後、
「俺は安藤影踏って言うんだ。決して怪しいもんじゃねえから!よろしく!」
鼻を啜りながら自己紹介を終えた安藤は、威勢良く右手を差し出した。所謂握手の構えである。しかし男は侮蔑するような目線を刹那注いだ後、安藤に質問をぶつけた。
「とりあえずここはどこや?そして何故俺はここにおんねん?」
「やっぱし気になるよなあ」
安藤はそう言った。男は少し距離を取って安藤を観察する。身の丈は男よりも少し高いぐらいで、やたら筋肉質。そして何より目立つのが顔の半分は覆っているのではないかと思えるほどの無精髭だった。
男は肉弾戦には相応の実績と自信を持っているが故に、眼前にいるこの安藤には並々ならぬ力量を感じ、体に入れ込んだ力を未だ緩めずにいた。言動と行動は、必ずしも一致しない。
「まあまあ、そう気を張りなさんな。大丈夫だから」
「それなら質問に答えてや」
「わかったわかった・・・ここは『空国』で、お前は『死んだ』からここにいる。いやあ、実に明瞭な答えですな」
今にも溶け出すのではと錯覚するような笑みを浮かべ安藤はそう答えた。
「……『死んだ』は百歩譲って承諾する。しかし『空国』とは何や?」
「知りたいか?」
なおも人を食った態度を改めない安藤に、男は微かに戦の気配を纏う。
「おいおい…全くおまいさんは関西弁を使う割には冗談が通じないねえ。よし着いて来い」
安藤は軽やかに男に背を向けると、暗闇へ歩き出した。男は一瞬迷ったが、結局安藤に着いていくことにした。ただしそれには、周囲と安藤への警戒を続行するという条件付きで。
人間の目は、暗順応により暗闇でも多少は視界が利くようになっているが、この暗闇は特異なのか、はたまた死亡による影響か、その順応を男は体感することができていなかった。
男に今ぼんやりと確認できているものは安藤の背中だけで、他の情報はほとんど遮断されている。
「おい…暗すぎるで。何とかならへんの?」
「もうちょい我慢しなせえ。ここを左に曲がれば、わりかし明るくなるから」
安藤は壁らしきものを手で確認しながら、宣言通り左に曲がった。次の瞬間、男が見たものは幾つもの人魂のような物体が赤、青、黄色などに瞬きながら揺れ動く鍾乳洞に似た空間だった。
男はおおと声を上げた。その幻想的な光に。
「どうだ?綺麗だろう?」
「まあな。そんなことより、どこに向かってるんや?」
「町だ。正式名称は『日本町』と言う町にな」
「なるほどねえ。ってあれだ、そもそも『空国』とはどういう場所やねん?普通死んだら天国か地獄かで相場は決まってるんちゃうんかいな?」
「現世ではそうなってるわなあ。簡単に言えばここにはそのどちらにも行けなかった奴の掃き溜めなんだよ」
「それってどういう意味・・・」
安藤はもうすぐ出口だと男の質問を遮って、前方の差し込むような白光を目印に歩いていた。それは、一歩下がって着いていく男にももうすぐ出口が近いことが把握できるほどの。
「まあ、詳しいことは全てすぐに分かる。焦りは禁物だ」
「ちっ・・・もったいぶるのが好きなおっさんやのう」
そして刺すような閃光が男の眼に飛び込んできた。
「なあ・・・」
「何だ?」
「こりゃまた、陰気な町やな・・・・・・」
町は、深い霧に支配されていた。
男がその場から見渡せる限りを確認した結果、長屋や灯篭に、茶屋や商店などと思われる建物群と、全く舗装されていない道、そして遥か前方に薄氷のような不安定感でぼんやりと見える規格外の大きさの城で構成されていることは把握できた。
「がはは!気に入ったか?」
「なかなか良い雰囲気やわ・・・」男はアメリカナイズされた皮肉で返事をした。
通りではあちこちで談笑する人々が散見されている。男はそこでいくつかの疑問を思いついたので、順繰りに聞いていくことにした。
「安藤、何故みんな粗末で地味な服装なん?お洒落の欠片もないで」
「ああ、一般人は華美な服装は厳禁なのさ。だから支給されるあの服を着るしかないんだよ」
「ということはあれか、あんたは『一般人』やないってことか?」
