めくるめく捲る―11
僕のバイト先は学校近くの田慈宮駅から家に向かって二つ目の高砂駅近辺にある小さな喫茶店だ。この喫茶店で僕は週三日働いている。平日一日と、休日の二日。僕の家の近くの別府駅から一駅ということもあって良いバイト先を見つけたなあと自分の運に感謝をしている。問題点は多々あるけれど。
元々僕はバイト先を探してこの店を見つけたのではなく、この辺には何があるだろうと探索気分でぶらぶらと歩いていた。田慈宮学園に入学する直前の春休みの時だ。歩くうちに一駅隣まで来ていたらしく、足も少し疲れてきた頃に妙に目の引く外観に釣られて喫茶店の中に入ったのだった。
この町の雰囲気にあったレトロな外観。見過ごしてしまいそうな中でどうにも目を引いたのは、店にも町の雰囲気にもそぐわない鮮やかな星だった。星は入り口の上部の看板に描かれていて”Sincerity space☆”とセンスが良いのか悪いのか判断がつかない。
中に入ってみるとカウンター席が六つと四人がけのテーブル席が三つある、長方形の小さな店だった。外観同様レトロな空間ではあるのだが、壁に貼られたお品書きが見事に場違いで”はるかかなたの苺パフェ”とピンクのマジックで書かれてたり”かなた愛飲コーヒー”とブルーのマジックで書かれてたりと、演出も奇抜ながら商品名は混沌というおかしな店だった。
店内は予想以上に客がいて、満員ではないにしろ七割の席に客がいた。
「いらっしゃいませぇ」
席に座って手持ち無沙汰になった頃、甘ったるい声で店員が水を持ってきた。どこぞのメイド服と見間違うようなふりふりのフリルをつけたウェイトレスの胸元にははるかと可愛い文字で書かれたネームプレートがある。
「こちらメニューになりまぁす」
差し出されたメニュー表。商品名がとにかく混沌だった。とりあえず僕は無難にアメリカンを頼む。
「アメリカンを一つ下さい」
「……」
明らかに聞こえている筈なのにウェイトレスはにこにこと笑顔を向けているだけだ。
「あの、アメリカンを一つ……」
「……」
ああ、そういうことかと心の内で納得する。
「かなたのドキドキアメリカンを一つ下さい」
「はぁい。わかりましたぁ」
正式名称でないと反応してくれないわけだ。
どうやらこの喫茶店はには現時点で“はるか”と“かなた”という二人の店員がいるらしく、客の目当てもこの二人の女性のようだった。
比較的早くに出されたコーヒーを啜りながら二人の女性店員を見てみる。
水を出してくれたはるかという名の店員は周りにふわふわとした柔らかな空気を振り捲くおっとりとした女性だ。栗色の髪を縦に巻いていて童話のお姫様に通じる物がある。
対してかなたという名の店員は常に背筋を伸ばしていて着ている服もフリルは付いておらずスマートな美人を彷彿とさせる。ショートカットの藍色の髪も彼女を際立たせている要因の一つだ。僕の実姉に似た雰囲気を持つクールな女性。
この後にすることもなかった僕は店内にある漫画を手にっとて適当に時間を潰していた。時折はるかさんが話しかけてきたりして、それは全て漫画の内容の話であり、この店に置かれている漫画ははるかさんの趣味なのだな、と想像する。
かなり漫画に熱中してしまい、気づけば外が暗くなっていて時刻は九時になっていた。店内に客がいない気がしてきょろきょろと周りを見渡していた時だ。
五時間いてはるかさんとは幾度か会話をしたがかなたさんとはまだ一度も話していない。まあ、普通の喫茶店ならばそれが普通なのだが、この喫茶店はどうやら普通とは程遠いようなのではるかさんがクールな上に無口な人、という位置づけでいいのかもしれない。
そんなはるかさんが店の奥から歩いてきて、驚いたことに僕の胸倉を掴んだ。
え? なに? なんかしたか僕?
