めくるめく捲る―7
始業のチャイムが鳴って授業が始まり、先述の通り何も問題なく時間は過ぎる。そして、六時限目を終えるチャイムが鳴り、今日も一日お疲れ様などと自分を労い帰路に着こうと席を立った。
僕も咲も部活動に入っていない。咲は運動神経もよく体力もあるから部活動に入っていてもおかしくないのだが、どうやら本人にその気はないようだ。人付き合いな苦手の咲のことだから上下関係などもっての外なのかもしれない。咲と帰ろうかと声をかけようとした時に、廊下にいた女生徒の姿を見て止めておくことにした。
「積極的だな」
意外に、見た目とは裏腹に積極的なのか律儀に約束を守ろうとしているだけなのかは解らない。
けれど、今朝の様子から考えても彼女は咲に気のある素振りを見せていた気がするから前者として見てもいいだろう。
廊下には、教室の中を覗いている天海米子の姿があった。探さずとも軽く教室の中を覗いただけで咲の姿は簡単に目に入っただろう。対して咲は、鞄の中に教科書を詰めていた。見ててこっちが恥ずかしくなってしまう青春に遠慮して、僕が一人で帰ろうと出口まで歩こうと一歩目を踏み出そうとした時、とても元気でとても陽気で叫びに近い大声で僕の名前が教室に響いた。
「だああああああああいいいいちいいいいいいいい!」
百獣の王が腹を空かせて餌にかぶりつくような勢いで宮杜が駆けてくる。器用に机や椅子をかわして僕の目の前で止まると上履きの底がきゅきゅーと豪快なブレーキ音を経てた。
「……」
呆然とする僕に宮杜がにこっと笑った。
「さ、帰ろう?」
ごつん、と宮杜の脳天に拳を落とした。
「ふぎゃっ!」
痛みに蹲り頭を擦りながら涙ぐんだ目で見上げる宮杜。
「ななな、何するんだよ糞大地ぃぃぃ」
「何するんだとは僕の台詞だ! いきなり大声出して猛スピードで走ってきて平然とした顔で落ち着き払って“さ、帰ろう?”だと!? まともな誘い方が出来んのかお前は毎度毎度! お ど ろ く ん だ よ か な り!」
自分でも引いてしまう位に大声をあげていた。正直、余裕が無くなってしまうレベルで僕は驚いていた。情けない言い方をすれば怯えてしまった。
「ぶー、いい加減馴れてよー」
すると僕が悪いかのように宮杜は口を尖らせる。え、僕が悪いの? と思わせられるような視線がひしひしと背中に集まっていた。
宮杜の幼稚な行動にクラスの大半が馴れているようで、いつでも少数派は煽りを受けるのか。ああ、世知辛い。などと芝居がかった想いを廻らせていると、痛みが引いてきたのかけろっとした表情で宮杜が立ち上がった。
「ま、ラビチキな大地じゃあ何時まで経っても馴れることはないかもねっ」
「なんだよそのどこぞのコンビニの商品名のような言葉は」
「ラビットアンドチキン。略してラビチキだよーん」
完璧に馬鹿にされていた。話の流れからして俗語扱いなのだろうから、要するに僕は寂しがり屋で臆病者、と言いたい訳だ。認めたくはないが的を得ている。得ていても的はないと虚言を吐こうかとした時、不意に誰かに名前を呼ばれた。
「永久、永久大地」
フルネームで呼ばれた僕は声のした方に首を捻った。僕に視線を合わせて僕に向かってくる男子生徒がいたから一目瞭然で判別出来る。
「なんだよ、委員長」
彼はこのクラスの委員長であり運動センス良、頭脳明晰、容姿端麗と三拍子揃えた規格外だ。明らかに神様が人に割り振るパラメータを勘違いしたとしか思えないようなレベルでこの世に君臨した生まれながらの勝ち組だ。因みに、彼の家は豪邸だという噂がある。あくまで噂でしかなく、そんな彼だから四方八方から尾ひれはついていると思うのだが、事実だとしても納得するだけだ。やっぱりね、と苦笑してしまうだろう。そんな彼の名前を僕は知らない。まともに話したこともなければ向かい合ったことすらないのだ。そんな彼にフルネームで呼ばれたのかと認識した時、僕の表情はさぞかし間抜け面だったことだろうと思う。
「何を呆けている、永久。俺が永久の名前を呼んだことがそんなに意外か?」
「ん、いや、よく名前を、それにフルネームで知っていたなあと思ってさ」