安藤は自らの服装を見てにやりとした。確かに革ジャンに黒のベルト、年季が入っていそうなダメージジーンズと派手な赤い靴、そして赤と黒の二重線で彩られている数珠は、周りの人々と比べるとどうみても異質である。一方の自分も、黒のスーツに革靴である。途端に男は、もしかすると自分たちはかなり目立っているのではないかと変な不安感を覚えた。事実既に数人が、こちらを見て何かを囁いているように見える。
「まあそれはどうでもいいことだ。がはは」
何がおかしいのか男には全く理解できなかったが、それよりも男にはまだまだ理解したいことがたくさんあった。
「安藤」
「ん?」
「この町はあれだ、例えて言うなら昔の『京都』を思い出すような町並みやなあ。なんでや?」
「おう、そりゃお上の好みからすりゃ必然も当然よ!」
「お上?」
安藤はこっちだと言いながら十字路を右に曲がった。既に4つほど十字路を直進し、その間男は年季の入っていそうな数多の京町屋や、生きている時なら時代錯誤と馬鹿にされそうな髪型―丁髷、重たい長髪、鋤きすぎの前髪、金髪、アシンメトリー―をまるで二十九年ぶりに帰還した日本兵のような気分で睥睨していた。
新たに広がる景色は、左手に巨大な建物が見える通りで、人々の様子はさほど変わらずである。
「お上っつーのは、この空国を統制されているお偉いさんのことだ」
「まあ国や言うぐらいやから、そういう人はいてはるんやろうけど、それ誰やねん」
「誰かって?まあ焦るなって。いずれ教えてもらえるし、お前なら謁見することになろうさ」
安藤は、未だ景色が興味深く感じる男にとっては、時折小走りにならなければならないほどの速さで悠々と歩いていく。男はその背中を追いながら、いささかの疑念を払拭しきれないままで話を変えることにした。どうも安藤が一度はぐらかした話にしつこく食いついても無駄骨な気が強くしてきたからだ。
「そうでっか。ほんなら質問変えるけど、俺はどこに連れて行かれてんねん」
「役場だ」
「役場?そりゃまた、えらい現実味溢れる名称のとこやな。てっきり観光名所のひとつやふたつにご案内してくれてるんか思うてたわ」
「そんなとこここにはねえよ」
ばっさりと安藤は切り捨て、ほらあれだと指差した。
男はこれまた・・・と感嘆の句を漏らす。役場と言われたその建物は、ここには相応しくないほど巨大で、首を再起不能の予感がするまで上げても尚頂点が見えないほどであった。
「濃霧で全然わからへんかったけど、近くで見るとすげえなおい。一役場がこれだけのでかさってどういうことや。ほんで木造っぽいけど木でここまでの建物って造れるんか?これだけやたら現代風やし」
「一役場といっても、この国にはここしか役場ないから仕方ねえでかさなんだわ。ま、大きいことはいいことだしな。それに木造なのは確かだが、造れたから造れるんだよ」
何処かで聞いたことあるようなないような台詞を挟みながら、安藤は玄関までの階段を二段飛ばしで登っていく。
男は仕方なくその後を追った。
役場と呼称されている建物の内部で、まずその天井の高さに男は驚いた。
「やたらでかいんやなあ。人もそれなりにおるわ」
「ここはそれなりに忙しいところだからな。早速並ぶぞ」
そう言うと安藤は一番左の窓口の列へと移動した。男は仏堂のような空間に厳かさを感じつつも、おとなしく着いて行く。薄暗さを少しでも解消するためだろうか、壁際や柱に備え付けられたいくつもの蝋燭の火が、行き交う人々の姿を照らしては消える。男には、それらの人の表情は破顔一笑が止まらなくて困るというものか、この先どうすればいいんだという不安に苛まされているかの二つに一つに見えた。
先に並んでいたの隣に陣取り、男は言った。
「なあ、あそこで結構な人が集まっとるけど、あれはなんなん?」
「あれか・・・あれもお前と同じような奴らだ」
「ていうことはつまり・・・死んでここに来て案内されてるってことか。でもそれやと、何で俺だけあんたみたいな髭もじゃとデートしてんねや?」
「嫌か?いいじゃないかたまには男同士うきうきデートも・・・」
「良い訳あるか!それにうきうきとか死語やでもう」
「そうなんか?ま、死後だけに死語ってな!がはは!」
空国に来て初めて感じる悪寒を何とか退け、男は牛歩の勢いで進む列に気を揉みながらさらに質問をする。
