晩景
涸れた麦に手を添えていると、いつの間にか指から血が滲んでいることがあった。
曾祖母が渡した創膏はなぜかきれいには張り付かなくて、太陽が苛むように照り付ける中で、人差し指の第二間接から流れ出す血液はぽたぽたと乾いた畦道に落ちていた。蟻の堵列が家路を訪ねて、足元に集る。唾を吐いた。
隣には誰が居ただろうか。
地主の娘の美奈子がぼうっと、入道雲を眺めていたように想う。
井戸に落ちて死んだ。蝉がやけに喧しかった。そして美奈子が、
「血が出てるわよ」
と、ぶっきらぼうに、顎を伝った唾を不愉快そうに眺めながら、大方町の青年には向けないであろう仕草で言ったのを、覚えている。
ぼくは虫籠を肩にかけていた。弟がせびった蟷螂を、母親に頼まれて採りに行っていたのだ。空の虫籠からはどこから伝ったか汗が染み出しており、この虫籠が自分のようで嫌気が差した。
「どうするの。もう帰るの」
美奈子が言った。彼女のほうも、早く家に帰りたかったのだろう。
ぼくは指を見て頷いた。
夏の日差しというには少しばかり薄暗かった。夏至はとうに越え、あとは夜陰の長引くのを待つばかりといった風情の空はどことなく陰鬱で、けれど冬のように目に見えたものではなくて、体に纏わり付くシャツのような、そういったものだ。
ぼくは美奈子と並んで歩いていった。知らない香水のにおいがした。
畦道は夕暮れの感傷など微塵も見せず、ここで生まれた人間の空虚さをそのまま映し出している。遠くに浮かんだ山々だけが、蓮の台に乗った天女のたおやかさを明らかにする。しかしそれもまやかしだ。祭りの夜に上気した頬が魅力的にあるのは、彼女たちの顔がただ薄暗いからという理由だけだった。
無言で歩いていく。
脇に立ち並んだ時代遅れの家屋は、日がな障子を開け閉めしている母に似ていた。軒は腐り、鬼瓦にはもはや滑稽さしかなく、数十年経ってもこのままあるだろうと思えた。たとえこの家が朽ちても、また次の家が、このまま、そっくり同じ有様で、顰め面をしているのがありありと浮かぶ。
「浩太くんに、残念だったって言っといてね」
美奈子が土を蹴った。パンプスが汚れるのではないかと問うたら、
「どうでもいいよ。初めから汚れてるし」
と、テレビと同じ口ぶりで返された。ぼくは指から目を背けながら、自分のつま先を眺めた。どこにでもあるだろう黒のコンバースに、唾が落ちている。
やがて美奈子は二股に裂けた道をぼくより少し足早に通ってから、居なくなった。
ぼくは美奈子が居なくなってから、美奈子の吊り上った目玉と、いやに焼けた肌を、どこかしらに、たとえば蝉が止まったやせ細った木に、あるいは弟が使い古したおもちゃに、見出していた。
ひとりきりになってから、人差し指を顔の先にやった。
血はもう止まっている。
だが、爪のところで、どう這い出してきたか一匹の蟻が、落ちないようにと必死でもがいていた。なぜか退けることはできなかった。洛陽の近付くにつれて、蟻の影とぼく自身の影が重なっていく。
弟にはこいつをやろうと思った。