「当たり前のことを言うな。それとも俺を愚弄しているのか?」
「そんなつもりはないさ。でも、何が当たり前なんだ?」
見た目どおりプライドが高いようだ。言葉には少し気をつけよう。ただでさえ僕は口が悪い。
「当たり前は当たり前の事象でしかないのだ。俺はお前の名前だけではなく、このクラス全員のフルネームを覚えている」
「……は?」
少しだけ、自分でも顔が引き攣ったのが分かった。
「これから一年間同じクラスなのだから名前ぐらい覚えていて当たり前だろう。それに俺は学級委員長だ。推薦され決まったにしろ、覚悟をして学級委員長になったのだ。このクラスの代表となると、覚悟してな。それならばこれは当たり前のことでしかない。そうだろう? 永久」
驚いた。きっと、あらゆる世界を見渡してもここまで学級委員長という面倒な役割に責任を持って取り組む人間はいないだろう。某マルオ君もびっくりである。
彼は無口で高圧的で冗談を言おうものなら蔑むような人物だと、勝手な憶測で僕やクラスの人間は思っていた。だから、彼はいつも一人で本を読んでいる。けれど、それは違うのかもしれない。確かに彼は無口で高圧的で冗談を言わないかもしれないが、冗談をこちら側が言っても蔑みはしないのかもしれない。クラスの代表となる覚悟をして――という言葉の裏には、クラスの全員に向ける慈愛に似た優しさがあるのかもしれない、と、そこにいた誰もが感覚として受け取っただろう。
「はいはーい! 私の名前を言って御覧よ!」
空気を読まないことにかけては右に出るものはいない宮杜が沈黙を破って叫ぶ。
「宮杜桜。お前の名前など下手をすれば全校生徒に知れている」
流石にそれは有り得ないと思うが確かに宮杜はちょっとした有名人だ。童顔で幼児体系。ぱっと見ではこの前までランドセルを背負っていたと言われても疑わないような元気娘。
それでも宮杜の下の名前を知っている者は少ないようで、微かに驚きの声がちらほらと鳴った。
続けて、同じクラスの女生徒が口を開いた。
「じゃ、じゃあ……私の名前、知ってますか?」
「江藤明日香だろう?」
次に隣の女生徒が。
「わ、私はっ?」
「草野鈴、だ」
少し距離を離して男子生徒が。
「俺の名前も知ってるのか?」
「津島信二、だな。お前等、そんなに人の名前を記憶していることが珍しいのか?」
驚くな、という方が無理な話だ。普通、有り得ないだろう。一介の高校生が、それも中学を卒業したばかりの子供が、クラスメイトの名前を完璧に把握しているなんて。それも、顔と合致している状態で、だ。
人は人に忘れ去られた時に初めて絶望を識る。
と、何処かの頭のいい人が言ったそうだ。その言葉は裏返せば、人に知ってもらえた時に大なり小なりの喜びと幸せを得るということではないだろうか? そして、僕は委員長に駆け寄る幾人に人間を見てそう感じた。
「凄い凄い! 委員長って凄いんだね!」
「そんなことはない」
「頭が良くて顔も良くて運動も出来て責任もあるのかよ。超人だな、委員長」
「超人などおらんさ」
駆け寄り、大絶賛である。けれど、委員長はそんな称賛を功績と思うような素振りはなく、適当に相槌を打っている。
「すっげえなー。俺なんか小学校の頃に遊んでた奴の名前も思い出せねえってのに」
と、一人の男子学生が言った時に委員長は、皆を固まらせる行動を取った。
「なんでやねん。お前は奴隷か!」
ばしっと手で突っ込みまで入れた。そして棒読みだった。
放課後の教室が凍った。あの宮杜でさえ笑顔のまま停止している。
「おかしいな。ボケには突っ込みで対処しろと本に書いてあったのだか」
皆の表情と伝染した空気に不信を抱いたのか首を捻って委員長が訝しむ。
「委員長、一体なんの本読んだんだよ……」
僕が聞くと委員長は恥ずかしげも無くこう答えた。
「”平本新喜劇推奨! 初めての会話”だが、それがどうかしたか?」
「……」「……」
「……」「……」
数秒の沈黙が流れて。
「……っぷ」
誰かが耐えられなくなった空気を吹き零し。
「あはははははは!」
教室の中は大きな笑いに包まれた。
「委員長! それは違うって間違ってるって!」
「し、しかも”お前は奴隷か!”って茶の間が引くよそれ!」