「というかこの列は何や?」
「これは『住民課』の中の『新規入国者窓口』だ。ここで住民登録用紙を貰って記入した後、一番右の窓口に提出してこんな感じの数珠を貰うことになっとる」
安藤は左手首に着けていた数珠を見せながら言った。一見何の変哲のない数珠に見えるが、よく見ると一つ一つの数珠に赤と黒の二重線がある奇妙なデザインのもので、また一部が欠けたりひびが入ったりしており、結構な年季を感じさせる代物だった。
「登録は意味わかるけど、その数珠は何の意味があんねん?」
「うーん、簡単に言えばそいつの『怖さ』とか『力』かね・・・」
男はその時、安藤から発せられた微弱な「畏」「哀」「怒」そして「怨」を感じ、これは冗談ではないと理解した。男にとってそれらは、愛すべき感情である所以だからかと逡巡しながら。
「・・・・・・そうかい。まあ詳しくは聞かへん。どうせこれも後で分かるんやろ?」
「その通り。お前も段々分かってきたじゃないか」
やかましいと男が言うが早いか、一つ前の女が手続きを終え、窓口は二人との距離を開けたままで、次の主役を待ち焦がれる格好となった。安藤は一人で行って来いと男の背中を押した。
一瞬「着いて来てくれへんの?」と言いかけた男だったが、それはいたずらに弱みを標榜するようなことになりそうだと踏み止まり口腔内で抹殺しておいた。安藤は良い奴だとは思うが、どうにも調子に乗らすと面倒臭そうだ。
窓口の前に立つと、いかにも「おばちゃん」といったおばちゃんがこんにちはと声をかけてくる。
「あんたも大変だったでしょう。はいこれ」
お節介な言葉を供えて、おばちゃんは安藤が言っていた記入用紙らしきものを取り出し、目の前に差し出した。
「これか・・・・・・」
「この用紙の項目書いて一番右端の窓口に提出してね。長い戦いになるかもしれんけど、頑張ってね。応援してるから。聞いたと思うけど数珠は一番左端の窓口で渡すからね」
ほら終わったからとジェスチャーを交えて邪魔だということを宣告された男には、退くしか術はなく、窓口からたっぷりと距離を置くように移動した男は、安藤の姿を探した。
「あら・・・あのおっさんどこいってん?」
周りを見回すも、薄暗さも手伝ってか見つからない。あの図体なら目立ちそうなものであるが、男は早々に捜索を打ち切ると、中央に円形状に設置されている記入台に向かった。
備え付けのペンを取り、用紙の項目に目を通す。そこで男はある奇妙な欠落に気付いた。
「あれ…?俺の名前って何やったっけ?全然思い出せへん・・・」
『氏名』の項目を見つめながら男は嘆いた。名前というものは覚えているとか覚えていないとかそういう次元の概念ではなく、言ってみればこの世に産まれ落ちた時から、既に世界を構成する用意されたものだ。その分、それを消失した時の絶望感というのは筆舌に尽くしがたいものである。名前に限らずではあるが。
「くっ・・・・・・あの洞窟に流れ着くまでに忘れてしもうたんか・・・・・・?くそ、まあ仕方ない、後で安藤に聞くしかないわ・・・・・・」
男は不本意ながら『氏名』の項目を素通りすると、性別、年齢、出身などの基本情報を機会的に埋めていった。ただ年齢は『享年』と表記されていたので、男は軽い舌打ちをひとつ打っておいた。
そして用紙の三分の二を支配していた部分に目を移す。
そこには『死亡理由』と明記されていた。男は不意に、始まりの日に記憶を巻き戻していた。
「―。これが計画の第一段階目を纏めた書類だ」
「ああ・・・ありがとさん」
作戦参謀長の仁川が、パイプイスで煙草をふかしながらくつろいでいた俺に計画書を提出しながらそう言った。
大阪都を中央本部として、地下に2つ、地上に3つの拠点を設けている「日本再誕連合」は、今では公安当局が最も注視している組織や。
