めくるめく捲る―12
「本日もお疲れ様ねぇ、永久くん」
「はるかさんもお疲れ様です」
平日の閉店は九時。休日は十時である。初めて僕がこの店に来た時は日曜日だったのだが、僕をバイトに引き入れようとしたかなたさんが急遽九時に閉店したらしい。
客のいなくなった店でカウンターに「疲れたぁ」と突っ伏せるはるかさんはとても可愛らしい。はるかさんに暖かい紅茶を、かなたさんにコーヒーを出し、僕はカウンターの簡易シンクで洗い物を片付けていた。
「ふむ。永久君も大分馴れてきてくれたようで助かるな」
コーヒーを啜りながら一言告げるかなたさんの言葉に安易に喜んでしまう。未だにコーヒーだけは客に出させて貰えないけれど。理由は明白だ。
第一にこの喫茶店に来る客の九割が彼女達目当てだということ。だから、コーヒーでも彼女達が淹れる物を飲みたいと注文の際に断りを入れてくる。
第二に、彼女達――特にかなたさんの淹れるコーヒーが本当に美味しいということ。
だから僕が客にコーヒーを出すには、最低でもかなたさんよりも美味しく淹れれるようにならなければならない。中々遠い壁のように思えるのだが、こればかりは仕方ない。その為、僕がこの店で行う仕事は雑務全般と調理補助となっている。幾つかの料理は出来るようになったものの種類の多いこの店のメニューを覚えるのは生半可では無かった。
「いえいえ、まだまだ精進します」
だから、自惚れないようにかなたさんの褒め言葉に少しふざけながらも全面で認めるということは避けた。
「うむ。良い心がけだ」
かなたさんの口調は至って素のようだけど。
「今日は何を食べていくのぉ?」
この喫茶店で最も嬉しいことは働いた後に食事が付いていることだ。その食事に対して金額も発生しないので、僕は丸々一食分浮く計算になる。それも、正直な話、一人で食べる味気ない食事から少しでも遠ざかることが出来て僕は嬉しい。
「適当に野菜でも炒めようかと思います」
「それじゃあお肉も使いなよぉ。賞味期限ぎりぎりのがあると思うからさぁ」
はるかさんに言われて冷蔵庫を物色してみると確かに賞味期限の間近な牛肉があった。
「ありましたけど……いいんですか?まだ使えるとは思いますが」
牛肉の賞味期限は二日後だ。これは間近ではるけれど、肉類の賞味期限としては妥当だろう。
「いいよいいよぉ。お客様に翌日賞味期限の物なんて食べさせられないしねぇ」
賞味期限が妥当なのだからこの食材は今日買ってきた物という訳だ。うっかり者のはるかさんの事だから間違えて買いすぎてしまったのだろう。
「全く。お人好しだな」
「えへへぇ」
肉を炒めながらふと思う。未だに僕はこの二人の関係性を聞いていない。姉妹なのか、友達なのか。二人とも年齢不詳で若くも大人っぽくも見えるからどうにも判断がつかない。明らかに僕より年上なのは解るけれど。まあ、友達だろうと姉妹だろうと納得出来る関係性だ。この二人が心を通じ合える程に仲良しだという点は見ていれば解るのだから。
「はい、出来ました。口に合えばいいんですけど」
二人に差し出した野菜と肉の炒め物。ご飯とサラダもつけて簡単な夕食の出来上がりだ。
「永久くんの作る料理はなんでも美味しいからぁ」
「でも、僕はそんなに手の込んだ料理はしていないですよ」
「手の込んだ料理をする時間もないだろうしな」
フォローとも軽く吐いた気分的な言葉とも思えるようなかなたさんの言葉に「ええ」と頷く。
元々料理は好きだった。まだ家族四人で暮らしていた頃、母の料理を進んで手伝ったりしたものだ。この店に来るようになってからは料理が仕事になった為、どうしたらもっと美味しく料理が出来るのかを試行錯誤してはいる。
「美味しぃ」
「ふむ。悪くない」
二人から褒め言葉を頂いて、僕もカウンター席に座って料理に口をつけた。うん、おかしな味付けはしていない。無難に普通に悪くない味だ。今度隠し味程度にごま油でも入れてみよう。かなたさん好みにするなら鷹の爪を塗した方がいいかもしれない。そんな事を考えていると、不意にかなたさんが口を開いた。
「そういえばだ、永久君。学校では女の子に人気がある方か?」
急に問われた内容に進めていた箸を止めて横目でかなたさんを窺う。
「いきなりどうしたんですか?」
「あ、それ私も興味あるなぁ」
と、身を乗り出してはるかさんまで話に加わってきた。
「全然ですよ。僕には花の話は御座いません。ああ、でも今日から学園のアイドルに昇格したとある男の委員長はいますけど」
あの委員長といえば放課後にまたもや人並みに揉まれていて慌てふためいていたことを思い出す。
「ふむ。そうか。その委員長には興味がないのだが、永久君と同じ学校の制服を着た女の子が店の前でうろちょろしていたのでね。それも店内を覗き見るようにだ。てっきり永久君に恋心を抱く女の子なのかと思っていた」
「ないですよそんなの。お二人があまりにも美しいもんだから尊敬の眼差しでも向けていたのではないですか?」
「お世辞を言っても給料は上がらないぞ」
「もぉ、永久くんったらぁ」
各々に反応する二人を見て本当に正反対の人達だな、と考える。だからこそ通じ合える程に仲が良いのかもしれないけれど。
食事を済まして洗い物を片付けて、制服に着替えて荷物を持つ。
「それじゃあ帰ります。お疲れ様でした」
「お疲れ様ぁ」
ひらひらと手を振るはるかさんの後ろで「また明々後日、頼むな」と次の出勤に向けてかなたさんに送られる。
外は真っ暗で外灯だけが頼りの不確かな世界に変わっていた。小さな音でさえ聞き取れる程に神経が研ぎ澄まされているのが身に沁みて解る。
僕は、少しだけ暗いところが恐い。あの事件の後遺症なのかもしれないけれど、夜になると感覚が敏感になる自分に気づいた。
石の転がる音が聞こえた気がする。同時に、誰かの息遣いも聞こえた気がする。同時に、誰かが近くにいた気がする。
でもそんな筈はない。そんな筈はないのだと首を大きく横に振り、背中に感じた悪感を振りほどくようにして高砂駅まで駆けた。
頭の中ではぐるぐると恐怖が渦巻いていて、必死にこんなものは妄想だと言い聞かせる。少しでも恐怖に飲まれれば直ぐにこれだ。僕は未だにあの時の、僕の家族を殺した、姉さんを殺した男が恐くて仕方ない。薄暗い闇の中でフードを被った男が姉ちゃんの命を蹂躙したあの男が恐くて堪らない。
恐怖に恐怖を重ねて、最後に行き着くのはいつも同じ場所。僕は最も自分を赦せない。姉ちゃんを守れなかった自分を赦せやしないのだ。
僕は僕を赦せない。誰も僕を赦せない。
僕は僕を赦さない。誰も僕を赦させない。
僕が僕を赦すことはない。誰にも僕を赦す権利はない。
最も醜く泥沼に嵌った心をどうあがいても振り払えない。
「姉さん……僕、強くなれないよ……」
あの時の記憶が薄れる日は無い。あってはならないのだ、と。強く願う。