プロローグ
僕が初めて先輩を見た時、先輩は泣いていた。
とても美しい純粋な黒の長い髪がふわりと風に誘われている。人気のない四階の廊下で、窓を開けて空を眺めながら、嗚咽を零すわけでもなく静寂の中で涙を流していた。
つう、と頬を伝う液体が小さな顔から離れた時、僕には先輩が天使や神の使いではないか、と疑った。それ程先輩は美しく、気高く、凛々しく、素敵で、女神のようだった。けれど、どんな言葉も先輩には足りず、間違いであるような気がした。言葉で言い表せない人間なのかと絶句した。
それから先も先輩を色々な場所で見つけた。
神出鬼没な先輩はいつも一人だったけど、それが寂しそうだとは感じなかった。
その日、僕が先輩を見た時、先輩は空を見上げていた。
優雅に日向ぼっこするかのように屋上のフェンスに腕をかけて、青空を見上げている。不意に先輩が空から目を離して真後ろにいる僕を見た。先輩を見詰めていた僕を見たのだから当然のように目が合ってしまい、胸が大きく跳ねた気がした。頭に靄がかかった気がした。凝視する先輩と目を離せなくなった僕。
つかつかと歩み始めて尚視線を逸らさない先輩。逃がさない、という意思が覗える。
「どうした」
言葉はとても簡潔だった。僕に対しての敵対心こそ感じないが、煩わしいという感情が視線から言葉となって流れ込んできているかのようだ。しかし、想像とは残酷だ。まさか彼女の口から「どうした」という高圧的な言葉が出るとは思ってもみなかった。
「なにも」
それが正しい答えだった。僕は先輩に用があって屋上に来たわけではなく、ここから飛び降りようと考えて屋上に来たのだから。そうしたら先輩がいて、お決まりのように見惚れてしまった、というだけの話。
「そうか」
またも言葉は簡潔だった。その簡潔さが先輩の協調性の限界なのか、それとも単に僕に声をかけることを面倒臭がっているだけなのか、後者のようにも思えるけどあまりにも先輩が堂に入っているものだから判断が出来ない。
まあいいか。どちらにせよ終わるのだから。
心の中で呟いて、未だ僕を凝視し続けている先輩の横をすりぬけてフェンスに向かった。しっかりと網目のフェンスに右手をかけて、左手をそれよりも上に、同時に左足もフェンスに。誰の制止もなく僕は向こう側に足をつける。実際、足を置くスペースもない場所に足を置いているのだから、後ろ手にフェンスを掴んでいないと簡単に落ちてしまう。
躊躇は無かった。恐怖も無かった。僕はただ祈っていた。ただ願っていた。僕の世界に終わりを下さい。それ以外何も、望みません……。
「おい」
「なに?」
おいと呼ばれるとは思わなかった。先程もそうなのだが、先輩はもっと上品な言葉を使うと勝手に想像していた。
「何故死ぬ」
「疲れたから」
「何故私の前で死ぬ」
「偶然貴方が屋上にいたから」
「どうして私に何も言わなかった」
「……はあ?」
「私は聞いた筈だ。どうした、と出来る限り優しく。それなのに君は何も言わなかった」
あれで優しかったのかと苦笑する。そして、そういう意味を含んでいたのかと呆れた。あの四文字では何も伝わりはしないだろう。赤の他人であるのだから。どうやら先程の考え、前者が正解だったようだ。
だが、それならばと僕は口を開いた。
信じて貰えない可能性ばかりがあるけれど、それでも僕は良かった。なにせ、先輩が信じてくれるとは信じていないから。
後ろ手に掴んだフェンスに力を入れる。この話が終えるまでは死にたくない。この話が終えるまでは落ちたくない。けれど、この話が終われば飛び落ちてしまおう。そう、心に決めた。
そう。
これは、三日前に全てが始まった――。
一日一度、夕方以降に更新予定しております。
その日の気分で投稿数は変わりますが、よければ覗いてみて下さい。
感想、酷評、指摘は随時受け付けております。些細なことでもいいので一言いただけると幸いです。