2025年の日本は名実共に、老人による老人のための老人の国と成り下がっていた。少子高齢化にはその危険性が恒常的に叫ばれていたのにも拘らず、2020年には高齢者人口は3500万人を突破、それに比例するかのように選挙を恐れる政治家たちは老人票の獲得に走り、年々老人を厚遇する方向に固執した。一方で労働者人口に属する者・・・特に若者たちは長引く不況はもちろんのこと、大企業の本社移転や、低賃金で雇えることからの目先のメリットに誘引された経団連が圧力を出し、時の政府が制定した「移民緩和法」により中国や東南アジアからの労働者が増加したことで、雇用情勢や労働環境はは悪化の一途を辿っててん。そして結果的に税収は33兆円までに減少するも、社会保障費は予算の四割を占めるほどになり、誘発されるかのように事実上の年金崩壊も起きていたわ。
さらにはゼロ年代頃から社会問題と目されながらも半ば放置されていたニートや若年フリーター層が「高齢化」し、親を失い生きる糧をなくしたニートがホームレス化したり、中には過激な犯罪に及ぶ者も出現したりして、格差の小差や治安の良さもかつての輝きは既になかってん。
そんな中俺は立ち上がった。この腐敗した国をぶっ壊すために。「日本」と名付けられた老人ホームを再建するために。未来を勝ち取るために。そして「父」のために。
俺はまず、正攻法を試すことにした。即ち国政選挙や。大学時代にその志を同じくした仲間(後に連合の各幹部職に就く男たちやけど)と共に地域政党「若者党」を立ち上げて、衆議院議員任期満了の1年前から街頭演説はもちろんのこと、ネット上での動画配信や生放送への積極的な出演を行い、存在と政策を認知させることに奔走した。着々と人気を獲得していったんやけど、一方で俺らはテレビや雑誌新聞などの旧来メディアには一切登場せえへんかった。それは俺らの意思からというよりも、政策があまりに視聴者層や購買層に不適切だと旧来メディア側に判断されたからやねん。
そうして選挙を向かえた「若者党」だったが、結果は各地で惜敗。いずれも後一歩及ばずで、結局国会議員を送り込むことはできなかった。そして老人票の牙城を打ち崩せなかった俺はその時、プランBを実行する決意を固めたんや。
仁川は計画書を見つめたまま押し黙る俺に声をかけた。
「何か不都合でも?」
「あ、いや、ちょっとばかしぼーっとしてただけや・・・・・・。これでええ。みんなにも知らせてくれ」
「了解」
俺は立ち去る仁川の背中を見つめながら、テレビを着けた。画面には『種子島宇宙センターから新型H2ロケットの打ち上げがもう間もなくです!』と興奮気味に報告するリポーターが映し出されてたわ。俺は鼻で笑いながら、
「宇宙はええなあ。でも俺たちはここで生きていくしかないんや。だから、ある意味では今日うちも『新型の打ち上げ』かもしれんなあ・・・・・・」
俺は安っぽい背もたれに全体重を預け、寿命を知らせるかのような点滅を見せる蛍光灯を見上げた。天井の向こうの地上、その地上の自らと同志たちの手による変革を嘱望しながら。
「・・・・・・おい!」
男が振り向くとそこには柔和な髭もじゃがいた。
「・・・なんや安藤か。ていうかお前何処行ってたんや。ちょっとばかしは探したんやで」
「探すならもう少し大規模にやってほしかったねえ。しかしお前こそさっきから耳元で囁いたり、目の前で手を振ったりしたのに全然気付かんかったぞ。どれだけ呆けているんだ」
髭もじゃの囁きとか気持ち悪いなと思いつつ「すまん」と付け焼刃な謝罪を述べると、男は再び用紙の『死亡理由』に目を落とした。
「ん?お前それ書くのに手を焼いてるのか?」
「まあそんなとこや」
「ああ、そこ自由記述だから書かんでもいいぞ」
「はぁ?ってほんまや・・・」
男は『死亡理由』と書かれた隣に「※自由記述」と追記されているのを今更ながらに読み取ると、おざなりにペンを机に転がした。
「無駄な時間使ってしまったわ・・・・・・そうや、ちょっと聞きたいんやけど」
「何だ?」
「俺、名前が思い出されへんねん。何でや?お前知らんか?」
安藤は顔をしかめながら、決まり悪そうな顔を見せた。
「何やねんその顔。そないあかん質問か?」
「いや、そういうわけじゃねえが・・・・・・すまん、今は言えねえわ」
「ほなここの『氏名』の欄は空白でええんかいな?それならそれで全くおかしな話やで!」
腕組みをして多少の苛立ちを表現した男から、安藤は素早く机に放置されていた用紙を取り上げた。