僕も流石に奴隷はないと思う。どういう発想力なんだろう。
「ふん、中々の良本だったのだがな。コミュニケーションとは奥が深い物だ」
あはははと爆笑する渦の中心には心底悩んだ様子の委員長がいて、その様子が全く意外でそれもまた面白かった。
しかし、委員長は無口ではなかった、ということが解った。ただ、会話の仕方が解らなかっただけなのだ。そして、会話をする為に家でコミュニケーションのノウハウ本まで買ってしまうような生真面目さを持っていたのだ。今までは、無口で高圧的で傲慢で文武両道の才色兼備だと勝手に決められていた。けれど、今はどうだ。高圧的で文武両道で才色兼備という点は変わらずとも、人付き合いの苦手な不器用な頼れる高校一年生と思えてくる。
「そうだ、永久。お前を呼び止めた理由を忘れていた」
「ああ、そういやなんなんだ? いきなり」
といっても、僕の委員長に対する態度は変わらなかった。なにせ、僕は人付き合いが苦手だから。その本質は、人を疑うことから始めるというキリストが嘆きそうな物体だ。だから、僕は委員長を信じていない。最初から何も信じていないから委員長が変わった行動を起こそうと委員長になつくようなことは、一切ない。
「宮杜のことだ」
「この元気印がどうかしたか?」
元気印の少女はといえばお腹を抱えて苦しそうに笑っていた。しかも涙まで流している。
「宮杜の宿題の不正に絡んでいるのは、永久だろう?」
「……それがどうかしたか?」
薄々感づかれていることは解っていた。何故委員長が僕にそれを言ってきたのかは知らない。もしかしたら委員長だから教師に言われたのかもしれない。そんな妙な手回しをする教師がいるとは考えにくいけれど。だが、たかが宿題如きで不正とは過言ではないかと思う。
「この先どうするつもりだ。宮杜が進級を仮に出来たとしても、この先ずっと宮杜の宿題をやってやるつもりか?」
耳の痛い言葉だ。それは正論でしかなく間違っているのは圧倒的に僕だ。確かに、宮杜の宿題を僕がやっていても宮杜は進級できて卒業も出来るかもしれない。実際、宮杜はこの高校に入学した位なのだからそこまで頭は悪くないはずだ。だから、追試になれば人の手を借りるかもしれないが通るだろう。けれど、本当にそれは正しいのか?と言われれば、絶対的に違う。
委員長はこの先ずっと、と言った。卒業までではなくこの先ずっとだ。
宮杜がもしもこのまま、いつまでもこのままだとしたら、それがずっと宿題に手を貸した僕にも責任があるのだとしたらどれだけ問題があるだろう。宮杜が社会に出た時に、やらなければならないことを誰かに頼むことが出来るかといえば、基本的には有り得ない絵空事なのだ。社会に出た人間は平等に忙しく、平等に大変で、自分のことで精一杯だ。誰かの荷物を持っている暇はない。
あまりにも突飛な話かもしれないが、誰より無邪気で誰より純真で、未だ子供のままの宮杜を見るとそんな不安を抱いてならない。だから、だから僕はこの時に覚悟した。朝に思っていたことを正式に胸に刻み込んだ。
「それについては考えがある。その内に真面目に宿題させるから今は見守っていてくれ」
宮杜に勉強を教えよう。それは難しいことだろうけど、子供に勉強を教えるのは大変なことだろうけど、宮杜は僕の大切な友達だ。大切な友達でありながら、可愛い妹のような気さえするのだ。だから、そう、決意した。
「そうか。なら良い。出すぎた真似をして悪かったな」
「いや、いいんだ。しかし本当に委員長は責任感があるんだな。クラスの生徒の心配をするなんて」
そう言うと、委員長は踵を返した。
「委員長なのだから当たり前だ」
自分の机の横にかけてある学生バッグを取って教室を出た委員長を見送って、クラスメイト達は各々友人達と委員長を称賛していた。確かに、僕も委員長は凄い、と言葉にならない感銘を受けた。勿論その通りなのだが、僕が考えたことといえば"これでクラスメイトの株が上がったな"とか考えてないといいけど、という、王様の耳を暴露した青年が叫んだ穴よりももっと深い穴に閉じ込めておきたくなるような、僕の中で最も嫌いな泥泥の性質なのだけれど。