混乱が脳内を圧迫した。何より一番今慌てている理由ははるかさんが目と鼻の先にいるという事実だ。先述の通りはるかさんは美人さんだ。緊張しない訳がない。
「お前、この店で働かないか?」
「……」
いきなりそんな事を言われて挙動不審にならざるを選ない。だが「どうなんだ?」と脅されるように何度も問われて思わず根負けした僕は――
「は、はい……」
この店で働くことを決めてしまったのだった。驚いた事にこの店ははるかさんとかなたさんの二人できりもりされているらしい。
初めてこの喫茶店に来た時の事を思い出しながら、今はバイト先となった店内へ足を踏み入れる。時間は午後四時過ぎ。店内に客は近所のお爺さんだけのようだ。
そのまま店の奥まで行って小さな厨房の中に入る。店の内装とは違い白いタイルが張られた厨房は清潔そのものであり、僕も掃除しているが彼女達が丁寧に仕事をし、掃除をしていることが解る場所だ。
厨房にはドアが二つあり、一つは裏口に通じる扉。休日や平日でも既に忙しい時に出勤する際はこちら側から入るように言われている。もう一つの扉は二階に通じている。この喫茶店の二階は彼女達の家になっていて、住居も兼ねているようだった。
「おはようございまーす」
二階に上がり襖を開けて挨拶をする。するとそこにはフリルが付いた白のスカートにTシャツ一枚を着て大の字で眠っているはるかさんが大きないびきで出迎えてくれた。
「……これ見たら客の方々が幻滅しそうだな」
はるかさんは可愛らしいおっとり系に間違いはないのだが、プライベート中は気を抜いているのかやや爺臭い面がちらほらと窺える。
「おはよう。永久君」
声のする方に振り返るとかなたさんが立っていた。黒のパンツに白のカッターシャツ。上には黒のベストを羽織っている。
「今日はそういう日でしたっけ?」
「いいや、私の個人的な気分だ」
この店では月に一回イベントがある。そのイベントの内容はといえば、はるかさんとかなたさんが何かにコスプレするという内容。僕はまだ一度しか経験していないが、その時ははるかさんが某アニメキャラクターの服、かなたさんが某格ゲーキャラクターの服を着ていた。僕はいつも二人が着ているメイドっぽい服を無理矢理着せられた。メイクまでばっちりされて、しかも客の反応が思いの外悪くなかったというのが嫌で嫌で堪らない。その日の時給が千円でなければ首を縦には振らなかっただろう。因みに基本時給は八百五十円だ。
「それじゃあ今日いらっしゃる客は幸運この上ないですね」
「それを狙っての気分でもあるからな」
要するに、毎日来たら時たま違う服を着た二人に会うことが出来るという策略か。客の集客率アップを考えているのだろうけど、その策略は絶対に吉と出るに違いない。
唐突にかなたさんがだらしなく眠っているはるかさんに目を向けた。
「ふむ。お邪魔だったかな?」
「今の状況をどんな角度から見れば邪魔だと感じたのですか?」
「照れなくてもいい。これから寝ているはるかにあんなことやこんなことをするつもり満載だったのだろう?」
「するか!」
そこで待っていたかのように一瞬にして距離を詰めるかなたさん。いつかの時と同様に胸倉を捕まれて息のかかる距離まで問答無用に近づいた。
「永久君はいつから私と対等になったのかな?」
嵌められた、と察する。かなたさんは事あるごとに僕を虐める機会を探している究極の暇人、基、虐めっ子気質溢れる方だ。
「ご、ごめんなさい」
それも迫力が半端ではない。謝った僕を見て口角を上げ妖笑したかなたさん。僕は瞬時に危険を察知した。かなたさんのこの表情は何か面白いを思いついた時のあくどい顔だ。
かなたさんの細い腕が肩を掴んでどこにそんな力があるのかと疑ってしまうような力で容易くバランスを崩された僕はごろんと横に転がった。
――ピロリロリーン。
間抜けな音が響く。音の出所を向けばかなたさんが携帯を構えていた。撮られた。あたかも僕が押し倒したかのようにはるかさんの顔の横に手を付いた姿が撮られた。
「さて、これで永久君を脅す材料がまた一つ増えたな。今日も一日頑張るとしよう」
僕を脅す材料が増えたことと今日一日頑張ることがどう繋がるのか僕には全く不明瞭なのだが、終わってしまったことは仕方がないとして、別室で作業着に着替えた僕は真面目に仕事をこなしていた。
厨房から遠目に覗うと、はるかさんはあの甘ったるい声で客に愛想を振り撒き、かなたさんは無愛想に客を歓迎しては高嶺の花ということを客に認識させている。
「仕事は仕事、プライベートはプライベート、か」
彼女達は今日も沢山の客に囲まれていて、店はかなたさんの計算通り繁盛していた。