「おい!何すんねや!」
「まあまあ、俺が出しといてやるからさ。ここで待ってろって」
「ちょっと・・・」
男の反論を待たずに、安藤は一番右端の窓口へと消えていった。男は追いかけようとしたが、この人の多さと薄暗さには太刀打ちできないと思い諦めた。
役場を出た二人は左に曲がった。
「ほんで、次はどこ行くねん?」
「学校だ。ほれ」
安藤が投げて寄こしたのは、赤と黒の二重線の間に白が入った数珠だった。
「着けとけ。ここではそれがそいつの価値を表す」
「価値って・・・って俺の何か色多くないか?」
「まあな・・・俺よりも一本多い。まあそれも学校に行けば分かる」
「そうかい。しかしまあ学校とはまた面倒くさい話やで・・・」
その文句とは裏腹に、男は最早全てを受け入れようと覚悟を決めていた。住民票も出してしまった今、どう足掻いても意味がなさそうに思えて仕方が無かったからである。
街道には相変わらず人が溢れている。その時代錯誤な風貌と町並みに、男は例えば江戸時代の町もこんな感じで栄えていたのだろうかと想像した。男は決して歴史学の大家とは言えないが、それでも興味が無い人よりは圧倒的な興味を持っていたため、空国のこの佇まいには好感を抱いていた。さながら京都・・・もしくは小京都と呼ばれる津和野や出石のようなこの佇まいに。
そして男はひとつの仮説を思いつき、これで質問は最後にしようと思いながら聞いた。
「なあもしかして、そのお偉いさんていうのはかなり有名な人とちゃうか?」
「なるほど」肩で風を切る様子が板につく安藤は、振り向かずに一言返事をする「お前はやはり切れ者だねえ。まあその通りだな」
「予想的中ってとこやな。ということは歴史上の人物が揃い踏みなんか?」
「中枢はそうなっとる。傑物は適材適所、ただここでは政治的素養とか教養とかいう一般的な要素のほかにも、もうひとつ重要なものがある」
安藤は立ち止まり、「俺の役目はここまでだ」と門を見ながらそう言った。それは大名屋敷を思わせるような造りで、やたらと荘厳かつ何かしらの強大な力を感じさせるような雰囲気を醸し出している。
「ここか。『第百八霊学校』言うのが名前か?」男は立て看板に記された文字を精読した。
「そうだ。ここの他にもいくつか学校はあるからな。門を潜って道なりに行けば昇降口がある。まあ心配せずに飛び込め」
「心配言うよりもとにかく面倒・・・・・・」振り向きながら答えた先に、あの髭もじゃの大男の姿はなかった。またかよと独り言を漏らしながら、男は出入り用と思しき扉を引いた。
そして同時に、自分が「霊」と呼ばれる存在になっていることを、今更ながらに痛感していた。
男は庭園の中を歩いていた。
庭園は平等院のような浄土式庭園に、枯山水が合わさった現世では殆ど見られない様式で、また外門の巨大さに逆らわず広大であり、緑色に濁った池や、見慣れた野山を模した築山などの観賞物も一級品の様相だった。
男は池を眺めつつも、意識は眼前にある校舎に吸い寄せられていた。
「これまた金があるんか知らんけどやたらでかいし贅沢な感じやわ・・・ってこの国の経済システムってどうなってるんや・・・・・・?」
「どうなんでしょう?私は『存在しない』と思ってますよ」
ぶつぶつと独り言を垂れ流していた男に、背後から不意の言葉が降りかかった。
「うわっ!あんた、誰や?」男はたじろいて、その声の主を見遣った。
女は腰までありそうな黒髪に、白色のワンピースが良く似合う端正な顔立ちをしていた。前髪も綺麗に切り揃えてあり、目の上に一直線を描いている。
「私ですか?名前は・・・・・・」徐に右斜め下に視線を移す「思い出せないんです。記憶喪失になっちゃったのかも」
「あんたもかいな・・・」男は嬉しいようながっかりしたような気分になった。
「一緒ですね。私はここまでやたら高圧的な女性に案内されてきたんですけど、貴方もそうですか?」
「いや、俺は髭もじゃの大男に案内されたわ。適当な男やったで全く」
男はそこで、役場で見た修学旅行生のような一団のことを想起した。そして、どうやら自分達のような新規空国入国者の処遇は集団で案内されるか、自分達のようにマンツーマンで案内されるかの二つに大別されているかもしれないということを思いつき、今しがた邂逅した女にそれを話した。
「確かにそうかもしれないですね・・・。私達って、期待の新人なんでしょうか?」たおやかな微笑は、この庭園に負けないほどの艶美さであった。
「それか突き抜けた劣等生か、やな」
それは冗談交じりの軽口だった。しかしその一言で、柔和な女の雰囲気は一変した。
「劣等生・・・・・・それは誰のことですか?私のことですか?そうなんでしょ?ねえ?さっさと白状しなさいよ!」
二メートルほどだった二人の距離は、一瞬で零となり、男が自覚したときには既に首に手がかけられていた。
「ちょ、ちょっとまてや!冗談やって!」女の手首を引き剥がそうとするも、その華奢な腕には似合わないほどの力にまごつき、上手くいかない。
「嘘ばっかり!関西弁を話す男なんて嘘しか言わないゴミクズばかりなのよ!私知ってるんだから!」女はヒステリックに喚き、なおも力を込める。
「本当です!嘘じゃありません!冗談です!」
男は色濃く残った関西弁のイントネーションのままで、何とか標準語を捻り出し訂正した。
「・・・・・・そうですか。わかりました。ごめんなさい」
女は存外あっけなく手を離した。男は違和感を振り払うかのように首を動かす。
「・・・先に行ってます。またどこかで会えたらいいですね。では」
先ほどの凶行はまるで白昼夢であったかのように、たおやかな微笑を取り戻したその顔は、可憐さ以外の何物でもなかった。
男は女の姿が校舎に消えるのを待ってから、「なんやねんあの女」と恨み言を言い、校舎へと池の淵をなぞるように歩く。
「しかし、あれだけの力で絞められた割には痛みも何もない・・・・・・。触られた感覚はあったんやけど・・・・・・」
喉仏を押さえその感覚を確かめる。痛覚がないのは、死が関係しているのかそれとも別の要因があるのか・・・・・・。男は自身の様々な部位を抓りながら校舎に入った。
昇降口は無人で、下駄箱が整然と軒を連ねているだけの質素な造りだった。男は靴を脱いだが、よく考えるとまだ「入学」しているわけではないため、当然自分の下駄箱がどれかも分からない。仕方がないので手に持って校内に上がった。
「しかしねえ、これは学校というよりも老舗旅館やな・・・・・・」
昇降口を抜けた男が見たものは、学校にしてはやたらと狭いながらも、これまた木を基調とした「和」を存分に感じられる空間だった。左手には中庭も見え、生花や掛け軸などの装飾品が置かれている。男は近くまで行き掛け軸の文字を読もうとしたが、草書体に首をかしげることしかできなかった。気が済むまで観賞した後、自分が次に取るべき行動の指針となるものを探すために辺りを見回した。
「何もないぞ・・・・・・。普通貼り紙とかあるやろ・・・・・・」見回すだけでは満足できず、狭い空間を精一杯徘徊するもそれらしき情報は見当たらない。さてどうするかと腕組みしたその時、
「ブォーボボー」
「な!なんやねん!」それは開戦を告げる法螺貝の音のようであった。男の肝は絶対零度まで冷やされ、すっかり竦み上がってしまうも何とか立て直し第二波に備える。
「来校された方は、2階の1年0組の教室まで。来校された方は、2階の1年0組の教室まで。来校された方は・・・・・・」
無機質で抑揚のない声が7回響いた後、ぶつりと放送は切れた。男は律儀に全ての放送を聞き終えた後、一応第三波がなさそうなことを確認して、昇降口から見てすぐ右手の階段を登り始めた。
2
安藤は大奥を思わせるかのような、長い廊下を歩いていた。
そもそも安藤にとって今回の特別威令というのは、期待半分不安半分と言った面持ちで拝命したものであった。確かに「あの一件」以降、安藤自身は空国専門で霊学校生徒の選別や教育、それから集魂師の管理や戦果の把握などに従事していた。もしそれらの仕事を割り当ててもらっていなければ、ベトナム帰還兵のように自堕落かつ退廃的な生活を余儀なくされていたかもしれない。仕事をすることで少しでも気を紛らわすことはできたし、その内容も何れは仇を取ってくれる有能な集魂師に関係していたから、時間が経つに連れ積極的に取り組めるようにはなっていた。
襖の前で、「北面の武士」と呼ばれている二人の近衛兵に「すみません」と声をかけられ、安藤は立ち止まった。
「おう、いつもご苦労さん」
「ありがとうございます。一応いつもの『確認の儀』を・・・・・・」
「ああ、ったく面倒だ・・・」
渋々ながら安藤は下着一枚を残し全裸になった。これも現世で奴ら・・・陰陽師が使う「忌器」と(空国では)憎々しく呼んでいるものを持ち込んでいないかとか、「怨霊瀑印」「不授不施印」「救国滅却印」などの呪印を刻まれていないかを確認するためには致し方ないことではあった。一度300年ほど前に、空国を裏切り現世側に着いた霊が出て以降、謀反に対する警護は厳しくなったということは知っているとは言え、面倒なことには変わりない。
近衛兵は遠慮がちながらも丹念に調べ上げると、どうぞと言って襖を開けた。
次の襖へはまだ果てしないとも言えるほどの距離があり、安藤は深くため息を着いた。それは目を凝らして漸く近衛兵の姿が見えるかどうかぐらいの距離である。
「全く・・・・・・次は踏絵だしその次は禅問答・・・・・・第一一つ一つが遠すぎだろ・・・・・・」
小言を漏らしながらも安藤は逆らうことなく三つの「確認の儀」を終えると、漸く最後の襖まで来た。そこには仰々しくも力強い筆跡で『命』と書かれている。ただしそれは、逆さまだった。初見では不気味な印象を与えるものであるが、安藤は既にこれが空国を象徴する印だと、襖の向こうに居る人物に聞いたことがあったため、気になることではなかった。
近衛兵が安藤の到着を告げようとするのを手を振りながら制止し、「御三人!式部大輔安藤影踏、只今到着致しました!」と片膝を着いて呼びかけた。すると一拍置いて、「おおう、安藤か、はよう入れ」とのっそりした返事が聞こえ、安藤は襖を開けた。
「安藤や、よう来たわ。ごくろうさん」
「よう安藤。座れ座れ」
「安藤さん、今回は大変な威令でしたね・・・心中お察しします」
その厳かな雰囲気と国の中枢機関であるにも関わらず、太極殿は畳十畳のこじんまりとした部屋であり、そこに思い思いの姿で座っていた「御三人」は、口々に労いの言葉を正射した。
一方の安藤は顔を顰めながらも驚愕していた。何故なら、この「御三人」が全員揃うことは極めて稀であり、特別威令であっても、大抵は太政大臣である菅原道真―通称道真公―のみがこの太極殿に居て、仰せつかるのが基本だからである。それ故右大臣の平将門、左大臣の佐倉惣五郎が鎮座している光景は、安藤にとって異様かつ新鮮でもあったが、同時に事の重大さを察する助力ともなった。
安藤はぽつんと一枚ひかれた座布団の上に座ると、
「これはこれは・・・・・・御三人が揃い踏みとは・・・・・・『それほど』と考えてもよろしいのですかい?」
一段高くなったところで、いつものように美女を侍らせにたにたしている道真は、惣五郎を意味深な目線で見遣った。女好きは現世換算で1200年ほど経過した今でも変わりないようだ。
「そうみたいです。もっとも私も先ほど道真公からお聞きしたので・・・・・・」
惣五郎は目下の安藤に丁寧な言葉遣いで説明した。彼の生前を考えれば、左大臣という地位はまさに雲の上のものだったに違いない。だからこそ彼は平民の心を忘れず、このような地位に溺れることなき態度を取っていた。
「そうですかい。将門公はどのようにお考えで?」
「俺はあれだ、あいつを将軍とした討伐軍を・・・・・・」意気揚々と語り出そうとした将門を、道真は目線ひとつで閉口させた「冗談だって・・・・・・」
「全く、将門の戦好きには、苦労させられるわい」
道真はおっとりと文句を言うと、傍らに置いてあった擂鉢を取り、擂粉木で何かを擂り始めた。安藤はその中身を知っているが故に、またかと内心呆れた。部屋に小さな悲鳴が聞こえ始める。
「して、彼の男は、私が見込んだ男だったかえ?」
「・・・・・・切れ者、という表現が今は一番当てはまるかと。事実、貴殿らのことを既に勘付いたようで・・・またこの国への順応も手早く終わらせることができていました。ただ性格については、根暗な感じもなく明朗な男に見えましたが・・・」
安藤は慎重に言葉を選んだ。嘘は当然控えるべきだが、かといって殊更に消沈させるようなことを言うわけにもいかない。
「『悪臭』はどうだったか?」将門が問うた。
「悪臭は・・・・・・それはもう凄まじいものでした」
二人が言った悪臭とは、現世での悪臭とは多少意味が異なり、「悪の臭い」のことである。これの濃淡が、そのまま期待値を決めると言っても過言ではない。安藤が入室した折に顔を顰めたのは、この三人が放っていた悪臭のせいでもあった。
「そりゃあ期待できそうだな!根暗が力有りかと言えば、俺はどうなる?」将門は両手を膝に付いて惣五郎に同意を求めた。
「ええ・・・・・・まあ・・・・・・ただ、力の片鱗についてが気になります。本当に『千年に一度の逸材』なんですか?私にはどうも・・・・・・」
「惣五郎や」未だ疑り深い惣五郎を嗜めるような口調で道真が口を挟む「彼の男の魂、もしや見とらんのかえ?」
「いや・・・・・・拝見しましたが・・・・・・」
「なら分かるであろう。あれほどの、怨みを持って死んだ者は、ここに居る安藤以外の私らの他に、一体何人居た?」
道真の問答に、惣五郎は唸りを見せるのみだった。
「道真公の言うとおりだ」将門は布袋を手にとって立ち上がると、壁際に設置してある燭台に向かい、それを炙るかのように火に近づけた。悲鳴がまたひとつふたつと増え、安藤は先ほどよりも大げさに顔を顰めた。
「生前の怨みの強さがこの国での強さ、そして現世での畏れに繋がる!血筋じゃねえモノが力なのが空国だろう?」
「確かにその通りです。いやはや、疑ってしまい申し訳ありません」惣五郎は座したまま、深々と頭を下げた。
「安藤や」意味有り気な呼びかけに、安藤は身構えた。
「何ですかね。私の特別威令は『奴を学校まで案内し、その性格や力を観察しろ』だったはずですが」
「それは、ごくろうさんやった。では、新しい特別威令を、与えるぞえ」
安藤は予定外の発言に面食らった。
「・・・・・・まだ何かしないといけないのですか?」
「そう。その内容とは『彼の男の大目付となり、教育と観察を続けろ』だ。お前には、『第百八霊学校』に、担任教師として、赴任してもらって、他の子たちも受け持ちながら、彼の男に一番の気配りを、バレないように、やってもらいたい」
「ちょっと待ってください・・・・・・本来の式部大輔の仕事は・・・・・・」
安藤は一教師と式部大輔の仕事の差を考え狼狽した。本来式部大輔とは、平安時代に設立された文官の人事考課、授位または任官、行賞などを扱い、また役人養成機関であった大学寮を管理していた式部省の役職で、初期は上から二番目の地位だったが、中期頃に血筋が重視される風潮になり、それまで最高位だった式部卿が形骸化した後は実質的な長官扱いになった。それが空国では、有能な新規入国者を育てる霊学校に関わる雑務や、現世に送り込まれる「集魂師」の統制や訓練などを受け持つ機関の長官と内実は様変わりしていたわけだが、どちらも「教育」の面では一部共通してはいる。
安藤にとってこの職は誇りでもあり、今ではこの国に留まる理由ともなっていた。その分、一教師というのは大幅な降格人事のような気がしてどうにも乗り気にはなれず、目も合わすことなく俯きながら聞いていた。
「心配すんな。代わりの者を用意してあるし、辞めさせるわけじゃねえからさ」悲鳴が聞こえなくなり飽きたのか、燭台に布袋を落とし将門が言った。どうやら「大目付」をやらせることは既に決まっていたようで、この御三人の威令であるなら、安藤に抵抗の術は残っていない。
「わかりました。謹んでお受けさせて頂きます・・・・・・。とりあえず学校へ?」投降の意味も込め、安藤は受諾の返事をした。
「そうだねえ。まあ学校には話付けてあるし、式部大輔の実力、存分に発揮してきなさいよ。心強い応援も呼んでおいたぞえ」
「応援ですか?」
「そう。まあ、行ったら分かるから。後、会ったらこれ渡して」
無責任にも聞こえる道真の声をおざなりに聞き流し、お使いの品を受け取った安藤は、立ち上がり失礼しましたと出て行った。